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ベンガル文学の翻訳にあたって

「現代インド文学選集」が完結してから、早くも3年半がたちました。この選集は、インドの代表的な言語で書かれた文学を直接翻訳紹介する初めての試みとして、画期的な企画だと思います。

私は、若い頃からベンガル文学の豊かさ・多様性に触れ、それを生きる糧としてきました。より多くの作品を日本の読者の手元に届けたい、という気持ちを抱きながらも、さまざまな理由から、いままでその思いを十分に果たせずにきました。

今回、めこんのホームページに、ベンガル文学の翻訳を連載する機会をいただけることになりました。これから月に2回のペースで、ベンガルの近現代作家の作品を、簡単な解題とともに掲載していきたいと思います。

連載に当たっては、ベンガルの自然と社会、そこに生きる人びとの多様性が、読者の皆様に具体的なイメージとして伝わるよう、努めます。楽しんで読んでいただければ、幸いです。

 

20201012日 メルボルンにて

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チョンディ女神になった新嫁

チョンディ女神になった新嫁 解題

 

ビブティブション・ボンドパッダエのこの作品は、前回掲載の「押し車」と同様、彼の最初の短編集『雨を呼ぶラーガ(メーグ=マッラール)』(1931)に収められています。原題は「(ボウ)=チョンディ神の野」ですが、わかりにくいので、このように題を変えました。

 

チョンディ(サンスクリット読み「チャンディー」)神は、もともと、先住民の間で信仰されていた森の女神が、ヒンドゥー教の浸透とともにシヴァ神の妻ドゥルガー女神の化身として神々の中に座を占め、代表的な女神として広く信仰されるようになったと言われています。しかしそのいっぽう、ベンガル農村の女性たちが日常的に供物を持って祈願に訪れる女神の聖所は、多くの場合立派な寺院ではなく、木の下に土偶を並べただけの簡素なものです。このように、民間のチョンディ神信仰は、もともとの土俗的な性格を保持しています。

この作品は、ベンガルの口承文化の中で、このような土俗的な女神信仰が、なぜ、どのようにして生まれるかを描いた、由来譚として読むことができます。物語に登場する「ウロ=チョンディ」、「ボウ=チョンディ」といった、女神の名前の前につく修飾語は、そうした土俗信仰の、さまざまな由来を物語るものです。

 

また、この作品では、ベンガル農村の自然景観が細部に至るまで描き込まれており、そうした景観を彩る多様な植物の名前が、たいへん多く登場します。煩雑になるため、前回と同様、いちいち注をつけることはしませんでした。関心がある方は、西岡直樹さんの『インド花綴り』および『とっておきインド花綴り』(いずれも木犀社)をご参照ください。

 


 

チョンディ女神になった新嫁

ビブティブション・ボンドパッダエ

 

村の川の淀みに入り込むと同時に、舟はイヌタヌキ藻の群れに絡め取られた。

土地測量官のヘメン旦那は言った —— アラビヤゴムモドキの木の幹に、縄を回して、縛り付けるんだ ......

川の本流の方で引き潮が始まったため、リスノツメの棘だらけの茂みの下から水が退いて、少しずつ川泥が見え始めていた。

ヘメン旦那は言った—— ちょっと舟から下りて、どこにピンポールがあるか、確かめてくれないか? なるべく早く、カナプリでの測量を終わらせたいから ......

その午後のひとときがあまりに美しかったので、私はとても仕事をする気になれなかった。後続の連中が舟から下り、場所を決めてテントを張るだろう。測量担当の監査官がまもなく県庁からやって来ると言うので、できるだけ早く仕事を始めようと、全員が急いているのだ。副官補佐のヌリペン氏は、仕事を覚えるため、今回はじめてカナプリでの仕事にやって来た。歳はまだいっていない、若造である —— だが彼は、川なかで舟が揺れる毎に、ひどく怯えていた。たぶん、恐がっているのを知られたくないのが理由で、いまの今まで、屋形の中に眠るふりをして横たわっていたのだ —— それが、陸に舟が着いたと見るや、さっそく屋形の中から姿を現した。そしてその少し後、ヘメン氏と言葉を交わすうちに、何かをめぐって、やや喧嘩腰になったのだった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

私はヌリペン氏に言った —— 借地法がどうのこうのと、いい加減になさいな。そんなことより、舟から下りて、テントの場所を決めに行きませんか —— 明日の朝からすぐに仕事が始められるように ......

チョイトロ月が終わろうとしていた。村を流れる川の両岸に溢れかえる、蔓のように伸びた緑色の木々には、チョウマメの青い花びらが咲き誇っている。竹藪はところどころ川縁に垂れ下がり、その下ではアコンドやゲントゥの茂みが、そよ風に吹かれながら、花籠を頂いた頭を揺らしている。陽に灼かれ褐色になった雑草が辛うじて生えている両岸の原っぱのところどころに、ほとんど裸のアラビアゴムの木が見え、その木に止まったシャリク鳥の群れが、キチキチ声をあげている —— 左岸の川縁の隠れ穴の中に彼らの巣があるのだ。川縁のオオカラスウリの茂みの下には、ところどころ、セイヨウノダイコンの群れが盛り上がって見え、そのちっぽけな黄色の花叢からは、ある種濃い、ナツメグのような香りが漂ってくる ......

陽がすこし翳り出してから、私たちは、川淀の横に広がる原っぱに、テントを張る場所を探しに出かけた。村は川縁から少し離れてはいるが、村の女たちが水を汲みに来るのはこの川しかない。私たちの舟が繋がれた場所の左岸の、少し離れた場所に、地面に階段を刻んだ土造りのガートがある。夏の日の夕刻、おそらくは水浴をしようとして川にやって来た、一人の村の老人に、私たちは訊ねた —— ロシュルプルは、どの村の名前ですか、旦那? 正面のあの村ですが、それとも、その横のですか?

彼は答えた—— いや、あれはクムレ村で、その横の村はアムダンガです ...... ロシュルプルは、この二つの村の向こう、一里ほどの距離ですわ ...... で、あなたたちは?

私たちの自己紹介を聞いて、老人は言った—— この野原に、テントを張るおつもりですか? 測量の仕事が終わるだけでも、5, 6 ヵ月は ......

—— それくらいはかかるでしょうね、むしろそれ以上 ......

—— ここは、神様の場所なんです。村の女たちが、祈願しに来るのですよ。ここより、もう少し離れた、川の入り口の方にテントをお張りなさい。でないと、女たちが、少し困ることになる ......

老人の名前は、ブボン・チョクロボルティ。測量が始まると、チョクロボルティの旦那は、自分の必要から、何度も書類を抱えてテントを訪れるようになった。彼はすっかり皆と顔見知りになり、親しく言葉を交わすようになった。彼が父親から受け継いだ土地を、いろんな連中が不法に占拠している、私たちの力で、それがもし解決できたら —— こんなようなことを、彼は私たちに、しょっちゅう言い聞かせた。

私はそこに長くはいなかった。カナプリでの仕事が始まったその日に、私は県庁所在地に戻るつもりだった —— だが、満ち潮を待つうちに、舟を出すのが遅くなった。チョクロボルティの旦那も、その日テントにいた。話のついでに彼に尋ねた—— この場所を「(ボウ)=チョンディ神の野」と呼ぶそうですが、それはどうしてですか、チョッコティ [チョクロボルティの口語形] の旦那? なにか、あなた方の ......

ヌリペン氏も言った—— ちょうどいい機会だ。教えてくださいな、チョッコティの旦那、「(ボウ)=チョンディ神」って、いったい何のことです? ...... 聞いたこともありませんや。

私たちの問いへの答として、チョクロボルティの旦那の口から、驚くべき話を聞くことになった。彼は語り始めた—— では、お聞かせしましょう、昔の話ですが。子供の頃、父方の祖母から聞いた話です。この地域の古老たちなら、この話は知っています。

 

当時、この村には、裕福な一家族が住んでいました。今となってはもう、その子孫の誰も残っていませんが、私が話している当時、その本家の主、ポティトパボン・チョウドゥリの名は、知らぬ者とてありませんでした。

このポティトパボン・チョウドゥリの旦那が、三度目の結婚をして、新嫁を家に迎え入れた時、彼の歳は50才を超えていました。さして高齢というわけでもありません。とりわけ、道楽好きの恰幅のいい方だったので —— 50才とは言いながら、年齢よりずっと若く見えました。新嫁を見て、一家の誰もが、たいへん満足しました。三度目の結婚ということで、チョウドゥリの旦那は、やや歳のいった、大柄な娘を選んだのです。年齢は17才になろうとしていました。顔貌はとても美しく、その輪郭は、まるでトランプのハートのエースのようでした。そのつぶらかな、鈴が張ったように大きく見開かれた両の瞳は、何とも言えぬ落ち着きに満ちていました。その働きぶり、そのもの静かな様子を見て、近隣の人びとは、こんな嫁は、今までこの村に来たことがなかった、と讃えました。彼女が話す時、その目はいつも地面を見ており、義理の叔母たちがたとえ自分より年少でも、その前ではサリーの裾で顔を覆います。誰もが口を揃えて、姿形だけでなく、その性格もラクシュミー女神のようだ、と噂したものでした。

でも、2, 3ヵ月して、大きな問題がひとつ、持ち上がりました。嫁は、他の点では申し分ないのですが、ただ一つ大きな欠点のあることが、誰の目にも明らかになったのです。彼女は、どうしても夫に寄り添うのがいやで、全力で避けて通ろうとするのです。最初のうちは、結婚し立てでもあるし、まだ子供なので、こんな振る舞いをするのだろう! と誰もが思ったものです。しかし、次第にはっきりしたのは、夫だけでなく、男であれば誰を見ても、彼女はわけもなく恐がって、身を震わせるのです。家に供犠か何かの大きな催しがあって、外からたくさん人が集まる日には、彼女は部屋から出ようともしません。夫の部屋には決して入ろうとせず、月に一日か二日、皆が優しい言葉をかけ、その身体を手で撫で、夫のもとに送ろうとしても、彼女は、一人一人の足下にひれ伏し、それぞれに哀願して、どうしても言うことを聞こうとしないのです。男性の声を聞いただけで、まるで凍りついたようになるのです。

さんざん説き伏せたあげく、ある日、皆で彼女を夫の部屋に送り込み、扉に閂をかけて閉じ込めてしまいました。チョウドゥリの旦那が、夜更けに部屋に入って見ると、彼の三番目の妻が、部屋の片隅に、おろおろした様子で佇みながら、ブルブル震えている。その後は、もはやどうあっても、決して彼女は夫の部屋に行くことを欲せず、家中の人びと全部の手足にすがりついて、皆にこう懇願したのです —— 私、とっても恐いんです、私のことをあんな風に送り込むのは、もう止めてください ...... お願いですから。 .......

何とか説き伏せようと、家人たちは躍起になりました。

何日か経ったある日、皆で示し合わせて、彼女を無理やり夫の部屋に入れ、外から扉を閉ざしました。彼らは、こうして少しずつ馴らしていけば、やがて恥ずかしさも克服するだろう、と思ったのです —— さもなくば、いったいいつまで、こんなもったいぶりを、我慢できましょうか? ところが、皆が明け方に起きて見ると、嫁の姿は部屋になく、家中どこを探してもその影も形もない。実家が近くの村だったので、そこに逃げたかと思って使いをやりましたが、使いが戻って来て言うには、彼女はそこにも来ていない、と。次に皆は、池に身を投げて死んだに違いない、と言い出す。池に網を投げましたが、何も見つかりません。嫁のあどけない顔と罪のない目つきが、おそらく人びとの胸に、他のどんな疑いも浮かぶ余地を、与えなかったのでしょう。四方八方手を尽くして、どこにもどんな消息も得られなかった時、チョウドゥリの旦那は、その心痛を慰めるため、四番目の妻を迎えたのでした。

ど田舎で、もの珍しい出来事も滅多に起きないので、この事件をめぐっては、長いこと、あれこれ噂が絶えませんでした。しかし、次第にそれも絶え、村は静まりました。この野原の東端、村の中に、チョウドゥリ家の屋敷がありました。当時は、ここを通って川が流れたものです —— 干あがって淀みとなったのは、つい最近のことで、私たちが子供の頃は、まだ、稲をいっぱいに積んだ舟が往き来するのを見たものです。次第次第に、チョウドゥリ家の人びとは死に絶え、家系に最後に残った人がひとり、ここを引き払って、他のどこかに住んでいます。こうしたことが起きたのはずっと昔、少なくとも七、八十年は経つでしょう。でも、その頃から今日まで、ここらの野原では、まことに不思議な出来事が起きるという噂です。

まもなくファルグン=チョイトロ月の猛暑がやって来て、牛飼いたちが、牛に草を食ませるために姿を見せます。彼らは、遠くから何度も見たのです ...... 野原を囲む森の中、人気ない真昼時に、竹藪の蔭に誰かが横たわっているのを ...... でも側に行くと、誰もその姿を見ることはできないのです。 ...... 日暮れ時、牛の群れを追って村の中に向かう時も、暗い薮の中から忍び泣く声が響いてくるのを、彼らは何度も耳にしています。 ...... 月明かりの夜、多くの人が、川のガートから戻る道すがら、シチヨウジュの木の下枝の下を通り過ぎる時、遠くに望まれる野原の夕闇に霞んだ月明かりの中を、白いサリーを着た誰かが、次第次第に遠ざかって行くようです —— 彼女の全身を覆う白いサリーに月明かりが落ちて、キラキラ光り続けています。 ...... 野原に夕闇が迫る頃、一面花に覆われたセイロンテツボクの樹下に立って目を凝らすと、誰かが少し前にここに立って枝を引き下げ、花を摘んで行ったように思われるのです ...... その人の小さな足跡が、点々と、薮が深まる方角へと向かっています。

野原の縁のこのシチヨウジュの樹の下が、ウロ=チョンディ神の聖所なのです。チョイトロ月の晦日に、村の嫁たちは、ピテ [黒糖・ココナツ等を米粉でクレープ状に包んだもの] 、絞りたての乳、そして取りたてのサトウキビから作った黒糖を持って、(ボウ)=チョンディに祈願をしにやって来ます。ボウ=チョンディ神は皆に安寧をもたらします。病気になれば治し、初産の母親に乳が出なくなっても、女神に祈りを捧げればまた乳が出るようになる。幼児の風邪は治り、息子が外地にいて便りが届くのが遅くなっても、女神に願を掛ければ、すぐにいい知らせが届く。女たちに困り事があれば、皆をその困難から救い出してくれる。 ......

 

チョクロボルティの旦那の物語は終わった。その後さらに、いろいろな話題に話が及んだ後、彼と他の皆は立ち上がり、帰って行った。

陽がだいぶ翳ってきた。夕風に吹かれて、シチヨウジュの森は、サラサラ音を立てている。村の野原は、ずっと遠くまで、凸凹のある土手とゲントゥの花の茂みに、すっかり覆われている。左の彼方には、煉瓦の野焼きのための古い窯の一部が、ウダノキの列の間から見え隠れする。

舟の船尾にすわって、迫り来る夕暮れ時、80年前に逃げ去った村の嫁の経緯に、思いを馳せていた。野原のただ中の、高く盛り上がった地表を覆う、ゲントゥの花の茂みに目を遣ると、こう思われてくるのだった —— 彼女は、きっと一日中、あの花叢の中に隠れてすわっていて、夜が更けてから、やっと、隠れ場から出て来るのに違いない。そして、野原の中にあるバンヤン樹の蔭に、黙ったまますわり、空の星の方を見つめるのだ、と。 ...... その側の薮に咲き誇るチョウマメの花の青に溶け込むように、川の水は流れる ...... シチヨウジュの森の鳥たちは、夢うつつの中、歌声をあげる ...... 向こう岸からは、ひゅうひゅう風が吹いてくる ...... 彼女は、おそるおそる、東の方角に目を遣っては、夜明けの光が差すまでに、あとどのくらいの間があるかを、繰り返し確かめるのだ!

日がとっぷり暮れ、森の上には、九日目の半月が上がった。その少し後、上げ潮に乗って、私たちの舟は纜(ともづな)を解いた。川岸の闇に閉ざされた、人気ない藪の中から、ほんとうに忍び泣く声が聞こえてくるかのようだった ...... もしかするとそれは、夜目覚めている森の鳥の鳴き声か、何かの虫の音であったのかもしれない。

淀みの入り口を過ぎて川の本流に至った時、後ろを振り返って見ると、人気ない村の野なかを、白い靄のヴェールで顔を覆った、茫とした月明かりの夜が、次第次第に、まるで盗人のように、姿を現し始める —— 遙か昔の、あの羞じらいに身を竦めた、臆病な村の新嫁のように! ......


押し車

押し車 解題

 

今回から、ビブティブション・ボンドパッダエ(1894-1950)の作品を、連載いたします。

ビブティブション・ボンドパッダエは、サタジット・レイ(ベンガル語で「ショットジト・ラエ」、1921-1992)監督の映画、『オプー三部作』(『大地のうた』・『大河のうた』・『大樹のうた』)、および『遠い雷鳴』の、原作者です。タゴール以後のベンガル文学で、最もよく読まれている作家の一人です。同じく1930年代に文壇に登場した、タラションコル・ボンドパッダエ(1898-1971)、マニク・ボンドパッダエ(1908-1956)とともに、三人のボンドパッダエと、並び称されます。

ビブティブションの小説は、ベンガル農村の自然と生活¬が中心的なテーマですが、霊的な世界を扱った作品も少なくありません。また、ビハール州奥地の森林を描いた長編小説『森の世界』(1939)は、近代ベンガル文学を代表する傑作のひとつに数えられます。

彼の生涯や文学の特徴については、林良久訳『大地のうた』(新宿書房)の解説に詳しく書かれていますので、ぜひご参照ください。

 

「押し車」は、彼の最初の短編集『雨を呼ぶラーガ(メーグ=マッラール)』(1931)に収められています。ビブティブションには、子供の世界を描いたすぐれた作品が数多くありますが、この小品も、そうした作品のひとつです。

なお、この作品も含め、ビブティブションの作品には、ベンガルの農村生活に密着した、さまざまな植物が登場します。あまりに煩雑になるため、今回、いちいち注をつけることはしませんでした。それら植物のひとつひとつについては、西岡直樹さんが、『インド花綴り』および『とっておきインド花綴り』(いずれも木犀社)の中で、美しい絵とともに、親しく描写されています。こちらも、ぜひご参照ください。



 

 

押し車

ビブティブション・ボンドパッダエ

 

寝床から起きたばかり、お日様は、やっと顔を出したか出さないか ―― 裏口の扉の外の、ウドンゲの木の上では、シャリク鳥 [インドハッカ、ムクドリ科の鳥] が何羽かキチキチ声を上げ、羽根をパタパタさせて騒いでいる。ぼくは起きてから、昨夜食べ残したバナナの揚げ菓子が、台所の天井から吊り下がった籠の中の大きな鐘青銅の深皿に、ぼくらのために取ってあるのを、どういう理由をつけて母さんにねだったらいいか、顔を洗う前にねだるのがどれだけ得策か、そんなことをあれこれ考えていた。とその時、家の外扉の側で、一台の押し車のゴロゴロいう音がして、それと同時に、甘い、鈴の音のような呼び声が響いてきた ―― トゥニィィにぃぃ さぁぁん! おおい、トゥニィィ……。

すぐさま、ぼくの歳老いた叔母さんが、手に何かを振りかざしながら、すごい剣幕で駈け出した。

――こんな朝っぱらから、よくもまあ? まだ烏だって眠っていると言うのに、うちの子を呼びつけて、家から連れ出そうってわけ? 朝だろうが、夕方だろうが、昼間だろうがお構いなし、年がら年中、ゴロゴロ、ゴロゴロ音を立てて…… 今度、ホル・ガングリの家に行って、言ってやるわ、昼も夜も、車をゴロゴロ引きずって、ほっつき歩くままにさせて、あんたの息子の来生、ろくなものにならないわ…… さあ、さっさとお帰り。トゥニは、今は行かないわ。まったくいやになるわ、いつもいつも、車のゴロゴロ…… 早くその車、持って行って!……

ぼくが無邪気な顔で、唯々諾諾(いいだくだく)と、叔母さんの背後に佇ちつくした頃には、押し車の音は、ぼくらのガートへの道を通って、遠く、また遠くへと、聞こえなくなっていた。その後、ぼくが手と顔を洗いに庭に出ると、裏口の扉の側から、微かな声が耳に届いた ―― おおい、トゥニ兄さん……

ぼくは、一度背後を振り返って、叔母さんのいる場所とその目の届く方角を測ったあと、さっと裏口の扉を開けて、外に出た。朝まだきの蓮の花のように、無垢で、嬉しさにはちきれそうな幼いノルが、笑みでいっぱいの丸い目を見開いて、そこに立っていた。

――トゥニ兄さん、行かない?

――起きたばっかりだよ。まだ顔も洗っていなけりゃ、何も食べていないのに…… おいでよ!

ノルは目配せして言う ―― どこに?

――叔母さんは何も言わないさ、中においでよ……。

――顔を洗って来てよ、トゥニ兄さん…… ぼく、ビワモドキの樹の下で、車を持って、待っているからさ。乗るよね、トゥニ兄さん?

二人揃って、村の中心へ出かけて行った。タマリンドの樹蔭の遊び場は、子供たちでいっぱいだった。ムクッジェ [ムカルジ(高位バラモンの姓)の口語形] 居住区の子供たちは、一人残らずそこにいた。ノルは笑顔で呼びかける ―― おいでよ、ポトゥ兄さん、ニタイ兄さん…… ぼく、車を持ってきたんだ…… ほらね、ちょうどいい時に来たでしょ? さあ、乗って……。

押し車は、ノルがひとりで、曳き続けた。誰もが乗った。

ポトゥが言った ―― お昼になったら、ぼくらの家に来るかい、ノル?

ノルは首を横に振って断った。

――おいでよ、ノル…… あの日は、叔父さんと鉢合わせになったからな。今度は、そんなことにはならないよ。

――ぼく、もう、兄さんの家には行かないよ。叔父さんったら、あの日、本気でなぐりかかるところだったんだ…… 毎日毎日、車を押してほっつき回るもんじゃない、って言ってた。ぼくが逃げ出さなかったら、きっと、さんざんぶたれていたよ。今度会ったら、車を取り上げられるかもしれない。

二人揃ってその場を離れ、道端の大きなムラサキフトモモの樹蔭にすわって、話をした。毎日毎日、どんなにいろんな話をしたことか。大きくなったら誰が何になるか、それがいつもの話題だった。

チビ助は、まだとても、将来のことを思い巡らすような年頃じゃなかった! 大きくなったら何になるかなんて、順序立てて話せるわけはなかった。突拍子もなく、船頭たちの大将になるんだとか、汽車のエンジンを動かすんだとか、言う。あるいは ―― 蒸気船を動かす連中のことを、何と言ったっけ ―― それにもなりたがった。ぼくは、同じ齢の子供たちと比べると、少しませていたので、こんなふうに言ったものだ ―― ぼくはね、白人式の治療ができるお医者さんになるんだ……  県庁所在地の裁判官になるんだ……。

日が高くなっても、彼は強い陽射しが照りつける中を歩き回り、赤く火照った顔で家に戻った。父親がいる方を避けて、別の方角から、そおっと家に入る。彼の母親は言ったものだ ―― 何て子なの、朝っぱらから家を出て、もうこんな、真っ昼間だというのに、今頃になってあんたは……。

――しーっ! そんなことないよ、ぼく、ほら、トゥニ兄さんちの、ムラサキフトモモの樹の下にすわったまま、黙って遊んでいたんだよ、ぼくと兄さんで…… どこにも行かなかったよ、母さん! ほんとだよ……。

 

でも、どういうわけか、このチビ助のことが、ぼくはとても好きだったのだ。村の他の男の子たちと比べて、彼の顔や目に、その言葉に、どんな魅力があったと言うのだろう…… 一日のうち、少なくとも一度は、彼と会わずにはいられなかった。チビ助のほうも、ぼくの家に寄らずには、村の中のどこにだって¬、出かけることはなかったのだ。

日によっては、家の前のムラサキフトモモの樹の下を通って、車を押しながら、昼前に家に帰っていくこともあった。ぼくの顔を見ながらこう言う ―― あのニタイのやつ、すごくずるいんだよ。何度も言ったんだ、乗りなよ、君を押して、牛飼い集落まで行って、戻って来るから…… でもね、どうしても、乗ろうとしないんだよ。母さんに叱られるから、油を買いに行くんだ、って…… ねえ、トゥニ兄さん、乗らない?

――今日は、他には誰も、乗ろうとしなかったんだね、チビ助?

――ぼくらの集落では、誰も乗らなかったんだよ、ずーっと探して歩いてるんだけどね…… ほんとに、みんな、ずるいんだよ。来てくれる、トゥニ兄さん?

チビ助の哀願するようなまなざしから、その頃のぼくは、どうしても逃れることができなかった。ぼくは押し車に乗った。チビ助は喜び勇んで、チョイトロ=ボイシャク月 [3月半ば〜5月半ば、真夏の季節] の真っ昼間の灼けつく太陽を、まったくものともせずに、車を押して走り回ったのだ。太陽のほうも、その仕返しに、彼の幼い顔を真っ赤に染め、その服を汗でびちゃびちゃにせずにはおかなかった。

彼はまだ、年端も行かない、痩せ細った女の子のような体格だったので、体力では、集落のどの男の子にも太刀打ちできなかった…… 誰との間でも、不当な扱いを耐え忍ぶしかなかったのだ。誰もが何の苦もなく、弱者に対する強者の権利を、彼に対して行使したのだった。

 

その日はとても暑かった。チョイトロ=ボイシャク月の陽射しを浴びて、村の道に積もった土埃は、炎のように燃えていた。ポンチャノン [「五つの顔を持つ者」、シヴァ神の別名] 広場では、村あげての催しの場が設けられ、その上は組んだ竹で覆われていた。誰もが朝から日暮れ時まで立ち働いていた。

大きなピトゥリ樹の下に、チビ助の押し車のゴロゴロが響きわたった。オヌが言う ―― そら、ノルが来るぞ。

背後に刎頸(ふんけい)の友のベニヤ板製押し車を従えて、ノルが現れる。設置された舞台を指さして訊く ―― 芝居はどの日にあるの、トゥニ兄さん?

情報を得て、彼は満足げに笑った。押し車のほうを指して言った ―― 乗る、ポトゥ兄さん?

ポトゥは首を横に振って言う ―― ぼくが乗ったら、誰が曳くんだよ?

チビ助は喜び勇んで答える ―― ぼくに決まってるでしょ?

楽しみを前にして、彼の顔も目も、期待に輝きわたった。

――バカな! おまえがぼくを、曳くだって? 曳けるかどうか、試してやる…… ぼくなんか、無理に決まってるだろう……。

――乗ってよ! ちゃんと、曳いてみせるから!

ポトゥの番が終わると、オヌ、ピル、ホルの順で、そこにいた男の子たちは皆、押し車に乗った。大きな子、小さな子、さまざまで、それを曳くのに、チビ助は息を継ぐ間もなかったが、それでも彼は奮い立って、皆を最後まで、ちゃんと引き回したのだ。全員を乗せ終えると、彼は笑顔で、皆を見渡して言った  ―― 今度は、ぼくをちょっと、曳いてみて!

皆が互いの顔を見合わせはじめた。その様子から、誰も曳く気がないのがわかる。彼のことを哀れに思って押し車に乗ってやり、それを曳かせることで恩を売ってやったのに、彼を乗せて、他の誰かに曳か¬せかるだと? そんな権利が、いったいどこにあるんだ? 皆が一致して、そうした気持ちを表していた。

――へえ、皆を乗せてあげたのに、ぼくの番になると、誰も……。

ぼくは、彼を車に乗せて、曳いてやりたかった。でも、同年輩の男の子たちにからかわれるのが怖かったか、あるいは、彼らに歯向かって行動する勇気がなかったと言うべきか ―― とにかく、そうすることができなかった。彼は、車を曳いて、その場を離れた。

男の子たちの間で、前もってどんな示し合わせがしてあったのか、ぼくは知らない。車が少し遠ざかると同時に、一団の中の一人が、焼いて固くなった大煉瓦を手に取ると、押し車めがけて、投げつけたのだ。

押し車の底が、その瞬間、めりめり音を立てて、マッチ箱のように裂けた。チビ助は背後を振り返り見た ―― なにか茫然とした様子だった ―― それから、急いで被害の程度を調べるために押し車に近づき、その状態を見定めると、もう一度驚いた目で、ぼくらの方を見た。続けて彼は、ぼくにまなざしを落とした ―― 彼の目の痛みに満ちた驚き、何が起きたのか理解できないでいるそのまなざしが、ぼくの胸を矢のように貫いた。その目は言っていた ―― トゥニ兄さん、兄さんも、仲間だったの?

でも、彼は誰に対しても何も言わず、こわれた押し車の横にしゃがんで、それを見つめていた。すでにその前に、ぼくを取り巻く一団は、その場を後にしていた。

そのあと、彼は長いことその場にしゃがみ込んで、こわれた押し車を左右に揺らしては、車の裂けた底がどうやったら直せるか、試していた。傍らでは、一本の小振りなアダトダ・ヴァシカの木の枝に、白い花叢がいくつも揺れていた。そのすぐ横のベンガルガキとヒマの茂みの縁に押し車を置いて、しばらくしゃがみ込んだ後、彼は車を押して運び去った。

 

一晩中、よく眠れなかった。朝、彼の家に駈けつけて、仲直りすることができればよかったのだけれど、そうするのが何となくためらわれた。チビ助は毎朝やって来る習慣だったのに、その日は姿を見せなかった。ぼくに裏切られたと思い込んでいたのだ。

二日、三日と経つうちに、一週間あまりが過ぎた。

そのすぐ後、ぼくは家族皆と一緒に、母方の叔父の家に出かけることになった。末の叔母の結婚式があったのだ。そこから家に戻るまでに、10ヵ月足らずの日々が流れた。

戻っても、チビ助に会うことはなかった。彼は、その前のポウシュ月 [12月半ば〜1月半ば] に、百日咳で死んだのだ。帰宅して10日ほど経ったある日、彼の家を訪ねた。チビ助の母親が中庭にいて、日干しにしたイヌナツメの実を、拾い集めていた。ぼくを目にすると言った ―― トゥニ、戻って来たのね? …… ぼくが口を開く前に、彼の母は、わんわん泣き崩れた。

――それでも、トゥニ、あんただけは来てくれたのね…… この家まで来てくれる子なんて、他に、誰もいやしない…… チビ助は、私を置いてきぼりにして、行っちまったの! ちょっと待って、ザボンの実の大きくなったのが、中にあるから、切ってあげるわ、塩をつけて、食べて? どんどん実が大きくなるのに、食べる人がいないの…… チビ助がどんなに好きだったか…… お食べなさいな、そこにすわって。

秋の午後。澄みわたる青空の下、翳った夕刻の陽射しの中を、何の鳥か、翼を広げて漂っている。軒蛇腹がこわれて屋根下にあいた割れ目のあたりから、野鳩の鳴き声が聞こえる…… 中庭の日陰を通って吹く心地よい風は、干したイヌナツメの実の匂いでいっぱいだ!……。

チビ助の、あの押し車を見た。庭の木の棚の下に置いてあった、曳き紐も一緒に。その車には、長いこと、誰ひとり、触れることすらなかったのだ……

 

はるか昔のことなのに、目を閉じて思い起こすだけで、ありありと見えてくる ―― いったいいつの日のことか、8歳のあのちっぽけなチビ助が、例の押し車を曳いて、歩き回っているのは。人気ない真っ昼間、野鳩の鳴き声の中、家を出て、パール家のレンブ樹の庭園の蔭を潜り抜け…… ぼくらの家の大きなデイゴの樹下の道を通り、赤く火照った顔で、希望と喜びに満ちた輝く目で、あのベニヤ板の押し車を曳きながら、彼はやって来る…… ココヤシの木の下を抜け…… ポトゥたちの家の、年に二回実をつける、大きなマンゴーの樹の下を通り…… こうして進むうちに、次第しだいに彼の姿は、マイティ家の池の曲り角、檳榔樹の列の蔭に隠れて、見えなくなってしまう。……。



暗黒

暗黒 解題

 

「暗黒」は、文学誌『日報ボシュモティ [世界]』の、ベンガル暦1352年新年号(西暦19454月出版)に掲載されました。彼の故郷、ビルブム県ラブプルの鉄道駅を舞台に、駅で歌を歌って乞食する盲目の少年ポンキと、ケムタ踊りの女性歌手の間の、交流が描かれています。

ベンガルの鉄道駅や汽車の中は、歌って乞食する人びと、食べ物・飲み物・生活用品を売る行商人たちの、賑やかな活動の場所で、ときに、驚くほどの歌声に出逢うことがあります。この作品の主人公ポンキも、ラブプル駅に実在した、そうした乞食の少年をモデルにしています。

 

ポンキの出自はバグディ。ビルブム県に最も多い、ナマシュードラ(不可触民)の出自集団の一つです。女性歌手の出自は分かりませんが、ケムタ踊りの踊り子・歌手となれば、高カーストの出身ではあり得ず、おそらくは、同じナマシュードラ(不可触民)の出身と思われます。(物語の中で、ポンキが彼女の足を拝する許可を求めた時、彼女には、かつて、そのようにされた体験がなかった、と述べられていることからも、彼女が低い出自の出身であることが窺えます。)にもかかわらず、ポンキは彼女を「タクルン」と呼びます。「タクルン」は「タクル」(神様)の女性形で、もともとはバラモンの女性を指し、一般に高位カーストの女性への尊称として用いられます。しかしこの場合は、ポンキが、社会的に成功した歌手である彼女に対して抱く、距離感と崇敬の念を表しています。

女性歌手に対して信仰にも似た愛情を抱くポンキ、彼岸をもとめる信愛の念に満ちた女性歌手 — この二人の間の交歓とすれ違いが、二人の会話を通して、濃やかに描かれます。そして、「その(きら)めきが目に刺さる」と「黒いお方、あなたを待って」の二つの歌が、この二人の心情を、象徴的に表しています。(後者は、「黒いお方」(クリシュナ神)の訪れを待つ、人妻の愛人ラーダーの立場に立った、信愛歌です。

 

「ケムタ踊り」は、ジュムルと呼ばれる歌謡に合わせて踊られる、民間舞踏の形式で、ビルブム県を含む西ベンガルの辺境地帯で、広く行われてきました。女性の踊り子兼歌手を中心に、伴奏者数名(ハルモニウム、ドゥギ・タブラ、コンジョニ、竹笛、バイオリン等)を伴った職業グループを形成し、地域の祭祀や縁日に出向いて、あるいは裕福なパトロンに招かれて、上演します。歌謡の内容は、この作品にあるように、ラーダー=クリシュナ神話に基づく恋愛を歌ったものが多いです。

この小説に登場するグループは、ボルドマン市を拠点にした著名なグループらしく、ラブプル周辺の祭祀か縁日に招かれて、演奏した帰りなのでしょう。(ボルドマン市は、ビルブム県の南に接する、ボルドマン県の県庁所在地で、西ベンガル州の経済文化の中心地の一つです。

 

楽器について:

ハルモニウムは、インドで歌謡の伴奏に用いられる箱形のオルガンで、左手でリードに空気を送りながら、右手で鍵盤に指を走らせて演奏します。

ドゥギ・タブラは、タブラ・バンヤとも呼ばれる、一対の太鼓。伴奏用の楽器として、古典音楽から民謡まで、幅広く使われます。右手で高音域のタブラを、左手で低音域のドゥギ(バンヤ)を鳴らし、それらを組み合わせて複雑なリズムを刻みます。

コンジョニは、木の細長い枠に、小さなシンバルを二組嵌め込んだもので、片手で振りながら、歌のリズムに合わせてシャンシャン音を立てます。

また、盲目の乞食ポンキが歌の伴奏に使う手太鼓(ドゥブキ)は、円形の平らな太鼓。携帯用の簡便なもので、歌い手が腰につけたまま左手で叩き、リズムを刻みます。 



暗黒

タラションコル・ボンドパッダエ

 

支線の小さな駅である。

赤い石屑を敷き詰めた、地面と同じ高さのプラットホーム、それも、一つしかない。プラットホームに接して、駅名を示した小さな煉瓦造りの建物の中に、駅事務室があり、それに接して、トタン屋根で覆われた駅舎がある。屋根の下には煉瓦で囲った輸送用小荷物の保管所があり、その横のちっぽけな部屋の扉には、こう書かれている ―― 「女性専用」。

駅事務室の後ろ側が、紅茶と軽食の売店になっている。インド鉄道の認可を得た売主の店である。駅舎のトタン屋根は、その建物の壁から斜めに下りている。駅舎のすぐ向こうは、貨物置き場へと導く引き込み線。そこからは、まっすぐ北に向かって、赤土の村道が伸びている。ユニオン評議会[英領時代に導入された地元評議員による限定的な自治組織]のおかげで、その両側に溝が掘られた。定規で線を引いたようなまっすぐの溝ではなく、蛇の這った跡のように、くねくねしているのではあるが。それでも、田舎紳士のように、それなりの体裁を整えてはいる。村人はステーション・ロードと呼ぶ。評議会のノートにも、そう書かれている。

駅の区画、ないし領域は狭い。切符売り場、認可済みの紅茶の売店、貨物置き場、二本の側線。それっきりだ ―― 駅の境界はそこで終わる。境界のすぐ外、道の両側に、何軒かの家がある。パーン・ビリ・紙巻きタバコに、紅茶・軽食を売る店。二軒の石炭取り扱い事務所。駅の売店の店主の家。これらの横に、ある成金旦那が建てた、煉瓦作りの家。あとは空き地である。巨大なバンヤン樹の蔭の、きれいに掃き浄められた空間。遠くの村々から、馬車や牛車でやって来た人びとは、ここに集い、噂話に花を咲かせる。ここからしばらく行くと、村の居住区域が始まる。

午前中に、上りと下りの汽車が、一本ずつこの駅で交叉する。人びとは「落ち合う(ミート)」と言う。その二本はすでに去った。駅舎の中には僅かな数の人がいる。そのほとんどが、地元の住人である。待合客の中に、ケムタ踊りの一団が見える。二人の若い女、一人の老婢。三人の男のうち、一人はハルモニウム伴奏者、一人はバイオリン弾き、一人はドゥギ・タブラ叩き。彼らの汽車は、昼の2時である。女二人のうち、一人は色黒で背が高い。彼女は床にすわって髪を結っている。もう一人は美人で、ベンチに横になって眠っている。ハルモニウム弾きは相当に気障な若造で、紙巻きタバコを口にくわえ、プラットホームの端から端を往き来している。

一人の盲目の少年が、地べたにすわり、我にもあらず、うつらうつらしている。醜い容貌である。両目は白く、前の歯茎はおそろしくせり上がり、四本の歯が剝き出しになっている。手足は発育不全で萎えている。身にまとうのは、太糸で編んだ、丈の短い、汚れた一枚の布きれ。頭髪の後方は、まったくぶざまに短く刈り込んである。手太鼓(ドゥブキ)を一つ手に持ち、思いに任せて身体を揺すりながら、ときに笑みを浮かべ、ときに唇を動かす。ひとり、自分に向かって、何か呟いているのがわかる。ときに動きが激しくなる ―― 何かを聞こうと、努めているのだ。ときにはまた強く息を吸い込み、何かを嗅ぎ分けようとする。人夫が数人、駅の売店の側にすわって雑談をしている。ときおり店の七輪に木片をかざし、それでビリに火をつける。火が消えると、また木片から火を移す。

 

プラットホームの端に佇み、ハルモニウム弾きの若造が、指笛を吹いている。まだ5時間あまり、ここで過ごさなければならない。まったく特色のない場所である。何一つ見るべきものがない。二人の若い女を引き連れているのを見て、嫉妬を起こすような良家の子弟も、この界隈には見当たらない。チョイトロ月[3月半ば〜4月半ば] の終わり、目の前に広がる裸の田圃は、空から地面まで垂れ下がる、薄い煙の膜で覆われているように見える。ときおり、その煙の膜も、震えるかのようだ。

駅舎にはカッコウがいる。駅舎の中から、カッコウの鳴き声が響く …….

ハッとする、ハルモニウム弾き ―― パピア[カンムリカッコウ]もいるのか? ……. パピアの鳴き声、「目が無くなった(チョークギャロ)」が、次第に高まる。

何てこった! ここは動物園か? 羊が鳴いている! おや? 昼日中にジャッカルだと!

好奇心を抑えきれず、彼は駅の方を振り返り見た。 ―― ああ、ハリ神よ! あの盲の小僧か! 小僧はいつしか、手太鼓(ドゥブキ)を鳴らし、歌い始める。

その歌声の、何と甘いこと! おやおや! 声がいいだけじゃない、玄人も顔負けの歌いっぷりだ。その歌は、まこと、名人芸と呼ぶにふさわしい。


        その煌(きら)めきが、目に刺さる ――

ミラーを嵌めた あなたの腕輪。

なんて、素敵な! ―― この目はもう

とてもとても、耐えきれない、

キラキラ、ギラギラ、煌めき踊る、

手がくるくる 回るにつれて!

 

いつの間にか、周囲はすっかり活気づいていた。小僧はしゃがんだまま、手太鼓(ドゥブキ)の音に合わせて歌い続ける。出っ歯の顔には、満面の笑み、身体はリズムに乗って揺れている。人夫の一団は、彼の方を向いてすわりなおした。ハルモニウム弾きの共連れの一人、色黒女の、髷を結っていた両手の動きが止まった。もう一人の女の眠りは破れた。覚めたばかりの見開かれた両目には、笑みを含む、興に満ちた輝き。老婆は、刻みタバコを巻いたパーンを満足げに噛み砕いていたが、その口の動きも止んだ。

 

しゃんしゃん、しゃんしゃん、 腕環が、またまた

響きを撒き散らす

私の胸の バイオリンは

あなたの弓で 音色を奏でる

 

歌のリズムが速くなるにつれ、小僧の身体の揺れも激しくなる。いまにも後ろにひっくり返りそうだ! 向こうのベンチの上では、目覚めたばかりの女が、居住まいを正した。髪を結っていた色黒女は、クスリと笑って呟く、何てこと!

小僧は、もうすっかり、もの狂おしいリズムに乗って、

 

ああ ―― ああ、私がもし 腕輪だったなら

黄金でなく、(まばゆ)いミラー、

あなたの腕に巻きついて 輝いていたことでしょう、

栄えある生を 送るため。

ああ、ああ、 死んでも悔いは なかったことでしょう。

 

最後の行を三度繰り返して、歌を締めた。

聴衆の一団は、興奮に駆られ、やんやの喝采を浴びせた。賞讃に気を良くした、盲目の出っ歯の顔は、満面、笑みに溢れた。聴衆の一人が、火のついたビリを、そろそろと彼の手に持たせて言った、それ、こいつを吸いな!

―― ビリですかい?

―― そうだ。吸いな。

笑みを浮かべて彼は答える、紙巻きタバコを、吸ってる人がいなさる。一本、もらえませんかな!

売店の主人が遮って言う、おい、この生意気小僧! 「俺の名前は 生意気小僧、 何でも口に 入れちゃうぜ!」 タバコを吸うだと! 一本の値段がいくらか、知っているのか?

―― おれの歌には、その値打ちがない、ってわけですかい?

―― それ、それ。こいつを吸いな。

横合いから、ハルモニウム弾きが、タバコを一本取り出して、彼に渡した。

タバコを受け取ると、彼は恭しく言った、帰敬いたしやす、旦那様! 馬を下すったんで、鞭をもらえませんかな。マッチの火を、いただきてえんで!

ハルモニウム弾きは、マッチを点してやった。少年の白く濁った目に、炎の影が映ることはない。その熱を感じ取るだけだ。

盲目の少年は、全身でタバコの煙を吸い込む。吸い込む時の勢いで、頭も肩もぶるぶる震える。これ以上息がつげなくなると、ひとかたまりの煙を、口から一気に吐き出し、むせた喉で感極まった声を上げる、ああ!

彼の仕草を見て、皆が笑う。ハルモニウムの「旦那」が言う、おまえ、なかなか歌がうまいじゃないか! 驚いたぜ!

―― へえ、そうなんで! 旦那、みんなが、褒めてくれるんで。つまり ……

少しく口を閉ざし、また微かな笑みを浮かべて言う、

―― すごくうまく歌えば、つまり、身も心も、捧げて、(うて)えば、人を、とりこにできるんで。いいですかい!

この言葉に、若い女二人が、高らかな笑い声を上げた。笑い声を耳にして、盲の少年はぎくりとした。タバコは手から辷り落ちた。地べたに指先を這わせてタバコを捜しながら、

―― 笑った? 誰ですかい? どなた方、ですかい?

続けて小声で呼んだ、モリンド!

「モリンド」[「モニンドロ」の訛り]と呼ばれたのは、人夫の一団の一人である。彼は答える、何だ?

―― よく聞けよ。―― 手の感触に頼って、タバコの吸い口の方を、うまく抓みあげた。

―― 何だよ?

―― こっちだ。内緒の話だ。

―― 何なんだ? さっさと言えや。

―― 女たちが笑っているが。良家のご婦人方、だろうが?

―― そうだ。ボッドマンからおいでだ。

―― ふむ。思った通りだ。

―― どうやってわかる? モリンドは、鼻先でせせら笑った。

―― 声からに、きまってるだろ?

―― だが、良家の方々だと、どうやってわかった?

笑みを浮かべて、盲目の少年は答える、 腕環の音に、甘い匂い ……. だいぶ(めえ)から、この二つ ……. おかしいと、思ってたんだ。生まれが卑しいと、身体から、汗の匂いがする。ガラスの腕環じゃ、あんな綺麗な音はしねえ。黄金の腕輪だ。そうだろ?

―― ああ。

黙ってタバコを吸いながら、少年は何度も強く息を吸って、その甘い匂いを吸い込もうとした。突然、彼は口を開く、

―― ところで ……. 笑っていなさるご婦人(タクルン)方、あなた方に、申しあげる ……

色黒女は、おしゃべりの跳ねっ返りだ。髷に留め金を差し込んでいたが、肩を少し巡らせて少年の方を振り向くと言った、あたしたちのこと?

―― そうです。どうして笑いなさった?

色黒女は、にやりと笑って言い返す、あたしたちじゃないわ、他の人たちよ。

―― 他の人たち? 少年は首を横に振り、微かな笑みを浮かべて言った、いんや。

―― どうして「いんや」なの? 笑ったのは他の人よ。

少年は、笑まいをさらに広げて言う、角笛では、竹笛の音は出ませんぜ、ご婦人(タクルン)。空き缶を叩いても、タブラの音は出ませんぜ。

―― あら、まあ!

女は、驚きのあまり、好奇の目を見開いて、連れの女とまなざしを交わした。

美しいほうの女の顔も、笑みに綻んだ。だがその微笑む様は、色黒女のそれとは違った類いのもののように思われた。今度は彼女が口を開いた、あたしたちが笑ったので、あなた、腹を立てたってわけ?

―― 腹を立てる? 少年は笑って言う、めっそうもねえ! ご婦人(タクルン)方に腹を立てるなんて、そんなこと、できるもんですかい! ただ、どうして笑いなさったか、知りたかったんで。あの …… 失礼なこと、言いましたかい?

―― この恥知らず! 売店の主人が口を挟む、この豚野郎、おまえの「とりこにできる」がおかしくて、笑いなさったんだよ!

―― どうしてだ、おれには、とりこにできない、ってか?

―― もうたくさんだ、黙れ!

―― どうしてだよ?

―― 誰に向かって何を言ったか、わかってるのか?

この言葉に、盲目の少年は怯んだ。

―― このお方たちはな、コルカタの歌い手さんだ。おまえ、蓄音機の歌なんか、聞いたこともねえだろう、この恥知らず! そんなお方たちだ、名うての歌姫だ! ポンキの糞ガキ殿が、このお方たちを、とりこにできる、だと?

まるで罪を犯したかのように、彼は口調を改め、そういうことなら、無礼なことをしちまった。

―― そうとも、無礼千万だ。

色黒女は、髪結いを終えて長手拭いを肩にかけると、スーツケースを開き、石鹸を取り出して言った、すぐそこの池で、水浴びして来るわ。

盲目の少年は、手にしていた紙巻きタバコを放り投げた。そして顔を上に向け、奇怪な様に口をポカンと開け、音もなく笑いはじめた …… 鼻尖が、何度も脹れあがる。その表情は、まったくぶざまで、醜い。

売店の主人は言う、おいおい、見ろや、恥知らずの顔を! 恥知らずのポンケを!

盲目の少年の名は、「小鳥(ポンキ)」と言う。ポンケと呼ばれた彼は、音のない笑みを満面に浮かべ、すごーくいい匂いが流れてくるぜ、シンおじさん! 身も心も、とりこになっちまう。

美人のほうの女が言う、あなたのその、とりこにする歌を歌ってくれたら、あの石鹸、あげるわよ。

頭を掻きながらポンキは答える、くれるんですかい? 歌ったら?

―― ええ。

―― でも …… しばらく黙ってから、また口を開く ―― まったく無礼なことをしちまったんで。あなた方の前で、歌うだなんて、このおれが?

―― どうして? あなた、とても上手に歌えるのに。あなたの歌声、とっても綺麗よ!

―― 気に入ってくれたんですかい? いつもの音無しの笑みが、ポンキの顔いっぱいに広がる。

色黒女はハルモニウム弾きに言う、あたしと一緒に来てちょうだい。ガートでしばらく見張っていて。

ポンキは言う、ご婦人(タクルン)、ひとつ、言っても、いいですかい?

好意に溢れた笑みを浮かべて、美女は答える、言ってごらん。

―― 怒らないで、くれますかい?

―― とんでもない、怒るだなんて! 言ってごらんなさい。

ポンキはだが、無言のままだ。と、突然口を開く、ネタイ[「ニタイ」の訛り]! モリンド! 行っちまったのか? おい、ネタイ?

―― どうした、ネタイに何の用だ? 店の扉を閉めながら主人は言う、もうみんな、軽食の時間だろうが? 家に戻ったんだろうよ。

ポンキは微笑んで言う、おじさんも、それで、店に錠をかけてるんだな。

―― ああ、そうだとも。何か食いたいなら、来な …… もう、家に戻るぜ。

―― いいや。腹が減ってねえんだ、今日は。

 

10時半を回っていた。チョイトロ月のこの時間、すでに四方は塵に霞み、熱気を帯びている。駅のトタン屋根は、灼熱に晒されて、ときおりコタン、コタンと音を立てる。鉄路の合わせ目からも、音が立つ。

美女は、盲目のポンキに、凝っと目を注いでいる。ポンキは、無言のまますわっている。ときおり、顔を上げる。だが次の瞬間には、肩を落とす。

―― どうしたの、何も言わないで?

―― 何ですって?

―― 言いたいことがあるって、言ったでしょ?

―― いますぐ、言いますんで …… ! ポンキは、恥じ入った罪人のように笑い、肩を落とす。

―― 言ってごらんなさいよ。 ―― 女は待ち設けている。そうしながらも、彼女は放心したように、塵に霞んだ地平線の方を、凝っと見つめている。ポンキのほうは、ときおり、肩を上げたかと思うと、またすぐに下げてしまう。不意に彼は口を開く、言いたかったのは …… ?

ちょうどこの時、頭上のトタン屋根で、激しく音が鳴り響いた。女はハッとした。

―― 何なの、この音?

―― へえ、あの ……  物知り顔の笑みを浮かべて、ポンキは言う ―― 陽の熱で、トタンに、音がするんで。

―― そうなの? 太陽の熱で、トタンが音を立てるの?

―― へえ。日が暮れるまで、この音が続くんで。そら、そら …… こいつはでも、熱の音じゃねえ! 烏が屋根にすわったんだ。

女は、外に出てプラットホームに立った。好奇心が湧いたのだ。ほんとうに、烏が屋根に止まっている。彼女は驚いて、中に戻ると、立ちつくした ―― ポンキの側に。ポンキは、そわそわし始めた。何度か鼻腔が広がる。と、恭しく、囁くように、 ―― 言いたかったのは ……

女は、二本の指を、彼の目の前で動かしていた。

―― 言っても、いいんですかい、ほんとうに?

女は、ポンキの目が瞬かないのを見て、指を遠ざけた。そして口を開いた。

―― 言ってごらん。何度もそう言ってるでしょ?

―― あなたがもし、歌をひとつ、歌ってくれたら ……  言いかけたまま、無言の笑みに口もとを大きく広げ、彼は頭を掻き続けた。

女は笑った。 ―― 歌を聞きたいの?

地べたに手を滑らせ感触を確かめながら、女の足の指先を探り当てると、それに触れたまま口を開く、

―― あなた方のお御足を、どこに見つけたら、いいんです? どうやったら、歌が聞けるんです? でも ……  しばらく黙り込んだ後、見えない目を上方に向け ―― それでももし、願いが叶うなら …… おれだって、人間だから …… それに、歌を聞くのが好きだから、おれは。

女は、何と思ったことだろう。哀れみ? それとも、単なる気紛れ? ―― わかったわ、と答る。だが、すぐまた気遣わしげな顔になり、

―― ハルモニウムだけど、その上にたくさん荷物が積んであって ……

―― ハルモニ?

―― そうよ?

―― ハルモニ、なしにしましょうや。そのまま、歌ってください。そのまま、そおっと …… 陽はすごくきついけど …… 何もなしで、そおっと歌えば、すごーく、気持ちいいですよ。

女には、この考えが、とても気に入った ―― この子の言う通りだわ。

抑えた声で歌い始める ――

 

黒いお方、あなたを待って カダムバの木蔭で 目を凝らします。

ときに道の辺、ときに川岸、 ひとときも 逸らしはしない

見つめすぎて 溶けてしまう、

墨を刷いた 私の両の目。

 

ポンキは、全身、麻痺したかのようになった。脳内の毛細血管に至るまで、歌が、ヴィーナの多弦が響き合うような調べを奏で、彼の意識の隅々を覆いつくした。

歌が終わった。盲の少年に歌を聞かせたことで、女はすっかり満ち足りていた。微かな笑みを浮かべて、彼女は訊ねた、どうだった? 気に入ってくれた?

―― 何ですって? ポンキは我に返った。麻痺して無反応だった身体に、一瞬にして意識の流れが走った。

―― 気に入ってくれたの?

―― 生きていた甲斐(けえ)が、ありました、ご婦人(タクルン)

女はこれを聞いて、思わず吹き出した。

―― 笑いなすった? でも ……  少し黙ったあと、ポンキは言葉を継ぐ ―― でも、こんな歌を、生きている間に、どこで聞けると言うんです!

ポンキの言葉の中には、痛みの調べが鳴っていた。その調べに触れて、女はもはや笑うことができなかった。口を鎖した。言葉が、見つからなかったのだ。

―― あなたの足を、拝ませて、ください。

―― 足を拝む? どうしてなの?

―― どうしても、そうしたいんで。

女は心をそそられた。恍惚としたまなざし、手放しの賞讃、愛の囁き、そんなものは、これまで、山ほど得てきた。今も得ている。だが、足を拝む? 記憶になかった。無論、自分たちの仲間うちで、年少者が目上の者の足を拝む習慣は、ある。だが、この少年の接足作礼は、それより遙かに、価値が高いように思われた。彼女は拒まなかった。黙ったまま佇んでいた。

ポンキは、彼女の足の甲全体を、手で撫でた。そうしてから、女の両足の上に、自分の顔を置いた。

女は、幸せな気分に浸った。

足に熱い息を感じた。ポンキの異形の目から、涙がこぼれ落ち、足を濡らしている。それでも彼女は、足を引っ込めようとしなかった。塵に霞んだ、地平線のほうに、とりとめのないまなざしを注いだまま、黙って佇んでいた。と、不意に尋ねた、

―― あなた、家には、誰と誰がいるの? お母さん …… お母さんはいて? お父さんはいて? …… 聞こえているの? …… もう、起きなさい! 拝むのは、もうたくさんよ! さあ! 起きて!

―― おや、この小僧! おい! 何て真似を、してやがる? おい!

ハルモニウム弾きと色黒女が、水浴を終えて戻って来た。ハルモニウム弾きが、ポンキをどやしつけたのだ。

色黒女は言う、いやだわ!

美女のほうは、小声で繰り返す、さあ! 早く起きなさい!

ポンキは、ようやく身を起こした。彼のほうを見て、色黒女とハルモニウム弾きは、どっと吹き出した。涙に濡れて、女の足のアルタ[漆をベースにした赤い汁の化粧、女性が足のまわりに塗る] が、盲目のポンキの、顔中についていた。頬、鼻、額、両唇、一面真っ赤である。

女は言った、顔を拭きなさい。あなた、顔中に、赤い色がついているわ。

―― 赤い色?

―― そうよ、アルタがついてしまったの。

―― アルタ?

―― ええ、唇、額、頬、鼻 …… 拭いて、取ってしまいなさい。

―― いいんです、そのままで。

色黒女が共連れに言う、ちょっと、あんた、こいつを相手に、もったいつけるの、いい加減になさいよ。あっちで、ご飯を用意しているわよ。水浴びするなら、今すぐ行きなさいな。綺麗な水よ、池は。

―― 遠いの?

ポンキは立ち上がる。

―― そこ、すぐそこですよ。おれが、連れて行ってあげます、ご婦人(タクルン)。さあ。

―― あなたが?

―― へえ、へえ、盲は、どんな道でも、覚えてるんでね。間違えっこ、ねえんだ。さあ、来なせえ!

色黒女は笑みを浮かべて言う、安心して、水を浴びて来るがいいわ。この子が、ガートで、見張っていてくれるわよ。

 

その言葉通り、ポンキは、違えることなく道を進む。ときおり、足で地面を撫で、行く先を確かめる。ステーション・ロードに沿い、まずバンヤン樹の木蔭に着くと、

―― ほれ、バンヤンの木だ。左側を通って!

少し先まで行くと、池が見えてくる。黒い眉墨のような水である。

女は口を開く、あなた、名前は何と言うの?

―― 名前? おれの名前は、ポンケ。つまり、小鳥(ポンキ)

―― 小鳥?

―― へえ、そうです。子供の頃、小鳥みてえに、ぴいぴい、泣いていたんでね! 盲なんで、母さんがおれを、放ってらかしにしてたんだ。地面に落ちる度に、ぴいぴい泣いた。

―― あなた、母さん、父さんが、いるの?

―― へえ。ときどき、おれ、家に行くんだ。父さんはいい人だよ。父さんの名前は …… この辺では ……

不意に、自分から言葉を遮る …… 上方に顔を向けて、口を開く ……  ―― おお、おお! 鴨の大群が、飛んで来た!

褐色の野鴨の大きな一群が、ほんとうに、頭上で輪を描いていた。その羽搏く音が、空を覆った。

女も、空のほうに、目を遣った。

ポンキは口を開く。自分で遮った言葉を終わらせるために …….

―― 父さんの名前は、この辺では、みんな知ってる。クリッティバシュ・バグディと言えば ……

 

父親の名は、クリッティバシュ。盲目の、未熟児の、萎えた身体を持った息子の泣き声を聞いて、彼を「小鳥(ポンキ)」と名付けたのだ。人並みの、響きのいい、誇り高い名前を、つけてやる必要すら、感じることはなかったのだ。

 

ポンキは言葉を継ぐ。 …… 彼はガートの縁にすわっていた、そして女は、冷たい水に、首まで身体を沈め、彼の言葉を聞いていた。

―― おれには、一人、姉さんがいるんだ。姉さんは、おれを可愛がってくれた、膝に載せてくれた。それで …… そう、あなたくらいの歳だと思うよ。

―― あたしくらいの歳? 微笑んで、 ―― あたしの歳が、あなた、どうやってわかるの?

羞じらいの笑みを浮かべ、頭を掻きながらポンキは言う ―― あのな、あなたは、おれよりちょっとだけ、歳上だろ。ほんのちょっと。

しばらく黙って、また口を開く ―― 声音を聞けば、わかるんだ、だいたい。あなたの声は、まだ、竹笛の音色みてえだ。低音が混ざっていない。それに ……

ポンキは言いよどんだ。言うことができなかった。彼女の足の上に、顔を載せた時の、その柔らかい、すべすべした感触が、まだ焼き付いていたのだ。

話題を換える ―― ここからおれの家までは、四里くらい、離れている。一年くらい前、母さんが、ある日おれを、こっぴどく殴った。それで、姉さんが言ったんだ、ポンケ、あんた、歌が上手でしょ。だから、どこかいい、市みたいな、人が集まる場所に行ったらどうなの? 歌を歌って、物乞いするのよ。 その考えが気に入ったんだ、おれ。姉さんが、ある日、自分からおれの手を取って、ここに連れて来てくれた。それから、ずーっと ……

音もなく笑うと、彼はそのまま黙り込んだ。

しばらくして、不意に口を開く、

―― あなたの歌の、あそこのとこが、すごく素敵だ。ほら、あの、―― 黒いお方、あなたの笛の 音が鳴り響く時 ……

続けて彼は、旋律をつけて歌い始めた ――

 

家事も何も、すべてを忘れて 私はここに 駈けて来ます。

身体を磨く 暇もなく 髪を結う 暇もなく

あれもこれも できなかった ことだらけ!

 

女は身体に石鹸を塗っていたが ……. 驚きのあまり、手からその石鹸が、すべり落ちた。ポンキは、彼女とまったく同じ調べに乗せて、完璧に歌っていた。

―― 水を浴びるのに、何時間かかるんだ、まったく? もう、汽車が来るぜ!

定刻になったのを見て、ハルモニウム弾きが声を張り上げた。ガートからその姿が見える。慌てて呼びに来たのだ。

駅では、まさにその時、切符切りを告げる鉦が、鳴り響いた。

 

汽車は去った。ケムタ踊りの一行も去った。売店の主人、シン旦那は、乗客への紅茶、清涼飲料、軽食の販売を終えて、呼んだ、ポンケ! ポンケ!

ポンケの返事がない! どこに行った?

シン旦那は、彼のことを心から愛している。旦那の奧さんも同じだ。ポンキがどこにも食べ物にありつけない日があれば、彼はポンキを呼んで、食事を与える。2時の汽車が去るとすぐ、彼は一度、ポンキの消息を確かめる。ポンキの返事がない。たぶん、村のゴーヴィンダ神  [クリシュナ神の別名] の寺へ、神饌にありつきに行ったか、チャンディー母神の前庭だろう。チャンディー母神の前庭では、月に5度の祭礼の度に、山羊を生贄に供するのだ ―― いつが新月で、いつが十四夜、いつが八夜、いつが晦日か、全部ポンキの頭に入っていて、その日、彼は必ず、チャンディー母神の前庭に行くのだ。この二つの寺のうちの、どちらかに行ったに決まっている。シン旦那は、自分の店の準備に心を向けた。2時の汽車のあと、4時にまた、汽車が一本、来るのだ。

4時の汽車が来て、去った。シン旦那は、今度はさすがに心配になった ―― ポンケがまだ戻らないのは、どうしてだ? いったい、どこへ行った? ケムタ踊りの連中と一緒に、汽車に乗って行ったのか?

その通りだった。ポンキはひそかに汽車に乗り込んだのだ。客車のベンチの下に横になって、身を隠していた。乗換駅で降りたが、人混みに紛れて、一行を見失った。

支線の警備員や運転手は、みなポンキを知っている。彼らは言う、おまえ、こんな所に?

満面の笑みを浮かべて、彼は言う、ああ。来ちまったんだ。ちょっとぶらぶらしようと思ってさ。 しばらく黙ったあと、さらに笑みを広げ、 ―― 新しい場所を、見たり聞いたり、したくなるんだ!

警備のドット旦那は笑って言う、わかった。もうじゅうぶん見ただろう、そろそろ帰りな。

ポンキはだが、どういうわけか、帰るのを恥ずかしく感じたのだ。彼は答えた、いんや。おれ、ここにしばらく、いることにする。

―― ここにいるだと?

―― へえ。ここの市がどんなか、一度、見てみてえんで。 返事を聞くと、警備のドット旦那は、笑ってその場を去った。

その数瞬後、ポンキは、ひとつ思いついたことがあって、ドット旦那を呼び戻そうとした、警備の旦那! 警備の旦那! 彼はドットに伝えてほしかったのだ、ここの駅長、清掃係、売店の店主に、彼のことを一言、告げてくれるようにと。

返事は得られなかった。彼はもうすでに、駅舎の中に入っていた。

しばらく黙ったあと、ポンキは歩き始めた。売店のちょうど真ん前に来た。

―― 何を揚げてるんですかい、旦那? シンガラ[カレー味の野菜を包んで揚げた、菱の実の形の菓子] ですかい、コチュリ[カレー味の豆などを包んで揚げた丸パン]ですかい?

店主は、彼のほうを見遣ると、言った、どけ、そこを!

ポンキは、横にすわって、しばらくおとなしくしている。その後、手太鼓(ドゥブキ)を指で叩きながら、歌い始める ―― ああ、黒いお方!

警備の旦那に頼む必要はなかった。自分で自分の存在を知らしめたのだ、ポンキは。店の主人、駅長、清掃係、地面に敷かれた線路、信号機の電線、市、道、ガート ―― そのすべてが、彼の知りおくところとなった。カーリー母神の礼拝所、ゴウランゴの修行場への道も覚えた。連絡駅の何本もある線路を、彼は、ほとんど事ともせずに渡っていく。その前に来ると、まず立ち止まり、近くに人の気配があれば、尋ねる、どなたですかい? 線路には、汽車がいますかい?

人がいなければ、耳を(そばだ)て、エンジンの音が聞こえないか、確かめる。そうしてから歩を進め、線路の上に足を載せる。線路に触れて確かめる、汽車の動きが、その中に伝わってくるかどうか。ポンキは言う ―― 怖いと、背骨がブルブルするだろ。それと同じブルブルが、線路に伝わってくるんだよ。汽車の気配を察すると、線路をまたぐのをやめて、彼は陸橋の方に行く。片側の手すりで身を支えながら、すんなり渡り終える。階段の数は、頭に入っている。

手太鼓(ドゥブキ)とともに、いまでは土製の釜を一つ、手元に置く。何度も指で叩いて、試してから買ったのだ。土釜を叩きながら歌うと、人びとは、より盛り上がる。

ときには、駅舎の扉の前にすわることもある。彼がすわる時間は、昼の1時から2時半の間、と決まっている。この時間、駅長や他の旦那方がくつろいで、噂話に花を咲かせる。彼は耳を傾ける。話が途切れると、彼は口を開く、駅長の旦那!

―― どうした、おまえ? こんな所で!

―― へえ。

―― で、何だ?

―― へえ! ポンキは頭を掻く。

―― 何が知りたい? ボルドマンまでの距離か? 汽車賃か?

―― いんや、おれが知りてえのは ……  笑みを浮かべ、出っ歯のポンキは、歯をますます露わにして、旦那方が促すのを待つ。彼の期待通り、事は運ぶ。

―― いったい、何が知りたいんだ? ボルドマンの街の様子か? どんな大きさか?

―― へえ。謙遜のしるしに、さらに、歯を露わにする。

―― ボルドマンに行きたいのか? そのうち、乗せてやろうか、汽車に?

ポンキは黙っている。同意を伝えるのが怖いのだ。牛車、馬車、人の群れ、路地隘巷、果てしのない広がり ―― その中の、いったいどこに …… ?

電信機が音を立てる。向こうでは、電報の到着を告げる鉦の音が、チンチンと響く。旦那方は、忙しげに腰を上げる。ポンキは扉から遠ざかる。もの思いに耽りながら、プラットホームの縁に行って、立ち止まる。すぐ横の電柱に、風が当たって音を立てる。そこに貼り付いた、距離を示す鉄板が、小刻みに震えながら音を立てるのだ。ポンキは、そっと電柱に耳を当てて、佇ちつくす。電柱を指で叩きながら言う、トントカトカ、トントカトカ、トカトカトン。 続けて、 ―― ハロー! ハロー、ご婦人(タクルン)、ボルドマンのご婦人(タクルン)! おれ、ポンキです。歌を歌うよ ……

ああ、あなたを待って カダムバの木蔭で 目を凝らします!

 

時が経つ。一年後のことである。ポンキは、まだそのまま、乗換駅にとどまっている。少し金も貯まった。その一部は、売店の主人に預けてある。店主は、これが彼の全財産だと思っている。だが、ポンキは、稼ぎを分けて、隠しているのだ。一部は自分の身につけている。残りは、木の板で囲われた、ちっぽけな密室のような、女性専用待合室に。その部屋の片隅の、地面の下に埋めてある。乗換駅とは言いながら、支線のプラットホームは、石造りではない。女性専用待合室の床も、石屑を敷き詰めた土の床である。その上に、彼は自分の寝床を敷く。寝床とは、一枚の麻袋である。夜になるとそこに麻袋を広げ、その上に身体を丸めて寝る。

ボルドマン行きに取り憑かれていた心も、次第に冷めてきた。「黒いお方、あなたを待って ……」の歌を彼は歌い、人びとは賞讃し、ポンキは恭しい笑みを浮かべる。だがあの、チョイトロ月の昼ひなか、田舎駅のプラットホームで、柔らかい両足に顔をつけて拝んだ記憶は、もはや頭に浮かんでこない。あの甘い、心をとりこにした匂いのことも、思い出せない。いや、思い出しはするのだが、胸の中が、あの時のような「あくがれ」に満たされることが、ないのだ。

 

それから何日経ったことだろう。はるかな日々である。

不意にその日、彼の全身を、ブルブルが貫いた。線路の上を汽車が走る時、その音と感触に、身体に震えが走るように。あの歌だ! あの歌声だ! 今日は歌だけでなく、歌と一緒に楽器も鳴っている。駅舎の前で、ご婦人(タクルン)が歌っている。

 

黒いお方、あなたを待って ……!

 

ポンキは、走るようにしてその場に駆けつけた。ご婦人(タクルン)のまわりに、たくさんの人だかりがしているのがわかる。小さな子供までいる。

歌が終わると同時に、彼は、手を合わせて呼びかける、ご婦人(タクルン)

―― 誰だ、おまえは?

―― へえ、旦那、歌を歌いなさったご婦人(タクルン)を、お呼びしているんで。

同時に笑いの渦が巻き起こった。一人が言う、バカみたい!

再び歌が始まる ――

 

その煌めきが、目に刺さる ……

 

ポンキの胸は戦いた。あの歌だ。吟遊詩人(コビアル)のニタイから習った、彼の、あの歌 …… ご婦人(タクルン)は、ポンキから、口伝えで覚えたのだ。

歌が終わった!

―― おれのこと、忘れちまったんですかい、ご婦人(タクルン)! おれ、ポンキだよ …….

―― この野郎、おい! とっとと失せろ!

追われても、もう離れはしまい。息を凝らしたまま、彼はその場にすわっている。汽車の到着を告げる鉦が鳴った。一行は、その場に広げた荷物をまとめた。一人が言う、蓄音機をちゃんとしまえよ。レコードを箱の中に入れろ。

汽車が来て、去った。驚く、駅員、店の主人 ―― ポンキの姿が、どこにもない!

 

それからさらに、時が過ぎた。何年もの歳月が。ポンキの髪には、白いものが混じる。出っ歯の口からは、歯が何本か抜け落ちた。耳で聞く力も、衰えてきた。線路に足を乗せても、遠くから汽車が来るかどうか、もはや判別できない。

ポンキは、ある聖所の道端にすわって、物乞いをしている。歌を歌うことも少なくなった。彼は言う―― 盲の乞食に、哀れみを、旦那! 盲にお恵みを、奧さん! 母なる豊饒の女神(ラクシュミー)様!

母なる女性たちが通る時、ポンキの懇願は熱を帯びる。裸足なので足音ではわからない …… だが、絹のサリーのカサカサいう音や、礼拝用の花の香りで、ポンキは、母なる女性たちが来るのを、それと知る。

布施が少ない日には、彼は歌を歌う。

その日、彼は歌っていた。「その煌めきが、目に刺さる ……」は、近頃では気に染まない。信愛歌を歌うことが多い。「黒いお方、あなたを待って ……」を、ときどき歌う。その日歌っていたのは、まさにこの歌だった。

歌い終わると同時に、笑いとともに誰かの声 ―― おまえ、何度、レコードで歌ったことか、この歌を。巷に、溢れかえっているぜ。

女のとても微かな笑い声が、ポンキの耳に届いた。 ―― 何度も歌ったわ。でも、黒いお方、一度でも、お聞き届けになって?

―― またおまえの口癖が出た! もう聖所に、用はないだろう。さあ、さっさと帰ろうぜ。

―― もう、たくさん。私も歳をとったわ。暗闇に包まれてきたの、世界が。これで、もう ……

痺れを切らして、ポンキが口を開く ―― 奧さん、少々、お恵みを? 盲の ……

彼の手に、何かがひとつ、落ちてきた。

男が言う ―― 半ルピー銀貨だ。パイサ貨じゃないからな、おい。

―― 銀貨?

―― ああ。

銀貨? 贋貨(にせがね)じゃないだろうな? 手で撫でてみる …… 地面に投げて、音を確かめる。その後、満腔の感謝をこめて手を差し伸べ、女の足の甲をその手で撫で、帰敬した。

彼らが去る。その足音がした。

鳥たちが啼いている。日が暮れたのだろう。ポンキも立ち上がる。



輝き姉さん(ランガ=ディディ)

輝き姉さん(ランガ=ディディ) 解題

 

タラションコル・ボンドパッダエ(18981971)円熟期の短篇。文学誌『インド』(ベンガル暦1347年バドロ月号、西暦19408月出版)に掲載されました。絵巻物師(ポトゥア)の女性を描いた作品です。ポトゥアは、ベデと同じく(5回目掲載の「ベデの女(ベデニ)」参照)、イスラーム教徒でありながらヒンドゥー教の習俗を守る出自集団(ジャーティ)です。この作品には、インド神話や口承文化・民間信仰のさまざまな要素が盛り込まれ、当時のベンガルの、豊かな土着文化を支える人びとの生き様が、あますところなく描かれています。

 

主な登場人物は、すべてインドの神々や聖者の名前で呼ばれています。

ランガ=ディディ(「輝き姉さん」)の綽名で呼ばれる主人公の女絵巻物師の本名、ショロッショティ(サラスワティー)は、学芸の女神(弁財天)で、彼女が土人形作りや口承芸に長けた土着文化の継承者であることを示しています。また、その夫の老いた絵巻物師、ゴノポティ(ガナパティ)は、象の頭を持つ財運の神、ガネーシャの別名。彼が富をもたらす存在であること、また象の長い鼻の比喩から精力旺盛であることを示唆します。

ショロッショティを愛する若き絵巻物師の名、ゴノッシャム(ガナシャーマ、「雨雲のように黒いお方」の意)は、クリシュナ神の別名。ゴノポティが彼につける呼び名、ケロ=ショナ(「黒い黄金」の意)も、クリシュナ神の愛称。さらに、後半に登場する大地主家の息子は、中世にクリシュナ信仰を広めた聖者チャイタニヤ(14861534)にたとえられ、ショロッショティは、彼を、チャイタニヤの愛称、ゴウルチャンド(「白い月」の意)で呼びます。

ゴノッシャムとショロッショティの間の関係は、クリシュナ神話を背景にした歌や巧妙な言葉の応酬を通して比喩的に表現されます。ゴノッシャムの妻がショロッショティに対して抱く嫉妬は、ラーダーの夫の姉クティラーがクリシュナ神のもとに走るラーダーを非難する絵と歌とで代弁され(「クティラーは ...」で始まる歌)、また二人の間の恋の戯れは、クリシュナ神の舟遊びの場面(「他の女伴侶(ショキ)なら…」で始まる歌)や、クリシュナ神の笛の音に魅せられたラーダーの水汲みの場面への言及によって示唆されます。

 

ショロッショティが売る腕環のうち、「(いろど)り腕環」と訳した「レショミ・チュリ」は、直訳すると「絹の腕環」、ラージャースターン州などの北西インド由来の、彩り豊かなガラス製の腕環です。また、彼女が作る人形、「ふさふさ髪(を持つ女)」、「チャンパの花(のような女)」、「着飾り女」、「庭師の女」、「牛飼い女」などは、ベンガルの口承の歌物語に登場する村の娘たちの姿をかたどっています。

彼女が良家を訪れて作る「カンタ」は、ベンガルの女性たちの伝統的な手工芸で、古布を継ぎ合わせ、さまざまなパターンの刺繍を縫い付けて作られます。ハンカチから座布団、枕カバー、肩掛け袋、敷布に至るまで、さまざまな大きさ・用途のものがあります。

 

絵巻物師(ポトゥア)の生活、彼らが描く絵巻物やその物語については、西岡直樹さんが、『インドの樹、ベンガルの大地』(講談社文庫)、『インド動物ものがたり』(平凡社)、『サラソウジュの木の下で』(平凡社)などの一連の著作の中で、親しく描かれています。ぜひご参照ください。

 

 

輝き姉さん(ランガ=ディディ)

タラションコル・ボンドパッダエ

 

絵巻物師の娘――その上、年寄りの若妻である。まるで、衰えたマンゴーの古木にまとわりつく、黄金色のネナシカズラのようだ。老いさらばえたマンゴーを、自分の身体の網でがんじ絡めに覆い尽くし、その蔓の数々の先端を、雌蛇が鎌首をもたげるように、まわりの甘い薫りを放つマンゴーの木々に向かってもたげて踊る――年老いた絵巻物師ゴノポティの若妻ショロッショティも、まさしくそのように身をくねらせ、踊るように巡り歩くのだ。

絵巻物師ゴノポティは、この地域の絵巻物師の社会ではよく知られた名匠である。彼の筆になる絵巻物は、白人や高位の方々が買い取っていく。――まこと非の打ち所のない、カラスウリの実のようにふっくらと切れ長の目、ゴマの花にそっくりの小鼻、片掌でつかめそうにもほっそりした腰、そして水甕のように丸々とした豊かな胸――誰の筆を以てしても、これほど見事には描けない。ゴノポティは、筆で絵巻物を描き、手で人形や神像を作る名匠であるだけではない。彼が創る、絵巻物の偉大さを褒め讃える歌や、神々のさまざまな戯れの歌物語も、人口に膾炙(かいしゃ)している。ゴノポティの歌は、官報にも掲載されたそうだ。「ドゥルガー女神が貝の腕輪をつける」、「シヴァ神が魚を捕る」「シヴァ神の農作業」「クリシュナ神が土を食べる」等々、多くの歌物語を彼は創作した。この地域の絵巻物師の社会で、富・名声・技量において、ゴノポティに並ぶ者はない。歳を取ってから、この男は、絵巻物師の娘ショロッショティを見てすっかり前後を失い、遂には彼女と結婚する仕儀に至った。ショロッショティの両親は、ゴノポティの財を見て、嫌とは言わなかった。多額の金を払って、老人はショロッショティを家に迎え入れたのだ。老人の何人かの遠縁の孫たちが、金を出し合って、面白半分に革職人(ムチ)たちを呼び、結婚祝いの楽器演奏をさせた――大太鼓と角笛である! ゴノポティ老人はだが、横紙破りの性格である。彼は腹を立てるどころか孫たちをもてなしてすわらせると、腹いっぱい甘菓子をご馳走して帰らせたのだ。

こう言う諺がある:

 

           ポトニとノトニ、

           おんなじ身振り、おんなじ調子、

           どっちがいい? どっちが悪い?

 

「ポトニ」とは女絵巻物師、「ノトニ」とは踊り子で、この二人は同じだと言うのだ。体の動き、話し方、毎日の習慣、身振り素振り、泣き笑い――両者の間に、ほとんど見るべき違いはない! 表裏一体とでも言うべきだろう――言うなれば裾模様入りのサリーの、表と裏のようなものだ。ショロッショティも絵巻物師の娘である。新妻だと言うのに、彼女は羞じらうどころか顔を斜めに構えてくすりと笑い、あらぬ方に視線を逸らす。彼女の深紅の色粉をつけた唇の蔭から、お歯黒を塗った褐色の歯の列が、まるで汚れた線のようにその姿を見せつける。それは決して自分の姿を隠そうとはしない。そして何よりも驚くべきことは――彼女のその、笑みと汚れに刻印された顔の上に、悲しみの新月が訪れることは、決してないのである。つとよぎる薄雲のように、サリーの裾が彼女の頭を覆うことがあっても、その顔が完全に隠れることは、一瞬たりともないのである。

 

男たちの昼食の用意を済ませて、午前10時になると、絵巻物師の女たちは商いのために家を出る。ガラスの腕環、土製の人形、小さな数珠を繋いだネックレス、お守り用の腰紐、女たちが額に飾るキンカネムシやタマムシのキラキラ光る羽根を籠に並べ、彼女たちは、村から村へ、行商に出かけるのだ。色鮮やかな斑模様入りの短いブラウスの上に、イスラーム教徒風にサリーをぐるりと巻きつけて身体を覆い、頭上に籠を載せる。すっかり習い性となっているので籠を手で支える必要すらない、両腕を思いのまま揺らしながら体をくねくね動かし、ごく狭い路地でも平気で進む。村に入ると一種独特の調子で声を張り上げる――(いろど)り腕輪、いらんかね〜! 箱い〜り〜 む〜すめ〜! あお〜い ほうせ〜き〜! バラ〜の みや〜び〜!

腕環の色の違いに従って、彼女らは自分たちでいろいろな名前をつける。黄色の腕環の名前が「箱入り娘」、濃緑色のものが「青い宝石」、そして「バラの(みやび」はバラ色である。深紅の腕環の名前が何よりも振るっている――「心の(とりこ)」!

人形にも名前がある――「ふさふさ髪」、「チャンパの花」、「ヤムナー川」。「ふさふさ髪」の頭にはまったく不釣り合いな結い髪、「チャンパの花」の胴体は黄色、そして青い色の人形の名前が「ヤムナー川」 [クリシュナ神と人妻ラーダーの逢い引きの川] である。頭に水瓶を載せた「牛飼い女」、手に籠を持った「庭師の女」、これらは昔ながらの名前である。この他にも、天馬、虎、ライオン、吉祥天(ラクシュミー)の梟等々。ショロッショティは自分で人形を作る。ゴノポティは、自ら進んで、彼女にこの技を仕込んだのだ。

行商に出るとなれば顔を出さないわけにはいかず、饒舌にもならざるを得ない。だがショロッショティは、すべてにおいて異彩を放つ。顔とともに、結った縮れ髪も開けっぴろげのまま、笑うとお歯黒を塗った歯の列が汚れた線のように現れる。その汚れた線は、目に露わなだけでなく、音まで伴っているのだ。その姿形と声音に触発されて、彼女の出自に固有の饒舌が、踊り子の足鈴のように鳴り響き、人びとを酔わせ、恥じることを知らない。市では、彼女は進んで人に声をかけ、行商の品を売りつける。小物屋で石鹸を買っている青年を呼びつけ、彼女は笑いながら言う ―― 腕環を買わない? 腕環を?

―― 腕環?

―― そうよ、腕環よ。「箱入り娘」、「青い宝石」、「バラの(みやび)」、「心の(とりこ)」! どれがいい?

ショロッショティのお歯黒を塗った歯が、微笑に伴って少しだけ露わになり、黒い稲妻のように間を置いて輝きを放つ。男は黙っているが、その場を離れることもできない。ショロッショティは言う ―― すわってよく見なさいよ。あんたの奧さん、どんな色なの? あたしが見繕ってあげるわ。私みたいに、色白?

男は思わず笑みをこぼす。――いいや!

――じゃあ、どうなの? バナナの若葉みたいな色? それとも、もっと黒いの? ムラサキフトモモの実みたいに、真っ黒?

しまいには、深紅の(いろど)り腕環、「心の(とりこ)」を、まんまと売りつける。

 

絵巻物師の女たちには、もう一つの商いがある。良家の奥様方から、古布を継ぎ合わせてカンタを作り、その上に模様を縫い付けるよう、お声がかかる。三四種類の大きさの違う針を手に、彼らはそうした家に出向く。奥様方は布切れと赤い広縁のサリーを渡す――彼女たちは素早い巧みな手つきでカンタを縫い上げ、その上に、まるで機械のように正確に模様をつける。模様のさまざまなパターンも彼女たちは会得している。蓮の葉、鳥、花、ナツメヤシの葉、菱形のミルク菓子(ボルフィ)、ヴリンダーヴァナの森 [クリシュナ神とラーダーの逢い引きの森]、水波、等々の紋様を、彼女たちは、目を閉じたままでも縫い付けることができる。絵巻物師の娘は、五歳になると中庭に座り、母親や祖母から、土塵の上に指で紋様を描くことを学び、身につける。良家の奥様方や女召使いたちは、触れるのを怖れて離れてすわり、彼女たちの自由自在な針の動きを感嘆したまなざしで見つめ続ける、そして遠い村々のいろいろな家の噂話を聞く。饒舌な絵巻物師の女たちは、奥様方の顔に目を遣り、針を動かしながら語り続ける、どの村のどの家の嫁が新しい腕環を身につけたか、その腕環の紋様はどんなか。どの村のどの家の嫁の腕環が、突然消え失せたか。どの家の奥様の声が、クルクシェートラ [パーンダヴァ王家とカウラヴァ王家の主戦場(『マハーバーラタ』)] のどの角笛のように甲高く響きわたるか。どの家の嫁の話しぶりが貝殻を削る鉋のようで、良い噂も悪い噂も、どちらも撫で切りにせずにはおかないか――等々。

ショロッショティは、さらに加えて、奥様方や女召使いたちをネタに、面白半分に冷やかし、笑いに顔を綻ばせながら即興で気の利いた俚諺を唱え、男女間の情愛のさまざまな機微を説いて聞かせる。彼らが彼女に、ゴノポティについて何か質問をしようものなら、それはもう、えらいことになる。サリーの裾で口を覆って恥ずかしがるフリをしながら彼女は笑い始め、その笑いは止むことを知らない。しまいには縫っていた針を片付けて言う―― もうこれ以上、無理ですわ、奥様。今日はこれで失礼して、明日また参ります。あの人ったら、まるで敵に喰らいつくみたいに、一度しゃぶりついたら、やめろと言ってもきかないんですよ!

ショロッショティが立ち去ると、女たちは、自分たちが貞操を律し品行方正であることを見せつけるために、口を揃えて言う ―― ショロッショティの恥知らず、死んだ方がマシよ! いくら年寄りとはいえ、旦那は旦那でしょ! それを物笑いの種にするだなんて!

ショロッショティの笑いはしかし、それでもまだ止むことはない。帰り道を歩きながらひとりほくそ笑む、あるいは家に帰ると、絵巻を描くのに忙しいゴノポティに向かって笑いかける ―― 奥様連中、何て言ったと思う?

絵巻から目を離して彼女の顔の方を見つめると、ゴノポティは微笑を浮かべながら聞く ―― 何て言ったんだい?

口をサリーの裾で隠すと、その彼を指さしながら ―― あんたのことを、聞いたのよ。

好奇心を唆られ、ゴノポティは、手にしていた絵筆をいったん下に置いて尋ねる ―― 何を聞いたんだい?

―― あのねえ ……  生真面目になろうと努めながら、ショロッショティは答え始める ―― あのねえ …… だが、それ以上続けることはできなかった。

―― 何て言ったんだい?

ガラスの器が、突然、美しい響きとともに砕け散ったかのようだった。無邪気な声で笑い転げると、ショロッショティは言った ―― どうして老いぼれと結婚したのかって ……

ゴノポティの顔は好奇の笑みに輝いた ―― で、おまえは何と答えたんだ?

―― あのね、こう言ったのよ ―― 老いぼれだからと言って、奥様、捨てたもんじゃありませんわ。10万ルピーの値打ち物ですわよ。死んだ象にも10万ルピー、って諺がありますでしょう? 私のこの象は、老いぼれとはいえ、まだ死んでもいないんですよ。ゴノポティとはつまり、象神(ガネーシャ)のこと。ガネーシャ神には、ながーい鼻が、ついているんですから!

ゴノポティははあはあ大笑いをすると言った ―― 何度も肩を揺すって賞讃を表しながら ―― よくぞ言った、ショロッショティ ―― まったくおまえの言う通りだ。老いぼれ象! ゴノポティとはつまり、ガネーシャ神! ガネーシャの頭には、長い鼻! まさに、図星だ!

ショロッショティは、足を投げ出してすわると、微かに笑い始めた。

ゴノポティは、不意に絵筆を手に取ると、ショロッショティの投げ出した足の片方を左手でつかんで言う ―― 絵筆で、おまえの足にアルタ [漆をベースにした赤い汁を、足の甲・指・踵の回りに塗る。女性の化粧のひとつ] を塗ってやろう!

ショロッショティは一瞬眉を顰めたが、次の瞬間、お歯黒を塗った歯を見せつけて笑い始め、―― でも、あの子たちが来たら、言いつけちゃうわよ!

ゴノポティは、それに答えることすらしなかった。あの子たちとは、遠縁の孫に当たる村の若者たちである。毎日日暮れ時になると、彼らはここに礼拝(ナマーズ)に来、それが終わると夜更けまで雑談に花を咲かせ、一騒ぎする。彼らは徒党を組んで次々に謎々を繰り出し、ショロッショティを打ち負かそうとする。ショロッショティはひとりそれに立ち向かうと、彼らに向けて謎々の矢を浴びせ返す。老いぼれゴノポティは微笑を浮かべながら傍観している ―― 必要とあらば仲裁に入って、甲乙をつけるのにも(やぶさ)かではない。

 

絵巻物師たちは、イスラーム教徒であるにも拘わらず、日々の習慣・身振り・名前においては完全にヒンドゥー教徒である。イスラーム風の礼拝(ナマーズ)をするいっぽう、ヒンドゥーのブロト儀礼や宗教習慣も守り、ヒンドゥー教で禁じられているものを食べもしない。男女の神々の像を造り、絵巻にヒンドゥー教のプラーナ聖典に基づく物語の絵を描く。その絵巻物を見せながら、節をつけて神々の戯れの物語を吟じ、喜捨をもとめる。出自を問われると、イスラームと答える。農耕には手を染めない。家、行商する道、所帯持ちの家々の扉――この三つ以外に、土との繋がりはない。まさにこのために、ショロッショティのような女であっても、彼らの社会は罰することをしないのだ。だが、彼らの舌も、やはり人間の舌である ―― 誹謗中傷には事欠かない。絵巻物師の居住区は、ショロッショティに対する悪口雑言に満ち満ちていた。だが、遠い地平線の稲光のように、その悪口の兆しは見えても、生命を脅かす稲妻や雷の轟きがショロッショティとゴノポティの目の前に姿を現わすことは、これまで決してなかった。その稲光の熱と雷の轟きに、ショロッショティは、その日初めて出くわしたのだ。その日、市からの帰り道、ショロッショティには彼女と同年輩の女の共連れがいた。彼女の日暮れ時の集まりにいつもやって来る、遠縁の孫の連れ合いである。途次の人気ない野原で、その女は言い掛かりをつけて口論を始め、まさに稲光のように火を噴き、ショロッショティに向かって金切り声を上げた ―― この恥知らず! ひとでなし! 首に縄を巻いて、死んじまえ、首に縄を巻いて!

ショロッショティは大笑いして言い返した ―― 首に縄を巻いて、ムクバナタレオボク [幽霊の住処と信じられる] の枝にかけると、お化けが恐くってね。あんたの旦那に縋りたくなるわ!

共連れの女は前後を失い、ショロッショティのもとを離れると、横道に逸れて別の村の方角に向かった。

家に戻ると、ショロッショティは口をサリーの裾で覆い、身を踊るようにくねらせ、笑いながらゴノポティに向かって言った ―― いいものを手に入れてきたわ!

ゴノポティは、クリシュナ神物語の絵巻を描いていた。彼は驚く様子も見せず、笑みを浮かべて言った ―― 何だい?

―― ごらんなさい!

彼女は籠を開けて中を見せた。

―― おやおや! こんなにたくさんの小粒トウガラシ、どうする気だ?

―― 近所に配るわ!

―― どうしてだ?

ショロッショティは笑い崩れた。それでも何とか自分を抑え、道での出来事を洗いざらい話すと、笑いながら言った ―― 私が育てたトウガラシだ、って言ってやるわ。トウガラシを食べたオウムはとても口まねが上手なの、あんたたちも食べてみるがいいわ、私の言うことなら、何でも聞くことになるから、ってね!

ゴノポティは、口に悪戯っぽい微笑を浮かべ、魅せられたように彼女の顔を見つめていた。

―― どうしたの、黙っちゃって? 老いぼれ象の頭に、鉤棒を一突き、お見舞いしましょうか?

こう言うと、ショロッショティは、また口をサリーで覆って笑い始めた。

ゴノポティは言う ―― トウガラシより、チテ・コドマ [コドマ(カダムバ)の花の形をした、ねっとりした甘菓子、コドマ菓子はショロッショティ女神の祭祀で振る舞われる] を配ったらどうだ、やんちゃ娘のショロッショティさん? みんなの歯にひっついて、口を開けることができなくなるぞ!

―― そんなの、つまんないわ!

ショロッショティにはこの考えが気に染まなかった。

しばらくして、ゴノポティはショロッショティを呼んだ ―― ごらん!

彼は、新しい絵巻物の、描いたばかりの場面を彼女に示した。ヤムナー川のガート [川岸にある階段状の共有施設、沐浴・洗濯などに使われる] で、一人の女の顔を別の女が指さしながら、怒りに目を見開いて佇ちつくしている。

クリシュナ神物語の絵巻物の中に、ショロッショティは今まで、このような場面を見たことがなかった。彼女は驚いて尋ねた ―― これ、いったい何の絵なの、師匠?

ゴノポティは、左手で絵巻を差し上げ、右手で絵を指し示しながら、節回しをつけて誦し始めた ――

 

           クティラーは 両の目を ギラギラ燃やし、

           歯ぎしりしながら ラーダーに言う:

           「このライの 恥知らず! ひとでなし!

           おまえみたいな面汚し この牛飼い村(ゴークラ)に、他にいないわ!」

 

ショロッショティは、地面に身を転がして笑い始めた。長いことこうして笑うと、身を起こしてすわり直し、絵の方に目を注ぎ始めた。そして言った ―― でも、クティラーの鼻を、もう少し上に向けてやればよかったのに! こーんな風に!

こう言うと、彼女は鼻に皺を寄せて、上に向けて見せた! ゴノポティは笑った。ショロッショティは、改めて、一心に絵を見つめ始めた。もう一度眉に皺を寄せて、口を開いた ―― いったい、どの店の絵の具を取り寄せたのかしら? どの色もみな、埃っぽくて、がさがさしているわ。

―― 土埃がついたんだよ、絵の具のせいではない。道に面した部屋、ファルグン月 [2月半ば〜3月半ば、春の季節] の田舎道だ …… 馬車や牛車が通る度に、埃が舞い上がる!

この言葉にも、ショロッショティは笑い転げる。

―― あんたの頭、どうなってるの! ひ ひ ひ ひ! 一本一本、白髪の先っちょに、土埃がくっついてるわ …… カダムバの花に、そっくり!

 

共連れの女が腹を立てたのには、理由があった。女の夫の絵巻物師ゴノッシャムは、ゴノポティの孫仲間の中で、ショロッショティが一番可愛がっている相手なのだ! ゴノッシャムは、煉瓦造り職人として、結構な実入りがある。時代の変化とともに、絵巻物師の男たちは、いくつかの新しい仕事をするようになった。以前、彼らは絵巻を描いた――絵巻物を見せながら節回しをつけて物語を誦した、絵巻物がなくてもモンディラ [鐘青銅の小さなシンバル] を鳴らしながらプラーナ聖典の物語を誦し、神像を作り、人形を作り、煉瓦造り職人として働いた。手先が器用でない男たちは、土の家を作ったものだ。いま彼らは、壁に油絵の具で蓮の葉や花の模様を描く――木材に彩色したりニスを塗ったりもする。中には織工の仕事をする者もある。ゴノッシャムは彩色の仕事を覚えたので、あちらこちらの裕福な家に出向いて壁に色を塗る。街の市場から、彼は、ショロッショティのため、並みのジョルダ [タバコの葉に薬物を混ぜて作る香辛料、キンマの葉に包んで食する] を毎回手に入れる。銀色ジョルダやキマム [ミントの香りの彩り豊かな香辛料、キンマの葉に包んで食する]、あるいは他の贅沢品を、二三供することもある。

ゴノッシャムは彼女を、「輝き姉さん(ランガ=ディディ)」と呼ぶ。

ショロッショティは、お歯黒を塗った歯を露わにして、彼を「黒い黄金(ケロ=ショナ)」と呼ぶ。

ゴノッシャムは色黒である。ゴノポティ自身が、彼にこの綽名をつけたのだ。

その日、ショロッショティが配り歩いた激辛の小粒トウガラシは、近隣の家々に不快の種を撒き散らした。孫たち一行は、渋面を引っさげてやって来た。ゴノッシャムに対する偏愛は、これまで、丸のままのトウガラシのように、それがもたらすにはおかぬ苦痛を、秘密めかした冗談の蔭に覆い隠してきた。この日、ショロッショティ自らその覆いを引き裂き、中にある毒を解き放ったのだ。ゴノッシャムもやって来たが、彼も気分を害していた。彼の妻が彼を烈しく責め立てたのだ。

ゴノポティは新しい絵巻物を見せていた。ショロッショティは料理しながら、いつものように、面白おかしい謎々の矢を、次々と繰り出していた。だが、相手の孫たちからは、今日はなかなか反応が返ってこない。ショロッショティは水が足りなくなったので、水甕を腰に載せて立ち上がった。 ―― 誰が案内してくれる? あんたたち色男の中で?

一人が言う ―― あんたの黒い黄金(ケロ=ショナ)がいるだろ?

―― じゃあ、あんた来て、私と一緒に。

ゴノッシャムは立ち上がった。

一人が言う ―― 黒い黄金(ケロ=ショナ)が行くとして、労賃を払うのかい、輝き姉さん(ランガ=ディディ)

縁側から中庭に下りると、ショロッショティは振り返ってその場に立ちつくす。

―― 何のための労賃? ただ働きをするのに、いったい誰が労賃をもらえるというの?

―― どんでもない! ゴノッシャムは、ただじゃ働かないぜ!

――ただ働きしない、ですって?

―― そうさ。やつは黒い黄金(ケロ=ショナ)だ。黒い色の黄金、黄金の石の器だ。それが、どうしてただ働きしなきゃならねえんだ?

ショロッショティは、高らかな笑い声とともに言った ―― それもそうね! ねえ、黒い黄金(ケロ=ショナ)、労賃に何がほしい?

ゴノッシャムが口を開く前に、一人が声を上げた ――

 

           他の女伴侶(ショキ)なら 駄賃は 1アナ [4パイサ

           ラーダーからは 黄金の耳飾り!

 

別の一人が、すぐさま口を開く ―― あんたを輝き姉さん(ランガ=ディディ)と呼ぶのはもうやめだ …… これからは「色女(ビノディニ)」だ。

 

           黒い黄金(ケロ=ショナ)が 名前をつける ラーダー色女(ビノディニ)

 

あんたの名前は「色女(ビノディニ)」だよ。

ゴノポティは大笑いして言った ―― おい、孫よ、よくぞ言った。その褒美に、おまえがまずこいつを吸うんだ! さあ、受け取れ!

彼は、水煙管を丸ごと差し出した。

ショロッショティは開けっぴろげに笑い始め、身体を大きく波打たせ、身を翻してガートに向かって佇むと、口を開いた ―― じゃあ、笛を持ってきなさいな、黒い黄金(ケロ=ショナ)。ガートの縁に立って、あんたは笛を吹くのよ …… 私はそれに合わせて、水を何度も、汲んだり捨てたりするわ。

ショロッショティのこの恥知らずな言動を前に、孫たちの一団すらも、この日、呆然としたのだった。ゴノッシャムとの間の秘かな恋愛を、こんな風にあからさまに宣言したのを見て、彼らは、全身嫌悪に総毛立った。一人がゴノポティに向かって言った ―― おれたちはあんたを尊敬するし、愛してもいるよ …… だが、今度という今度は、首を縊って死んじまった方がいいぜ! この恥知らず!

ゴノポティは、それに応えて、集まった孫たちの数を数え始めた。皆、驚いて彼の顔を見つめていた。数え終わると、いかにもがっかりしたというように、彼は言った ―― 多すぎる。五人どころか、八人もいる。五人だったらなあ …… あいつの名前を、ドラウパディーにしたんだが …… おまえたちも、パーンダヴァ族の兄弟になれたんだが。 [ドラウパディーはパーンダヴァ族五人兄弟の共通の妻(『マハーバーラタ』)

言い終えると、老いぼれゴノポティは、微かに笑い始めた。

孫たちは、数瞬、沈黙を守ると、そのまま一人、また一人と立ち上がって、その場から去った。

ショロッショティは、高らかな笑い声をあげながらガートから戻った。ゴノッシャムは、黙って明かりを足下に置くと、虚(うつ)けのようにその場に立ちつくした。ゴノポティは言った ―― すわったらどうだ、黒い黄金(ケロ=ショナ)

ゴノッシャムはごくりと唾を呑み込むと言った ―― 夜も更けたんで …… いや …… 帰ります。

こう言いながら、彼は退散するのに忙しかった。ショロッショティの笑いは、さらに弾けた。

ゴノポティは、何も聞き質すことをせず、刻みタバコの葉を煙管に詰め始めた。ショロッショティは、口をサリーの裾で覆うと、笑いながら言った ―― 老いぼれと別れて、おれと結婚しろ、ですって!

ゴノポティはギクリとして顔を上げ、ショロッショティの顔の方を見遣ったが、次の瞬間には、彼もまた微かに笑い始めた。

 

翌日から、孫たち一行は、ゴノポティの家に礼拝(ナマーズ)をしに来なくなった。別のある年寄りの絵巻物師の家を、礼拝(ナマーズ)の集いの場とした。絵巻物師オビラムは、財においてはゴノポティに引けを取らない。彼は、優秀な煉瓦造り職人で、趣味のいい紋様を描くのが得意である。だが絵巻物師の伝統の点から言うと、煉瓦造りの仕事はこの社会ではさして価値がない。オビラムは、こんな風に思いもよらず、礼拝(ナマーズ)をする若者たちすべてを手中にする機会を得て、欣喜雀躍した。彼は、軽食やタバコばかりか、一束のビリまで用意したのだ! ドゥギとタブラ [伴奏用の左右一対の太鼓  にモンディラを買い揃え、物語歌を競い合う集いのお膳立てまでしたのである。

だが、ゴノッシャムだけは、ゴノポティの家に通うのを止めなかった。このことをめぐって、絵巻物師たちの女社会は非難囂々(ごうごう)だった。彼女たちは、ショロッショティと一緒に商いに出かけることすら打ち切ったのだ。だがそれでもショロッショティには何の支障もなかった。腕環や人形を入れた籠を頭に載せて、彼女はひとり、村々を巡り歩いた。近隣の女たちの口から口へと、あたり一帯に彼女の醜聞が伝わったため、市では、蜜に群がる蜂のように、彼女の売り物の前に人だかりができるようになった。人通りの少ない道端でさえ、買い手の一人や二人には事欠かない。ショロッショティは、すぐその場で、腕環や人形の入った籠を下ろしたものだ。彼女の輝き姉さん(ランガ=ディディ)という呼び名すら、誰もの知るところとなった。買い物客たちは、笑いながらこう呼びかける ―― 輝き姉さん(ランガ=ディディ)

彼女は答える ―― どれがお好き、お孫さん!

ゴノッシャムは、ある日、これを聞いて腹を立てた ―― 何が輝き姉さん(ランガ=ディディ)だよ、バカバカしい!

ショロッショティはそれには答えず、彼を鼻であしらって事を荒立てた。

―― 笑うんじゃない、笑い事じゃないだろ!

次の瞬間、彼女は口をサリーの裾で覆い、湧き起こる笑いに身を任せた。

ゴノッシャムは腹を立ててその場を去った。それから二日間、姿も見せなかった。三日目に、ショロッショティは籠を頭に載せて、一里ほど離れたゴパルプルへ向かう道を辿った。ゴノッシャムは、いま、その村の大地主家の古い館を、新たに塗り替えているところだった。旦那方が、都会を離れ、この家に住むことになるのだそうだ。村では、ショロッショティはもはや誰の家にも行かない。行くと、女たちが、なりふり構わず、口論をふっかける。

巨大な柱の列に支えられた、大地主家の本館事務所である。正面入り口の両側には、石灰塗りの白い二頭のライオンの像がある。ショロッショティは、入り口の扉の前に立ち、顔を笑いに綻ばせると声を張り上げた ―― いらんかね〜! いろど〜り〜 う〜で〜 

最後まで言い終えることができず、無邪気な笑いを爆発させた! だが、その笑いは突然遮られた。事務所の入り口の扉の前に、二十歳過ぎの、どこかの王子様に見紛う黄金の姿が現れたのだ!

ゴノッシャムも出て来たが、彼は蔭に隠れて、何度も手で合図を送っていた ―― 退散しろ、退散しろ! と。

ショロッショティは、だがその時、ゴノッシャムの合図を受け止める余裕がなかった。驚きのあまりその目はうっとりと見開き、王子様の方に釘付けになっていた。

若者は、実際、王子様、即ち大地主家の長男だった。最近、学位認定試験を終えて、前の日にここにやって来たのだ。ここで何日が休養を取る予定である。彼は眉を顰めて口を開いた ―― 何の用だ?

―― 腕環、彩り腕環があるんです。いらんかね?

若者は声を上げて笑うと言った ―― 腕環をどうしようって言うんだ?

ショロッショティは、一瞬気勢をそがれた。だがすぐに言葉を見つけて返した ―― 奥様の手につけて差し上げましょう。

―― その奥様はいないよ。腕環はいらない。

―― 人形、人形はいらんかね?

―― そんなもの、どうするんだ?

―― テーブルに飾ったらいいですよ。白人の旦那方も、私たちの人形を買って行くんです。

―― そうなの? 見せてごらん、君の人形を。

ショロッショティは頭から籠を下ろした、彼女なりの恭しい素振りを見せながら、しかも生まれて初めてサリーの裾を引いて、頭をしっかり覆い隠したのだ。そうしてから土製の人形を取り出した――「ふさふさ髪」、「着飾り娘」、「庭師の女」、「牛飼い女」、馬、虎、ライオン。

王様の息子は、すっかり心を奪われて言った ―― うわ〜! この人形、君たちが作ったの?

―― そうなんですよ!

馬を取り上げて、ためつすがめつ眺め、若き地主は言った ―― これ、馬なの?

―― そうですよ。翼の生えた馬です。空を飛ぶんですよ! ふつうの馬じゃありません。

―― なるほどね。で、いくらなの? 言ってごらん?

ショロッショティは、含み笑いをすると、頭を隠したサリーの裾をさらに引いて言った ―― あらまあ! 値段なんて、私には言えませんわ …… お代をいただくだなんて! お布施をくださいな。あなた方の施しが、私たちには宝の山です!

地主の息子は、1ルピー札 [= 64パイサ] をショロッショティの前に投げた。ショロッショティの顔は輝いた、人形の値段は一つ2パイサで、7つの人形に14パイサ以上払う者はいない。彼女は1ルピー札を拾い上げると、それを額に当てて拝み、サリーの端に縛り付けた。そうした後も彼女は立ち上がらなかった。改めて口を開く ―― 絵巻物はいらんかね? 絵巻物は?

―― 絵巻物?

―― はい、ラーマーヤナ、クリシュナ神の戯れ、ゴウランゴ [「白い肢体」の意、チャイタニヤの別名] の戯れ! 白人の旦那方も買って行くんですよ!

―― おお、そうなの! 絵巻物か! 君たちは、絵巻物も描くのか? でも新しい絵巻はダメだよ、古いやつがほしい。ある? 君たちのところに?

―― はい、うちの主人は昔からの絵巻物師で、60歳の年寄りなんですが ―― その筆で描いた絵巻物があります。

―― その主人って、君の旦那のこと? 60歳の年寄り?

―― はい、その通りですわ。

ショロッショティは頭を下げ、膝の間に顔を突っ込むと、くすくす笑い始めた。

ゴノッシャムは、蔭に隠れて、最初から何もかも聞いていたが、ショロッショティの押し殺した笑い声を耳にして、全身、嫌悪に総毛だった。

 

翌日の真っ昼間、再び甘い声が高らかに響き渡った ―― いらんかね〜! いろど〜り〜 う〜でわ〜 ……

地主家の事務所の窓に王子様の姿が現れた。―― 絵巻物を持って来たかい?

頭に載せた籠を下ろし、頭をサリーの裾で隠すと、ショロッショティは笑って言った ―― あらまあ! 王様が命令されたのに、持って来ずにいられますか?

―― だって、彩り腕環って、言ったじゃないか?

―― いらんかね〜 絵巻物〜 って、変な響きでしょう? こう言うと、彼女は、空いた手でサリーの裾をさらに引き、口を覆って笑い始めた。

―― さあ、君の絵巻物、部屋の中に持っておいで。

部屋に入ると、籠を下ろし、ショロッショティは口を開いた ―― とってもいい絵巻物を、持って来ましたわ。「ゴウランゴの戯れ」の。

―― 「ゴウランゴの戯れ」絵巻って、そんなにいいの?

―― ゴウランゴの絵巻、きっと気に入りますわ。あなた様、ゴウルチャンド [「白い月」の意、チャイタニヤの愛称] のような肌の色で、同じように美しくいらっしゃる ……

―― 何てこと、言うの!

―― そうですわ。私、あなた様を、ゴウルチャンドと呼ぶことにしたんです。ごらんなさい ―― こう言うと、絵巻物を広げ、彼女は節をつけて誦し始めた ――

 

           黄金のゴウルが行く 道を光り輝かせ

           娘たちは 羞じらいのあまり 死んでしまいそう 

           ああ、誰もこの方を 縛れはしない。

 

30ルピーで三つの絵巻を売って、ショロッショティは、浮かれた仕草で、意気揚々と、身をくねくね踊らせながら家に戻った。3枚の10ルピー札をゴノポティの前に投げ出すと言った ―― ほら! 私のゴウルチャンドが、どんなに気前がいいか、分かるでしょ! 次の瞬間、口をサリーの裾で覆って笑い始めた。

―― 言っちゃったのよ、旦那に …… 怒らなかったわ …… こう言ったの、あなた様を、ゴウルチャンドと呼ぶことにしたんです、ってね。顔が辰砂色の雲みたいに、真っ赤になったわ。

ゴノポティも笑った …… この日は、だが、彼の笑いは翳っていた。彼は言った ―― だが、ゴウルへの愛は、こいつらには我慢できないぞ。女たちはホラ貝の棘のように口さがないし、おまえの黒い黄金(ケロ=ショナ)も、それに調子を合わせているんだ …… おまえが死んでも、葬ってやるもんか、と言ってな。

ショロッショティは口を覆って笑いながら言う ―― あらまあ! それなら、私、怖くて死んでしまうわ。あんたより前に私が死ぬなんて、私、考えたことないの。あんたはまた、嫁をもらうのよ …… キラキラ輝く …… チャンパの花のような色の。

ゴノポティは笑って言った ―― そういうわけにはいかないさ、輝き奧さん(ランガ=ボウ)。わしの身体は、もう、言うことを聞かん。

ショロッショティは笑う、寂しげな笑いを。 ―― そんなこと、考えたらダメよ。

ゴノポティは、それ以上何も言わなかった。

次の日の昼、再び、ゴパルプルの道に、呼び声が響いた ―― いらんかね〜、いろど〜り〜 腕環!

 

ゴノポティが言ったことは本当だった。だがショロッショティの目には留まらなかったのだ。ゴノポティの身体の中は、空っぽになっていたのだった。それから10日あまり経ったある日、ショロッショティがそのゴパルプルから帰って来て見ると、絵筆を手にしたまま、描きかけの絵巻物の前で、ゴノポティは、ぴくりともせず、凍りついたように倒れていた。抑え難い震えにぶるぶる身体を震わせながら、彼女はその場にへたり込んだ。

ゴノポティは死んだが、彼が生前心配していたことは、杞憂に終わった! 彼の孫の一団は、駆けつけずにはいられなかったのだ。だが、ショロッショティを慰めに来る女は、一人もいなかった。

ゴノポティの埋葬が終わった後、孫たちは、久方ぶりに、また輝き姉さん(ランガ=ディディ)の縁側にしばらくすわって時を過ごし、家に帰った。

三日ほど後のことである。

ゴノッシャムが朝早くやって来て、縁側に腰をおろした ―― おい、どうしている?

ショロッショティは笑って答える ―― あら、いらっしゃい、色男さん!

前置きなしで、ゴノッシャムは言った ―― さあ、どうするつもりだ?

口をサリーで覆って、ショロッショティは言う ―― 何のことかしら?

―― 結婚の話だ。どうする気なのか、言ってみろ?

―― ダメよ。後妻と一緒に住むなんて、私にはできないわ!

―― あいつと、もし別れたら?

―― ふーん …… それなら、一緒になってもいいわ。

―― 待ってろよ!

―― わかったわ! 私の黒い黄金(ケロ=ショナ)の約束ですもの。いいわね?

―― だがな。おまえ、今までみたいにうろつき回るのは、なしだぜ。

―― いいわよ!

この話には、しかし横やりが入った。孫の一団の旗頭、ディジョポドが姿を現した ―― おおい、輝き姉さん(ランガ=ディディ)はいるか?

―― あら、兄弟、どうぞいらっしゃい!

ショロッショティは笑みを浮かべて迎え入れた。

ゴノッシャムは立ち上がってその場を去った。ディジョポドが代わって腰をおろすと、切り出した ―― それで?

ショロッショティは笑いながら ―― 私の話はこれでおしまい、ヒユの葉は萎れちゃった。ヒユの葉よ、あんたはどうして …… [口承の物語の最後の台詞

ディジョポドは、気圧された笑いを浮かべながら ―― ふん、バカバカしい!

―― 何よ? 何がバカバカしいのよ?

―― 老いぼれ爺さんが死んで、おまえがどうする気か …… 聞きに来たのに …… なのに、おまえは ……

―― 老いぼれが死んだんだから …… 私は結婚するわ。

―― ふむ。 それなら ……

―― いいえ! 後妻と一緒に住むなんて、私にはできないの。お帰りなさい。

―― おれが、もし別れたら?

―― そうしたら、いらっしゃい。私、台座(ピンリ)婚礼の時、その上に花婿と花嫁が共に立ち、祝福を受ける] を広げて待っているわ。いまはお帰りなさい …… 私、ゴパルプルの地主の旦那に、人形を届けることになっているの。

彼女は籠を整えると、扉に錠を下ろし、家の外に出た。錠を下ろす時、深いため息をつかずにはいられなかった。老いぼれはあの場所にすわって絵を描いたのだ。錠を下ろす習慣が彼女にはなかった。

静まり返った正午。

ゴパルプルの道に呼び声が響いた ―― いらんかね〜! いろどり〜 う〜で〜わ!

だが、地主家の窓が、この日開くことはなかった。どこにもコトリとも音がしない。どの窓も緑色の左右の開きがぴったり閉じられ、一部の隙も見えない!

ゴウルチャンドは立ち去ったのだ。

 

絵巻物師の居住区は、ほとんどどの家も、忍び泣きのくぐもり声に満ち満ちていた。若い嫁たちは、秘かに顔を覆って涙に暮れていた。だが、誰も、他の嫁たちが泣き暮らしていることを、知る由はなかった。旦那たちは、彼女たちと別れることに、意を決したのだ。

だが、驚くべきことには、ショロッショティは、死なずして彼らを解き放ったのである。

次の朝起きると、皆の目の前から、ショロッショティは姿を消していた。どこに行方をくらましたのか? 孫たちは皆、互いの消息を探り合い、互いの姿を見て安堵した。彼らは残らず家にいた ―― ただ彼女ひとりがいなくなったのだ。

誰もが慌てて裁判官(カージー)のもとに走った ―― 離婚願いを取り下げるために。女たちは涙を拭い、罵詈雑言に明け暮れた。

 

彼女をショロッショティの名で知る者はいない。輝き姉さん(ランガ=ディディ)の腕環と土人形の店は、街では有名である。

熟れたマンゴーのような色白の肌をした、歳のいった輝き姉さん(ランガ=ディディ)の顧客たちは、決まって、彼女の手製の品物を買い求める。七、八歳の子供たちは、しょっちゅう人形や腕環をこわし、新しいものを買いに来る。

―― 何がほしいの、坊や? 天馬? 昨日買ったのは、人食い鬼が食べちゃったの?

―― なあに、嬢ちゃん? 今日は、どの腕環? 「心の(とりこ)」? それとも「青い宝石」?

絵巻物師のばばあには、山ほど金がある、との噂である。

プロフィール

bengaliterature

Author:bengaliterature
大西正幸(おおにし・まさゆき)

東京大学文学部英語英米文学科卒。1976~1980年インドに留学。ベンガル文学・音楽などを学ぶ。オーストラリア国立大学文学部言語学科にて、ブーゲンビル(パプアニューギニア)の少数言語モトゥナ語の記述研究でPh.D.取得。名桜大学(沖縄)教授、マックスプランク研究所(ライプツィヒ)客員研究員、総合地球環境学研究所客員教授などを経て、現在は同志社大学文化遺産情報科学調査研究センター嘱託研究員。専門はベンガル文学・口承文化、記録・記述言語学、言語類型論。

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