別れの挨拶(アーダーブ)
別れの挨拶 解題
現代ベンガル文学の代表的作家の一人、ショモレシュ・ボシュ(1924~1988)の最初期の作品。文学誌『ポリチョエ [実相]』1946年秋季特別号(おそらく同年の9月後半に出版)に掲載され、彼の名を一躍高めました。標題の「アーダーブ」は、インドのイスラーム教徒の日常的な挨拶。右手の掌を内側に向け、額近くまで持ち上げる動作を伴います。
作品の舞台は、東ベンガルのダッカ [現バングラデシュの首都]。時は1946年8月28日、イスラーム教徒の祝祭イードの前日です。
この年、インドのイギリスからの独立をめぐって、イスラーム国家の分離独立を主張する全インド・ムスリム連盟と、それを認めないインド国民会議派との間で、対立が激化していました。そして、8月16日、全インド・ムスリム連盟の「直接行動」を引き金に、カルカッタで the Great Calcutta Killing と呼ばれる暴動が起き、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間で4日間にわたる大規模な殺し合いが続きました。その余波は、その後ベンガル各地、さらにはインド各地に広がりました。中でも10月10日に東ベンガルのノアカリで始まった暴動は、大規模なものでした。
この作品はこうした状況のさなかに書かれました。ダッカ市内でも、カルカッタの大暴動の後、両者の間に緊張が続き戒厳令がひかれていたのが、この作品から窺えます。小説の冒頭にある刑法第144節は、「人を殺傷する武器を帯びて非合法的な集会に参加すること」を禁ずる法律。また、「アッラーは偉大なり!」、「母に帰敬します!」は、それぞれイスラーム教徒、ヒンドゥー教徒のスローガンです。
小説に出てくる主な地名について:
ヴィクトリア・パークは、旧ダッカ市街の中心にある公園。1857年に、ここで、「第一次インド独立戦争」[イギリスの植民地支配に対するインド人傭兵を中心とした大反乱] で捕虜となったインド兵の公開処刑が行われ、その後、戦死したイギリス兵のための記念碑が建立されました。また翌年には、ヴィクトリア女王のインド統治の布告が行われました。イギリスのインド統治の象徴的存在です。(1947年の東パキスタン独立後、ムガル帝国最後の皇帝の名を取って、バハードゥル・シャー・パークと改名されました。)
ブリゴンガ [「老いぼれゴンガ」の意] はプラフマプトラ=ヤムナー川の支流で、かつてゴンガ[ガンガー/ガンジス川]の一部だったことからこの名があります。ダッカ市はこの川の北沿岸に形成されました。
「渡し守」が目指すバダムトリの舟着場はヴィクトリア・パークの西方、また「雇われ」が働く紡績工場のあるナラインゴンジュはブリゴンガ沿い、ダッカ市の南東に位置します。
訳者注について:
文章内の[ ]は訳者による注です。
別れの挨拶
ショモレシュ・ボシュ
夜の静寂を震撼させ、軍の警備隊の車がヴィクトリア・パークの横を一巡すると、姿を消した。
街には刑法第144節と夜間外出禁止令が公布された。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間で殺し合いが起きている。鉈、槍、短刀、棍棒を手にしての正面衝突。その他にも至る所に散らばる暗殺者の群れ ── 夜闇をいいことに人目に隠れて殺戮を続ける。
強盗たちは徒党を組んで出没する。死の恐怖に満ちたこの闇夜が彼らの歓喜をいやが上にも高める。貧民街が次から次へと焼き討ちに遭う。死に怯えた女子供の叫び声が場所場所の空気を凄まじいものにする。それをめがけて兵士たちを乗せた車が襲いかかる。彼らはやみくもに四方八方めがけて銃弾を浴びせ続ける、法と秩序を守るという名目の下に。
二つの方角を向いた二つの路地が、この場所で一つになっている。ゴミ箱がひっくり返ったまま、二つの路地の中央にやや潰れた状態で転がっている。それを楯にして、一人の男が、路地の中から這いつくばりながら姿を現した。頭をもたげる勇気はなく、しばらくはもののようにその場にうずくまっている。そのまま遠くの不明瞭な喧噪の方に耳を傾けている。だが、まったく聞き分けることができない
── 「アッラーは偉大なり!」なのか、それとも「母に帰敬します!」なのか。
突然、ゴミ箱がわずかに動いた。不意を打たれ、全身の血管の隅々にまで震えが走る。歯噛みして手足を強ばらせ、何か恐ろしいことが起きるのを待ち構える。数瞬が過ぎた …… 動く気配がない。一面の静寂。
たぶん犬だろう。追い払うつもりで、男はゴミ箱を少し押しやった。暫しの沈黙。と、またゴミ箱が揺れた。恐怖と共に今度は少し好奇心が出てきた。ゆっくりと頭をもたげる …… 向こう側からも、ちょうど同じように頭をもたげた者がいる。人間だ。ゴミ箱の両側に、二つの生きものが微動だにせず凍りついている。心臓の動悸は乱れ、今にも止まってしまいそうだ
…… 貼りついた四つの目のまなざしは、恐怖と疑念と興奮でぎらぎらしている。どちらも相手を信じることができないでいる。お互いに相手を人殺しだと思っているのだ。目で目を見据えながら二人とも襲撃を待ち構えていたが、しばらく待っても、どちらの側からもそれが来ることはなかった。今度は二人の頭に一つの問いが浮かぶ
── ヒンドゥー教徒? それともイスラーム教徒? この問いの答が得られるや否や、決定的な結末が訪れるかもしれない。それで二人とも、相手にあえて問いただす勇気が出てこないのだ。命を失う恐怖に怯えた二つの生きものはまた、逃げることもできない
── 短刀を手に襲いかかられる恐怖で、身動きできないのだ。
長く続くこの疑念に満ちた不快な状況に、とうとう二人とも痺れを切らしてきた。一人がついに問いを発した ── ヒンドゥーか? それとも、イスラームか?
─ おめえが先に言えよ。 相手が応じた。
身元を明かすのが二人ともいやなのだ。彼らの心は疑いに揺れている …… 最初の問いはそのままに、また別の話題が出る。一人が尋ねる ──
家はどこだ?
─ ブリゴンガの向こう岸 ── シュボイダよ。おめえは?
─ チャシャラよ ── ナラインゴンジュの側だ。 …… 仕事は何だ?
─ 渡しよ、おれは。川の渡し守よ。で、おめえは?
─ ナラインゴンジュの紡績工場の、雇われよ。
また、沈黙。暗闇の中、二人は気づかれぬように互いの容貌を見ようと努める。互いの衣服を細部まで見極めようと。だが、暗闇と間に立つゴミ箱がその邪魔をする。…… 不意に、どこかすぐ近くで騒ぎが起きる。敵対する両陣営の猛り狂った喚声。紡績工場の雇われと渡し守は、二人とも、怯えのあまり身じろぎする。
─ すぐそこで、始まったみたいだぜ。 紡績工場の雇われの声は恐怖を露わにした。
─ おい。とっとと、ここからずらかるんだ。 渡し守の声も恐怖に震える。
雇われが遮った。 おいおい、よせ ── そこを動くんじゃねえ。命が惜しくねえのか?
渡し守の心は、また疑いに揺れた。この野郎、何か企んでるんじゃねえだろうな? 雇われの目の方を凝視した。雇われも見つめていた。目と目が合うと、彼は言った
── すわってろ。そのままだ ── 動くんじゃねえ。
渡し守の胸は、雇われのこの言葉に、ぎくりとした。この野郎、おれを行かせないつもりなのか。彼の目の隅々にまで、また猜疑の色が広がった。
── どうしてだよ?
─ どうしてだ、だと? 雇われの押し殺した声が響く。 ── どうしてもくそも、ねえだろ。死にてえのか、おめえ?
その口調が渡し守には不快に響いた。いろいろと起こり得ることを想像して、彼の心は次第に強ばった。
── このまま、この真っ暗な路地にずっと這いつくばってろ、ってえのか?
相手が強情を張るのを見て、雇われの声にも猜疑心が露わになった。
── おめえの魂胆がおれには気に喰わねえんだよ。どの出自かも言わねえで、しまいにはお仲間を呼んで、おれを殺っちまおう、ってんじゃねえだろうな?
─ なんてこと言うんだ、おめえ? 我を忘れ、怒りと悲しみに身を任せて、渡し守は、ほとんど叫び声をあげんばかりになった。
─ おめえのためを思って、言ってるんだよ、兄弟。じっとしてろよ。おれの気持ちが、わからねえのか?
雇われの話しぶりの中に、なにか渡し守を少し安堵させるものがあった。
─ おめえが行っちまって、おれは一人ぼっちでここに残る、ってえのか?
騒ぎは次第に遠ざかって消えた。再び死のような静けさに包まれる、すべてが── 一瞬一瞬が、死を待ち受けるかのように過ぎていく。暗闇の路地の中、ゴミ箱の両側で、二つの生きものが、それぞれの危険のこと、家のこと、母親や妻や子どもたちのことを思っている …… 彼らのもとにはたして生きて戻れるかどうか、いやそもそも、いまこの身が生き延びることができるのかどうか …… まったく何の前触れもなく、突然、落雷のように殺し合いがやってきたのだ。この人びとが行き交う市場 ── 店々には、あんなに笑いや親しい会話が溢れていたというのに
── それが一瞬のうちに、殴り合い、斬り合い ── あたり一面、血の海となった。どうしていったい、こんなに人間は、残忍で冷酷になれるものなのか? 何という呪われた生きものだろう。
…… 紡績工場の雇われは、ため息をつく。同時に、渡し守もため息をつく。
─ ビリ [大衆向けの葉っぱ巻きタバコ] をやるか? 雇われはポケットからビリを取り出すと、渡し守のほうに差し出した。渡し守はそれを受け取ると、いつも通り二三度指で圧しつけ、耳のあたりで何度かほぐした後、唇に挟んだ。いっぽう雇われは、マッチをつけようとして、服がいつの間にか、すっかり濡れそぼれているのに気づいた。マッチが湿り切っている。何度かしゅっしゅっと音がして、青い火花がわずかに散っただけだった。腹を立ててマッチ棒を投げ捨てた。
─ いまいましい、マッチのやつまで濡れちまいやがった。 もう一本、マッチ棒を取り出した。
渡し守は、少し痺れを切らしたとでもいうように、雇われの横に身を寄せた。
─ おいおい、つけてやる、つけてやる。おれに寄越しな ── とっとと寄越せよ。 雇われの手からほとんど奪い取るようにマッチ箱を手にすると、彼はその一本をしゅっしゅっと二三度擦りつけ、本当に火を点してみせた。
─ アッラーのご加護を! ほれ、ほれ ── さっさと火をつけな。 ……
雇われは幽霊を目にしたかのように震え上がった。くわえていた唇の隙間からビリがすべり落ちた。
─ おめえ ……?
一陣の微風が吹き、ふっと吹き消したかのように火が消えた。暗闇の中で、二組の目が、不信と激しい動揺のため、再び大きく見開かれた。数瞬の静寂が続いた。
渡し守がつと立ち上がった。 ── そうだとも、おれはイスラーム教徒だ。 ─ それがどうかしたか?
雇われがおそるおそる答えた。 ── いや、どうでもないが ……
渡し守の脇に挟まれた包みを指さして言った。 ── その中に、何がある?
─ 倅と娘のために、服が二つとサリーが一つだ。明日は、おれたちのイードなんだぜ、知ってるか?
─ ほかに何もねえだろうな? 雇われの疑いはなかなか晴れない。
─ 嘘を言っているとでも、思ってんのか? 信じられねえなら、これを見ろ。 包みを雇われの方に差し出した。
─ いやいや、ただ見るだけだよ。なんせこのご時世だろ? 誰を信じたらいいのか
── そう思わねえか?
─ まったくおめえの言う通りだよ。ところで、兄弟 ── おめえも何か、隠したりしていねえだろうな?
─ 神かけて誓うが、針一本ありゃあしねえよ。何とかこの身ひとつで、家までたどり着けりゃ、ってとこだ。 雇われは、着ているものを上から下まではたいて見せた。
また二人は隣り合って腰をおろした。ビリに火をつけ、黙ったまま、しばらく二人ともそれを喫むことに心を向けた。
─ あのなあ …… 渡し守は、まるで自分の親戚友人に話すような調子で話しかけた。
─ あのなあ ── おめえ、どう思う ── この殴り合い、斬り合い、いってえ何のためだ?
雇われは、新聞に書かれていることを小耳に挟むので、それなりにニュースに通じている。ややいきりたって彼は答えた
── 悪いのは、おめえらのあの、連盟 [全インド・ムスリム連盟] の連中だぜ。やつらが、なんとか行動とか言って、おっぱじめやがったんだ。
渡し守の口調は少々荒っぽくなった ── そんなこと、どうでもいいんだ。おれが聞いているのはな、殺し合いをして、いってえ何になるのか、ってことだ。おめえらの仲間が死んで、おれたちの仲間が死んで。それでいってえ、国のためになることが、何かあるか?
─ おお、おれもそのことを言ってるんだよ。まったく、何になるってんだ。こんなもんだぜ ── 彼は親指を突き出して見せた。 [無益なことを示すジェスチャー] ── おめえが死んで、おれが死んで、子ども達たちゃあ皆、乞食して廻るってわけだ。去年のボードーとかいうやつで、やつら、おれの妹婿をバラバラに切り刻んで殺しやがった。おかげで妹は寡婦、子どもたちはおれの肩のお荷物、ってわけさ。だから言うのさ、指導者たちは屋上にふんぞり返ってお触れを出し、そのとばっちりで死ぬのは、下にいるおれたちだよ。
─ 人間じゃねえ、おれたちゃあ野良犬と同じよ。さもなきゃ、何でこんなに、さんざんっぱら、噛みつかれなきゃならねえんだ? やりきれない怒りに、渡し守は両手で両膝を抱え込んだ。
─ その通りだよ。
─ おれたちのことを、いってえ誰が構ってくれる? まったく、こんな殺し合いが起きたおかげで
── いってえどなた様が、おれの食いぶちを恵んでくれる、ってんだ? …… おれの舟が戻ってくるとでも言うのか? バダムトリの舟着場の水底に沈めちまいやがって ── どこに行ったか、影も形もねえ。大地主ループ旦那の管理人の旦那が、毎月一度おれの舟に乗って、ノイラ洲に地税を集めに行かれたもんだ。ループ旦那は、ハズラト [イスラームの有徳の士] のように鷹揚でいらした。5ルピーの祝儀、舟の駄賃に5ルピー、全部で10ルピーも下さったんだ。旦那のおかげで、おれは毎月、何とか食っていけたんだぜ。ヒンドゥーの旦那がおれの舟に乗ることは、もう金輪際、ねえだろうよ。
雇われは何か言いかけて、口を噤んだ。たくさんの重い軍靴の音が一斉に鳴り響く。その音は大通りから路地の中に向けて進んで来るようだ
── それに間違いない。恐怖に駆られ、二人は問うような眼差しを交わし合う。
─ どうする? 渡し守はあたふたと包みを小脇に抱え込む。
─ ずらかろうぜ。だがどっちに行ったらいいんだ? 道がどうなっているのか、よくわからねえ。
渡し守は言った ── どっちでもいい、とにかくここを出るんだ。ぐずぐずして、警察に痛い目に遭わされるなんざ、まっぴらごめんだ
── あのならず者連中、信用ならねえからな。
─ ああ、その通りだ。どっちか、言えよ ── 連中、もうすぐそこまで来てるぜ。
─ こっちだ。
渡し守は、路地の南向きに開いている方を指さした。 急げ、何とかバダムトリの舟着場までたどり着くんだ
── そうすりゃあ、もう心配はねえ。
頭を低く下げて曲がり角を過ぎると、彼らは必死に走った、そしてパトゥアトゥリ・ロードの真ん中に出た。しんと静まり返った道は電気の明かりで煌々と輝いている。二人とも呆然と立ちつくした
── 待ち伏せているやつはいないだろうな? だがぐずぐずしている暇はない。道の角から角をざっと見渡すと、まっすぐ西に向かって走った。いくらか進んだところで、彼らの背後に馬の蹄の音が響いた。目を凝らすと
── かなり離れたところから、一人の馬に乗った男がこちらに向かって来る。考える暇はない。左手の、清掃人夫が行き来する狭い路地の中に、二人は身を潜めた。少し経って、馬に乗ったイギリス人が、リボルバーを手に矢のような速さで現れ、消えた。彼らの胸に蹄の音を鳴り響かせながら。音がはるか遠くまで遠ざかった後、様子を窺いながら、彼らはまた路地から姿を現した。
─ 道の端に沿って進むんだ。 雇われが言った。
道の際に身体を寄せながら、彼らは怯えた足取りで小走りに進んだ。
─ 待て! ── 渡し守が低声で言った。雇われはぎくりと立ち竦んだ。
─ どうした?
─ こっちに来い ── 雇われの手を取って、渡し守は彼を、パーン [キンマの葉、清涼用に食する] とビリを売る露店の蔭に連れて行った。
─ あっちを見ろ。
渡し守が示す正面の方角に目を凝らすと、百メートルほど離れた一軒の家に明かりが灯っている。高く突き出したベランダには十人あまりの銃を持った警官が柱のように佇み、その前をイギリス人の警視が、パイプの煙の中、絶え間なく腕や頭をふりながら何かしゃべっている。ベランダの下には、もう一人の警視が馬の手綱を引いたまま立っている。いきり立って落ち着かない馬はしきりに蹄を地面に打ちつけている。
渡し守は言う ── あれがイスラムプル警察署だ。もう少し先まで行くと、すぐ左手に路地が見えてくる。バダムトリの舟着場には、その道を行かなきゃならねえ。
雇われの顔は、満面、恐怖でいっぱいになった。 ── で?
─ だからな、おめえはここに残れ、って言ってるんだ。舟着場に行ったって、おめえには何もいいことはねえ。 渡し守は続ける
── ここはヒンドゥー居住区で、イスラムプルはイスラーム教徒の居住区だ。おめえはここで、明日の朝まで待って、家に帰るんだよ。
─ で、おめえは?
─ おれは行くよ。 渡し守の声は不安と恐怖に割れた。 ── おれはな、ここにはいられねえんだよ、兄弟。今日でもう八日も、家の様子がわからねえ。どうなっているか、アッラーのみぞ知る、だ。あの路地にさえ潜り込めりゃあ、何とかなる。舟がなけりゃ、ブリゴンガを泳いで渡るさ。
─ 何てこと言うんだ、おめえ? 憂慮の念に駆られ、雇われは渡し守のカミーズ [イスラーム教徒の寛衣] を、しかとつかむ。 ── どうやって行こう、ってんだ、ええ?
激情と興奮に、渡し守の声は震える。
─ 止めるんじゃねえ、兄弟。放しな。おめえにはわからねえんだよ、明日がイードだってことが。子供たちはな、みんな、今夜、月を見てるんだ。みんな、どんなに楽しみにしていることか、新しい服を着て、父親の膝の上に乗っかるのを。かかあのやつ、涙で胸が張り裂けそうなんだ。ダメなんだよ、兄弟
── どうしてもダメだ ── 苦しくてしょうがねえんだよ。 渡し守の声は詰まってくる。雇われの胸はずきずきと痛み出す。カミーズをつかむ手は緩んでくる。
─ もしやつらが、おめえをつかめえたら? 彼の声は恐怖と同情の念に溢れる。
─ つかまらねえよ、心配するなよ。おめえはここに残るんだ、動くんじゃねえぞ。じゃあな …… 今夜のことは忘れねえよ、兄弟。運が良かったら、またおめえに会いに来るからな。 ── あばよ。
─ おれも忘れねえよ。 あばよ。
渡し守は、足を忍ばせながら立ち去った。
雇われは、危惧で胸をいっぱいにしながら、凝っとその場に立ちつくした。胸の動悸がどうにも収まろうとしない。耳を欹てていた、彼は。 神様 ── 渡し守が、どうか、危険な目に遭いませんように。
息詰まる中、一瞬一瞬が過ぎた。もうずいぶん、刻が経った。渡し守は、たぶんもう、逃げおおせただろう。 ああ、子供たちはみな、新しい服をどんなに楽しみにしていたことか、大はしゃぎでそれを着るだろう。みんな、あの哀れな父親の生命の宝だからな。 雇われはため息をついた。情愛と涙とで、奥さんは旦那の胸にすがりつくに違いない。
「あんた、よくまあ死なずに、帰って来れたわね!」 雇われの唇の端に、微かな笑みがこぼれた。 そのあと、渡し守のやつ、どうするだろう? 渡し守はそのあと ──
─ 止まれ! ……
雇われの胸はぎくりと鳴った。ブーツを履いた何人かが走り回っているようだ。何か言い交わしている、叫び声を上げて。
─ 物盗リノヤロウ、逃ゲヤガッタ!
雇われが首を伸ばすと、警視がリボルバーを手に路上に跳び降りるのが見えた。あたり一帯の夜の静寂を震わせ、彼の火器が二度轟音をあげた。
バン、バン。 二つの青白い閃光。激するあまり、雇われは手の指の一つに噛みついた。馬に跳び乗ると、警視は路地の中に走り込んだ。「物盗リ」の死の呻きを耳にしたのだ。
茫然自失した雇われの目に、子供たち、そして奥さんの、服、サリーが、渡し守の胸の血を浴びて赤く染まるのが浮かんだ。渡し守は言っていた
── ダメだったよ、兄弟。子供たち、かかあのやつ、祭りの日に涙で泣き暮らすことになるんだぜ。奴らのせいで、おれはとうとう、皆に会えずじまいになっちまった。
ベンガル文学の翻訳にあたって
「現代インド文学選集」が完結してから、早くも3年半がたちました。この選集は、インドの代表的な言語で書かれた文学を直接翻訳紹介する初めての試みとして、画期的な企画だと思います。
私は、若い頃からベンガル文学の豊かさ・多様性に触れ、それを生きる糧としてきました。より多くの作品を日本の読者の手元に届けたい、という気持ちを抱きながらも、さまざまな理由から、いままでその思いを十分に果たせずにきました。
今回、めこんのホームページに、ベンガル文学の翻訳を連載する機会をいただけることになりました。これから月に2回のペースで、ベンガルの近現代作家の作品を、簡単な解題とともに掲載していきたいと思います。
連載に当たっては、ベンガルの自然と社会、そこに生きる人びとの多様性が、読者の皆様に具体的なイメージとして伝わるよう、努めます。楽しんで読んでいただければ、幸いです。
2020年10月12日 メルボルンにて