快復
快復 解題
ショモレシュ・ボシュ(1924~1988)の初期の作品。初出は不明。1958年に発刊された彼の五つ目の短編小説集『心の鏡』に掲載されました。
小説の舞台は、コルカタ(カルカッタ)の北33km、ガンガー(ガンジス川)沿いに位置するノイハティ市の、旧市街がモデルです。ショモレシュ・ボシュは東ベンガルのムンシゴンジュ県生まれですが、ダッカ市内で小学校教育を受け、14歳の時から父方の叔父が住むノイハティ市に移りました。その後、共産党員として、この街のあらゆる階層の人たちと交わりました。作家として自立してからも、生涯に亘ってこの街との繋がりは続き、彼の多くの作品の舞台となっています。
「都市近郊の道にて」というタイトルの初期の随筆の中で、彼は、ノイハティという地名の民間語源に諸説あり、その一つが「踊り子の(ノティル)市場(ハティ)」であると記しています。ガンガー岸辺のこの街は、古くから歓楽街として栄えました。そこには、イスラーム教徒・ヒンドゥー教徒の別なく、さまざまな出自・階層の人が住みついていたのが分かります。
ノイハティはまた、ベンガル近代小説の祖、ボンキムチョンドロ・チョットパッダエ(英語読み「チャタルジ」)(1838-1894)の故郷として知られています。ノイハティ駅から西のガンガーの岸辺に向かって延びる通りの一つは、同じく文学者だったボンキムチョンドロの兄の名に因んで、ションジブチョンドロ・チャタルジ・ロードと名づけられています。
この寓喩的装いを持つ恋愛譚の中に、ショモレシュ・ボシュは、こうしたノイハティの歓楽街の由来や当時の雰囲気を、巧みに織り込んで描いています。
ところで、この小説の後半に、主人公のオボニが、窓際で彼を見つめるパルルの目と出逢う場面があります。その中に、「(パルルは窓際にすわり続けていた、)12歳の時から、苦行するウマー女神のように。」という一節があります。ウマー(パールヴァティー)女神はシヴァ神の妻ですが、結婚前、シヴァ神を夫として得るため山に籠もって苦行したとされており、この箇所は、このプラーナ文献の伝説を踏まえています。また、シヴァ神は縁結びの神として、ヒンドゥーの未婚の女性たちの崇拝の対象です。オボニとパルルの会う場所がガンガー岸辺のシヴァ寺院前に設定されているのは、このような背景からです。
最後に出てくる「チャータカ鳥」は、和名「カンムリカッコウ」。雨季の始めにインドに渡来する渡り鳥です。インド神話では、この鳥はひたすら雨季を待ち侘び、雨雲の到来とともにその嘴で雨の雫を飲んで喉の渇きを癒やす、とされています。
訳者注について:
文章内の[ ]は訳者による注です。
快復
ショモレシュ・ボシュ
「踊り子市場」駅の正面のこの場所に、ぼくは毎日佇ちつくす。朝・昼・夕、日暮れ時・夜更け・真夜中、時間には一切お構いなく。来たいと思って来ることもあれば、夜魔に曳かれて来ることもある。来ずにはいられないのだ。
踊り子市場は、まるで、見えない壁に囲まれ見捨てられた、遙か遠い昔の街のようだ。そのすべては古く、ほとんど古代に属すると言ってもいいくらいである。家屋、街路、そこに住む諸々の借家人・住人・地元民、寺院・神像・宿泊所にいたるまで、すべてが。新参のものは、古い破れた埃まみれの紙の山に混じる幾枚かの新しい紙切れのように、ほとんど目に留まらない。バシュ・プルトの路地も、今日なお、まさにそのようにしてある。その苔むした、背の低い、ちっぽけな一階建て二階建ての家々、でこぼこの道。シャリク鳥[インドハッカ、ムクドリ科の鳥]は家屋の天井の窪みに何代にもわたって住みつき、例の同族に属する女たちは、姿形や名前を絶えず変えながら、群れをなして行き交う。だが、日暮れ時になると、彼女らはみな色を塗りめかし込んで、道端や家の扉の前に佇む。踊り子市場の現代の主たちは、この道を「文豪の兄」ロードと名づけた。何とも耳慣れない名前だ。文豪とは誰か、その兄とは誰か、誰ぞ知る。「兄」の実名がないのもまことに奇妙だが、これこそは、踊り子市場ならではの話なのだ。なぜなら、名前があろうがなかろうが、この道は、踊り子市場の骨の髄まで、バシュ・プルトの路地に他ならないからだ。それに、まさにこのような路地が、踊り子市場の三平方キロの区画の中には、山ほどあるので
…… おっと、話が逸れるところだった。
60年あまり前も、踊り子市場の表玄関は、まだ西の、ガンガーに面する側にあった。今日ではこの駅が表玄関だ。昔の表玄関は今では裏口になっている。ありとあらゆる人がここを行き交う。駅のこの場所は、街のみならず、その目に見えない壁に囲まれた踊り子市場全体が見渡せる、屋根裏部屋のようなものだ。ここにいれば、踊り子市場の奧深い闇の中で起きている出来事がすべて目に入り、不明瞭な呟きのすべてが耳に入ってくる。
この屋根裏部屋は、ぼくの遊び部屋だ。この部屋にある数知れぬ覗き窓を、ぼくは好奇の目を持ってせわしなく見て廻る。そうしている内に、最近になってようやく自分の勘違いの一つに気がついた。遊び部屋であっただけではない —— この場所は、ぼくの教育の礎を築く学校でもあったのだ。
生・死、結婚・死者の供養、罪・功徳、汚名・潔白 —— 踊り子市場の、表沙汰になった、あるいは秘められた、ありとあらゆる出来事の波が、最後はここに押し寄せてくるのだ。駅前のこの100メートルから150メートルほどの間に集う、さまざまな人の群れの中に。踊り子市場の、この入口に。知り合いや行きずりの人が引きも切らず行き交う、この道傍に。
ほらあそこ、杖を手に、サンダルを履き、ショールを身にまとって歩いている老人、そのバラモン髷には野バラの花が靡いている —— あの方こそ、踊り子市場のチョクロボルティ家の12ある分家の中で、今日もっとも高齢のお方だ。ぼくに会うたびにこう仰る —— 「踊り子市場の話じゃろが? いや、わしらはな、ここの一番古い住人というわけではない。ラーム・クンドゥを知っとるじゃろ、この市場に17軒も家を持っておる? あいつには、ウルピ・バルニが何もかもやりおったんじゃよ。 …… ゴダイ・シャドゥカーンを知っておるか? 煉瓦と材木の倉庫が七つ、ガソリン・スタンド、それに映画館の主じゃ。あいつはな、祖父さんから、ショウロビバラの財産を譲ってもらったんじゃ。オドル・パールも知っておるじゃろ、鉄も黄金も山のように持っておる? やつはシュコダのお蔭で贅沢をしているわけじゃ。このパール、クンドゥ、シャドゥカーンの縄張りなんじゃよ、踊り子市場は。もっとも、皆が皆、他人の財で金持ちになったわけではない。自分で財をなしたやつもたくさんある。商売を独占しておるのはそうした連中じゃよ。」
「でも、そのウルピ・バルニ、ショウロビバラ、シュコダって、いったい、誰なんです?」
「昔ながらの踊り子、つまり淫売じゃよ。踊り子市場の住人の、元祖じゃよ。じゃがなあ、あの頃は、例の
…… 」
おっと、また話が逸れちまった。もしこのお方に、でもこんなにバラモンが大勢住みついているのはどうしてです、とでも聞こうものなら、歯がない口を開けて笑いながらお答えになる、「信仰のお導きのままに、じゃよ。」
これ以上多くは語られなかった。だが、その「信仰のお導き」が、風だか何だかに煽られてふらふら揺れている様子は、ぼくの部屋の覗き窓からも見通すことができた。だとすれば、チョクロボルティ家の歴史は
……
まあ、今は置いておこう。あの馬車を操る馭者のブヌが、火のような16歳の嫁ジュニアを連れて、初めてここに現れた時 …… その話も、今はよしだ。
そら、あそこを行くフォニンドロ・ゴトク、あの方の美貌に満ちた娘たちの話
…… いやいや、それも今はやめだ。
象のような悠然とした歩みで道の真ん中を進むのは、輝くばかりに色白の、脂肪のたっぷりついた、大家主のシュコバラ — マルポンタの一角は残らず彼女の所有なのだ。彼女の身体の襞のひとつひとつに、踊り子市場の起源伝説が折り込まれている。13歳の娘として初めてここにやって来た日 …… いやいや、また脇道に逸れるところだった。そうなると、マルポンタ地区に住む、どこの馬の骨とも知れぬシリシュが、どうやってカルティク・ハルダルの娘と恋仲になったのか、その経緯も説明しなきゃならなくなる。
そして、あそこを行くのはシュダラニ・ボンドパッダエ、踊り子市場に現存するカレッジの学生だ。彼女の、またはトロイロッコナト・グプト教授の、またはクリシュノプリア学校の先生レヌポド・ナートの境涯の話となると、簡単には済まされない。まったく、簡単な話が、どこにあるものか!
踊り子市場の州議会議員、労働組合のボス、そしてイギリス人の旦那方
—— 西洋館、外人クラブ、旦那連中の女好き —— どれひとつ、言わずに済ますことはできない。
だがぼくは今日、こんな話をしようと思っていたわけじゃない。それでも言わずにいられなかったのは何故かと言うと、つまりぼくの話は、踊り子市場という茎から引きちぎられた、一輪の花のようなものだからだ。だからこんなに前置きが長くなったのだ。
ぼくの覗き窓から、オボニの姿が見える。彼をめぐる出来事が、踊り子市場の最新の事件だ。この事件のため、踊り子市場には大変な動揺が生じた。オボニを見ただけで、人びとの目には今なお、その動揺の影がありありと浮かぶのだ。
駅を降りて何やら歯磨き粉を買うと、オボニは急ぎ足で家に向かう。その中国人製のすべすべした刺繡入り厚底靴の音を聞いただけで、彼がまるで喜び勇む鹿のように、飛び跳ねながら歩いているのが分かる。
踊り子市場には何人か折り紙付きの美男がいるが、彼はその内の一人だ。鉤鼻、切れ長の目、紅の唇、透き通るように色白の肌、だが偉ぶった様子は微塵もない。頭髪は縮れておらず、幾つかの大きな波に打たれくたびれ果てた、とでも言うような風情。それがまた風変わりな美しさを醸し出しているのだ。ただでさえ美しいのに、その上鮮やかな手つきでネクタイを締め、コートを羽織り、自由気ままな足取りで出かけるその姿は、男が男の一群の中に認めてさえ、しばらく凝視せざるを得ない。英語専攻で、オナーズの資格 [学部レベルで優秀な成績を収めた学生に与えられる]
とともに学士号を取得した。そして、若干23歳で、イギリス人の商人が経営する事務所にいい職を得た。
目の前をオボニが行く。南に少し歩いて東に曲がる。そのあとさらに南に進み、また東に曲がって、例の家の前で立ち止まる。あの大昔からの屋敷、二ビガ [約800坪] あまりの土地に、何世紀にもわたって聳えている。この家の名は、踊り子市場だけでなくベンガル中に知れわたっている。名前を言えば誰もが知っていると騒ぎたてるに決まっているので、黙っていることにしよう。オボニは、この家に住む、名高い家柄の末裔なのだ。
ぼくが彼を見るようになったきっかけは、三年前に遡る。当時彼は働き始めたばかりだった。三年前のあの日、やっぱり夕暮れ時に、ちょうどこんな具合に、オボニはこの家の前に立ちつくしたのだった。鎹で鎖した昔ながらの正門の前に、つと立ち止まったのだ。電気は繋がっていたが、家の中からはまだハリケーンランプの余燼が流れていた。正門の明かりを前にすると、前世紀の霊に取り憑かれた灯が燃えているかのように見えた。正面には打ち棄てられた中庭と祭壇、そこは暗闇に沈んでいる。分家の人たち共有の通い路なので、誰もその場所を照らすのにかかるであろう僅かな電気代を、負担しようとはしない。マングースや蛙だけでなく、蛇まで潜んでいそうだ。実際、潜んでいるのだ。それでもなお。
中庭の左手の部屋部屋には、明かりが灯っている。そこはオボニの両親兄弟姉妹、全員で大家族をなしている。古い家系とはいえ、今なお活気に溢れているのだ。
オボニは、つと立ち止まった。そちらには行きたくないのだ。カルティク月[10月半ば〜11月半ば] の晩秋の月明かりは、まだどこか、秋の黄金の名残りを微かにとどめている。それを、晩秋の靄の薄いヴェールが、無言のまま、戯れるかのように覆いつくしている。あたかも、打ち棄てられた中庭と祭壇に、正体の知れぬ者たちが、光と闇に紛れて身を潜ませているかのようだ。
オボニは、自分たち家族の部屋部屋を過ぎて、父方の四番目の叔父一家が所有している打ち棄てられた一角に行きたいのだ。だが家族の目に留まるかもしれない、という怖れ。中庭に入るとすぐ左手に、上に上がる階段がある。だが、壊れている。誰ももう、これを使って上に行こうとはしない。いつ何時バラバラに崩れてしまうか、分からないのだ。この壊れた階段を上ると、向こうの一角に通じる裏階段があるのだが
……
オボニは足をかけ、そろそろと上り始めた。身体の重みで階段がぐらぐら揺れるのか、自分の胸がどくどく鳴るのか、ほとんどアヤメも分かぬままに。闇の中を手探りしながらようやっと裏階段の最後の段に差し掛かった。その時だ、微かな悲鳴が耳に入り、ぎくりとした。見上げると、目の前には、恐怖に縮み上がったロロナの姿が。間違いなく、それはロロナだった。
オボニはあわてて口を開いた、「ぼくだよ、ロロナ、オボニだよ。」
ロロナは震えていた。そして身も世もあらぬ声を上げると、オボニの胸にすり寄り、怯えたひそひそ声で、「まあ、何てこと! ほんとうにびっくりしたわ。どうやってここに来たの?」
「あっちの、古い階段を伝って。」
「呆れた! 万が一、蛇の巣でも —— 」
言い終わらぬうちに、その唇にオボニは唇を重ねた。
ロロナは言った、「何がそんなに怖くて、あんなひどい裏道を通ってきたの?」
「母さんが疑いの目を向け始めているからね。その疑いをはぐらかすためさ。正面からこの家の扉を開ける訳にはいかない。こうすれば、一日だけでも、ロロナのところに行くのを止したのだ、と思うだろう。」
ロロナの両親のほうは心配なかった。彼らはこの家の者ではない。生活に困ってコルカタ市内を離れ、ここを仮の住まいとして、今日で六カ月になる。オボニの父の四番目の弟の家系は、ほとんど二世代前からコルカタ市内に移り住んでいる。踊り子市場からはその痕跡を消したと言っていい。だが、彼らの相続家財として、この一角を空けておかねばならなかった。いまやって来て住みついているのは、四番目の叔父の奥さんの姉妹の旦那、それがロロナの父親である。この男は、自分の生活を賭けた、親戚一族を相手取っての財産争いの裁判に、敗れたのだった。すべてを失ってやって来た。それも、自分の叔父ではなく、連れ合いの姉妹の旦那が所有するあばら家に、である。そしていつの間にか、すっかり踊り子市場のマーケットと折り合いをつけるのに成功した。まるで踊り子市場に、まさしく昔から住んでいる住人だ、とでも言うかのように。ほとんど毎日、さまざまなグループとともに郡の裁判所に出かける、証人として立つために。つまるところ、ユディスティラ [『マハーバーラタ』のパーンダヴァ族第一王子、敬虔な人柄で知られる]
の誠実を売り買いする市場で、悪くない商売をしているわけだ。
それはともかく。男は無一文とはいえ、家の中は美に埋もれていた。自分の熟年の妻を筆頭に、三人娘のすべてが美貌 —— それも極めつきの —— に恵まれていたのだ。恐ろしい破滅のような。ボイシャク月 [4月半ば〜5月半ば] の吹き荒れる熱風に煽られ、枕元に燃えさかる炎のような。オボニの母の言葉を借りれば —— 廃屋には雌蛇が何匹か、気味悪く蠢いている。
屋根裏部屋の覗き窓から、ぼくの目にする光景はと言えば —— 雨季になると一斉に踊り子市場に湧く羽虫たちが、日が暮れると、オボニたちの屋敷の寂れた一角にやって来るのだ。虫たちは、どうやら炎に焼かれるだけでなく、好機とあらば蛇にパクパク呑み込まれるのも辞さないらしい。
その堆い美の一つ、長女ロロナ。オボニと並ぶと、見目麗しい黄金の首飾りに吊された美しいロケットのようである。色白の細身の身体、しかしその美しい身体には驚くべき鋭利さがある。鋭い眼差しに輝く二つの眸。その目の向くところ、少しく刻印を残さずにはいない。だが紅い両唇はと言えば、何だか西洋人形のそれのように、もの言いたげにふっくらしている。最初に目にしたその日に、その姿はオボニの胸に焼き付いた。それからというもの、日に日に根を張り続け、遂には彼の心をくまなく絡み取った。
ロロナの両親は、この成り行きを見ても見ぬふりをした。いっぽう監視を怠らなかったのは、オボニの両親、兄弟姉妹、それに財産分与の権利がある父方の叔父や祖父たちだ。初めのうちは耳打ち話、続けて囁き合い、さらに続けて蜂の羽音のようなさざめき。だが、なおそれは、この二ビガの古い屋敷内にとどまっていた。内々のことを外に洩らす者はなかった。
オボニは少し用心深くなった。それで、暗闇のなか、壊れ捨てられた裏階段を通り、蝮の抜け殻を踏みにじっての、この無謀な逢い引きである。
それもばれてしまった。家中が大騒動となった。
だがこの二人の巻き起こした反乱は、そのはるか上を行っていた。家族の誰もそれを押さえつけることはできなかった。二人はますます傍若無人となったのだ。もう隠し立てはしない。オボニは自分の家の中庭を通り、まっすぐロロナの一角へ行き来するようになった。
オボニの母は、台所に食事を運びながら恨みがましい声音で言った、「なんてこと! 家の長男だから、あんたには何だって許される、ってわけね。じゃあ好きなようになさい。私はしばらくお暇をもらって、兄さんの家に行くことにします。」
オボニは言った、「いや、母さんたちはいてくれていいよ。ぼくがいなくなるから。」
内心怖れと驚きに震え上がり、母親は二の句が告げなかった。この子、家出も辞さない、ってわけなの!
父親のほうはと言えば、まったく錠前のように口を鎖してしまった。今や目を向けようようともしない。オボニの収入なしには家計が成り立たない
—— これが彼が口を噤んでいる理由である。自分の息子が、学問・知恵・美貌において、またその振舞い・言葉遣いにおいて、踊り子市場の中で並ぶ者のないことは百も承知なのだが。
オボニは何もかも分かっている、だが心が言うことをきかないのだ。ロロナの眸が彼を引きつけて離さない。見ただけで血が騒ぐ。どうやってそれを妨げることができよう。
ロロナも血がざわめいていた。少しでも遅れるとその両目に嵐が兆す。オボニが来るや、その両目は神の迎え火のような炎に燃える。ふっくらした両唇をさらに少し膨らませて言う、「ずいぶん、遅かったわね?」
「遅かったって、たった五分じゃないか。」
「その『たった』が、たったじゃすまないのよ。」
オボニは呆然とロロナを見つめ、その美貌に我を忘れる。だがロロナはそれ以上だ。オボニに向かって言う、「あなたが私を綺麗だって褒める時、私、馬鹿にされているような気がするの。」
「どうして?」
「自分がどんなに綺麗か、よくよく、見てご覧なさい!」
分かっている。だがそれを認めるほど、オボニは謙虚ではない。「男に、綺麗もくそも、あるもんか!」
ロロナは口も立つ。「ええ、口にするほどのことじゃないってわけね、分かっているわ。ほかにも、どんなにたくさん美点があることか! 私、あなたの足の塵にも値しないわ。」
オボニは言い返す、「そりゃそうさ。君はぼくの心に値する、ってわけだからね!」
「もう、ふざけないでちょうだい!」
こう言うこともある、「ねえあなた、何を使って、字を書くの?」
オボニは笑って答える、「何だって? 手で書くに決まってるじゃないか!」
「あなたの手には、じゃあ、印刷機が嵌め込まれているんだわ。ほんとうに、驚いてしまう! 何て綺麗な字なんでしょう!」
ロロナの言う通りだった。事務所の大旦那を皮切りに、使い走りに至るまで、彼の字の美しさに打たれぬ者はない。彼の英語の手書き原稿がないと、小旦那は機嫌を悪くする。踊り子市場や事務所の友人の多くに頼まれて、英語の手紙を代筆する役割を、彼は喜んで引き受ける。
オボニはロロナの手を引き、家の裏の寂れた中庭へと連れて行く。そして言う、「ぼくの字よりも君の言葉のほうがずっと綺麗だよ。」
だが結局のところ、最後に勝つのはロロナなのだ。確かにオボニは、その姿形・服装・美質、すべてにおいて他に比べる者はないかもしれない。だがロロナの手にかかると、その口を塞がれて何も言えなくなってしまうからである。
細身のロロナは、目を墨で縁取ると目尻が少し目立ちすぎてしまう。サリーの端を、肩が露わな紅いブラウスの上に掛けようとすると辷り落ちてしまうので、腰に巻きつけている。だが、そうした容姿がかえって、彼女の若々しさに、人を密かに破滅へ誘わずにはおかない一種の魔力を授けている。
こんなぐあいにさらに六ヵ月が過ぎた。時には壊れた階段をよじ登りぐらぐら揺れる二階の部屋で、時には裏手の中庭のヤコウボクの花叢の下で
—— 闇に包まれた夕暮れ時、裏の扉を開け、蔓草に覆われた荒れ放題の庭園での逢い引きである。
家では誰もが平静を失っている。だが踊り子市場の人びとに動じる気配はない。市場の表通りは何事もなかったかのようである。
その後、いったいどうなったのだろう? 気になって覗き窓から見ると、ロロナたちの家に、ときおり一人の人物がやって来るのが目につく。年齢は45歳くらい。ロロナたちはボショント叔父さんと呼ぶ。家はコルカタ市内、裕福なことに間違いはない。
ボショント叔父さんは、ロロナを凝っと見つめる。ふうとため息を漏らすと口を開く、「踊り子市場の生活は、申し分なし、ってわけだな!」
「ご覧の通りですわ。」
「もっとも、外目には申し分なしとは見えんが —— それでも心に適っとる、というわけか。」
ロロナは返事をしない。頭を垂れたまま、指でサリーの裾を巻き付けている。ボショント叔父さんは物静かな性格である。呑み込むような目でロロナの方を見つめている。そして言う、「一ヵ月もすれば、買い取り手続きが済むだろう。アリプル [南コルカタの高級住宅街]
の例の家だよ。」
オボニはロロナに尋ねる、「あの人、誰だい?」
「ボショント叔父さんよ。」
「本当の叔父さんかい?」
「そうじゃなくて、父さんのお友達よ。」
あれこれ話し合った挙げ句、近頃オボニは、よく次のように言う、「家族が結婚に同意しないなら、ぼくらだけで入籍しようよ。」
こう言うオボニの口を、ロロナはその西洋人形のような紅い両唇で覆ってしまう。甘い口づけに我を忘れ、オボニの決意はそのままとなってしまう。
この後、屋根裏部屋の覗き窓からぼくが目にしたのは、断固たる決意を担ってやって来たボショント叔父さんの姿だ。オボニはその時、事務所に出かけていた。ボショント叔父さんはコルカタ市内からトラックを一台従えて来たのだ。ロロナたちの荷物がその上に載った。僅かな荷物である。ロロナの父・母・妹たちも、ボショント叔父さんと一緒にトラックに乗った。
ロロナは、乗る前にオボニたちの家の中庭に堂々と姿を現すと、まっすぐオボニの部屋に赴いた。テーブルの上に封書を一つ置き、その後オボニの母親の足塵を拝すると、ボショント叔父さんの手を取ってトラックに乗り込んだ。
これは踊り子市場の特徴なのだが、そこに一度身を置いた人間は、出て行く時は、もはや来た時と同じ人間ではあり得ないのだ。ロロナは踊り子市場の記憶を抱いて去った。
日が暮れる頃、踊り子市場の表通りにオボニの足音が聞こえてきたが、ぼくはとても覗き窓から覗いて見る気になれなかった。
帰宅して、四番目の叔父一家所有の中庭に面した扉が、開けっ放しなのを見て、オボニはびっくりした。中の暗闇を見てさらに驚いた。
部屋に入り、封書を見て開封した。手紙にはこうあった —— 「ボショント叔父さんは、私の名前でアリプルに家を一軒買ってくださいました。私たちはこれから、その家に住むことになります。私たちの昔の財産を取り返すために、父の手助けをしてくださるそうです。
…… 踊り子市場という天国で過ごすことができて、このことだけは分かりました —— この世にはまだ、どれだけたくさんの良き人びとがおり、どれだけ多くの幸福と美があるのか、ということを。
—— ロロナ。」
オボニは手紙を置くと、手を洗い口を漱いで言った、「母さん、ご飯を用意して。」
あたかも何も起きなかった、とでも言うかのようなフリをして。ただ、彼の美しい朗らかな顔の眉・唇・鼻の脇には、いくつかの深い皺が見てとれた。覗き窓から見ていて分かったのだが、オボニの顔に浮かんだこれらは、嘲りの徴である。無言のまま、すべてに対して、彼は嘲笑を浴びせていたのだ。
それから一月ほど経ち、事務所の小旦那が初めて遣いをやって、彼を部屋に呼びつけた。一枚の紙を見せて言った、「オボニ、これはいったい、誰が書いたんだ?」
「私です。」
足下から大地がなくなったとしても、おそらく小旦那はこんなに驚きはしなかっただろう。跳び上がって叫んだ、「そんなばかな(イムポシブル)! 君の書く字が、こんなに汚いはずがないだろう?」
ほんとうに、その字の汚ないことと言ったら、まるで鷺の肢が並んでいるかのようだった。オボニはだが動じる気配もなく答えた、「はい、旦那、私が書いたんです。」
デスクの中から、小旦那はもう一枚の紙を取り出した。それは数珠つなぎの真珠のような美しい筆跡だった。「これはじゃあ、いったい誰が書いたんだ?」
「私です。でも、いまはもう、これ以上綺麗に書くことができないんです。」
小旦那は、笑うべきなのか泣くべきなのか分からなかった。数分間、ほとんど息を止めて、驚きに鋭くなったまなざしで彼を見つめた後、「その紙を取れ。わしが読み上げるのを、そのまま書くんだ。」
オボニはすらすらと書き記した、その汚い筆跡で書かれた書類と、まったく同じ筆跡で。小旦那は、なおしばらく沈黙した後、言った、「分かった、もう行ってよろしい。」
オボニは辞した。だが、ものの一時間あまりのうちに、事務所の全員がオボニの方を呆然と見つめることになった。人間が変わると、その筆跡まで変わってしまうとは
—— こんな奇妙な出来事は、今まで誰も目にしたことがなかった。いったい、どうしたことだ?
踊り子市場の人びとは、その時はまだ何も気づいていなかった。
だが、遂に人びとの目に留まる日が来た —— それも、「目に留まらない」ということを通して。オボニが行き来する道筋では、店の人や近所の誰もが、一度は彼に目を注いだものだった。なぜなら、近隣で一番美しい男の子が歩いて行くのだから。
ある日、誰ひとり彼を振り返り見ることがなかった。なぜなら、オボニが歩いていることに誰も気づかなかったから。なぜなら、踊り子市場の職工コリのように、短く刈り込んだ髪を真ん中で分けた彼を、オボニと認めるのは難しかったからである。
彼と毎日同じ汽車に乗る仲間たち、踊り子市場の人びと、誰もが驚き、笑い、心を痛めた。「こいつはまったく、なんというファッションなんだ!」と言う者もあれば、「あんなに綺麗な髪なのに! なんて無様に刈り込んだんだ、ああ、みっともない
…… 」と言う者もある。
オボニは笑う。ぼくには、その笑いの中に、彼の例の嘲りがますます烈しくなっているのが見える。だが、彼の顔は様変わりを始めており、その笑いはいまや、踊り子市場の金貸し商ノフォル・クンドゥのそれのように、窄んだ醜いものである。
それに伴い、少しやつれた風貌、むっつりした顔、そして算数を教える爺さん先生のような沈黙。もちろん目が白内障になったわけではないが、それでもその両の眸は、何だか輝きを失ったように見えた。白く輝いていた肌は黒ずんで見えた。しまいにはズボンやシャツが、色合いが趣味悪くなっただけでなく、だぶだぶのだらしないものになった。
ちょうど彼の手書きの文字のように。月と蛍の違い、と言ってもいいだろう。六ヵ月の間に、彼はまるで、流行らない年寄り弁護士のような風貌となった。
ぼくは思う —— なぜ自然は、このおぞましい報復をしたのだろう? いったい、何のために?
踊り子市場のあちこちに噂話が広がった。寺院、家々の客間、クラブハウス、ベランダで夕暮れ時に集う時、誰もが難題に頭を抱えることとなった。バンルッジェ家の三番目の相続人の屋敷では、いったいぜんたい、何が起きているのだ? 五里霧中のまま、その謎を解き明かそうと、誰もが右往左往しはじめた。 [「バンルッジェ」は、高位バラモンの姓「バナルジ」が訛った形。]
小さな子供たちは、少しずつオボニの背後をつけ回すようになった。なぜなら、彼らは「オブ兄」が気が狂ったのを知っていたからだ。気が狂ってしまえばもはや人間ではないから、それに石を投げたり、泥を浴びせたり、背後からつけ回すのは当然である。途次にフォニンドロ・ゴトクの家がある。彼の美しい娘たちが、道に面した窓際に立って笑い転げる。オボニが気が狂ってしまった以上、彼がこの娘たちのいいようにされるのも、やむを得ないではないか?
だが、こうしたことはすべて、表面的な変化にすぎない。心の奥底にも、オボニには新たな変化が訪れたのだ。
事務所の書類の誤りは毎日のように露見する。旦那は、そうした彼を哀れんで大目に見てやっている。家の中は悲嘆の嵐である。父親は、悲しみのあまり息も絶え絶えの有様。母親は、涙をためた目で彼を見守る。兄弟姉妹は、怯えと恐怖に身を縮めている。
それからさらに六ヵ月、オボニは給料を手にすると、家に入れる金を半分に減らした。
母親は言った、「あらまあ! こんなに少しなの?」
彼は重たいしゃがれ声で答える、「ぼくには、これ以上出すのは無理だ。ぼくだって、自分の将来のことを考えなきゃならないだろ?」
母親の心臓は、ドキリと鳴った。まあ! 何て言い草なの! 「何てこと言うの、オボン?」
オボニは笑って、「図星だろ! それに、毎日の食事だって、こんなにあれこれ用意すること、ないだろ? 豆スープにご飯だけで、いいんじゃないの?」
母親は、今にも気を失って地面に倒れるのではないかと思った。 ——
どうなってしまったのだろう? 家族の誰かが少しでも食べ物や着る物に不自由するのを、黙って見過ごしていられなかった、これがその、同じオボニなの?
これに続けて、オボニにいくらご飯をやっても足りなくなったことに気づく。口には出さないが、胸の内ではこう呟く
—— この子、ご飯だけを、どうしてこんなに、餓鬼のようにがつがつ食べるのかしら? 母親なのに、こう思わずにはいられなかった —— 何て無様な食べ方でしょう!
オボニは、いまや辛子油を手ですくってビチャビチャ頭髪に塗り付け、灰で歯をゴシゴシ磨く。
ある日、オボニは、祭壇がある中庭に一塊の牛糞が転がっているのを見て、足を止めた。牛糞は今までしょっちゅう目にしてきたのだが、これまでは振り向くことすらなかった。突如妹を、どこかの頑固おやじさながらに呼びつけて言った、「食うだけは一人前のくせに、牛糞を拾って壁に貼りつけることもできないのか! 毎日毎日の牛糞代が、どこから来ると思ってるんだ!」
些細なように見えて、その実、恐ろしく重大な出来事だった ——
母親は、いたたまれず物蔭にしゃがみ込み、サリーの裾で顔を覆うと、泣き出した。
何日も逡巡したあげく、ある日、彼女は勇気を振り絞って言った、「オボン、あんた、ロロナと結婚なさい。」
母親の方を見つめ、今や醜さが染みついた例の笑いが満面に広がった。彼は言った、「あいつは、売り物の人形、ってわけかい?」
さらに何ヵ月か経つと、オボニの右肩が高くなっていくのが目立ちはじめた。少しずつ、遂にはかなりな高さとなり、身体全体が斜めになった。それにつれて左足を引きずるようになった。足を引きずりながら腰をひねり膝をねじ曲げ、何やら無様なびっこを引き引き歩き始めた。
覗き窓から見るぼくの目には、このオボニの歩き様にも一種恐るべき嘲りがこめられているのが映った。怒り狂った人間が誰かに向かってしかめっ面をして見せるのと、まったく同様の。
道の両側から、踊り子市場の人びとは毎日彼の姿を見た。そうした時、彼はその醜い歩き方で、まるでみんなに向かって、しかめっ面をして見せるかのようだった。一足毎の歩調に合わせて彼の胸から絞り出される言葉が、ぼくの耳を打つ、「ほら、ほら、よく見ろ! これが、おれの姿なんだぞ!」
家の内外を問わず、すべての人に向かって公言しているのだった、「自然自然に、手足がこんな具合に曲がっていくんだぞ! 神経が死んでいくんだぞ! 手足が乾いていくんだぞ!」
家人には、町医者に診てもらっていると言う。外の人には、家の掛り付けの医者に診てもらっていると言う。
そして真夜中、鏡の前にまさにその格好で佇ちつくし、例の醜い笑いを浮かべて言う、「24歳になるまで、さんざん自分を偽ってきた。今になってやっと、おれの本当の姿が露わになったってわけだ。」
ぼくは屋根裏部屋にすわったまま思ったものだ —— 人間の心の屋根裏部屋には、いったい、いくつの覗き窓があるのだろうか、と。
さて、表通りでは、多くの人が彼の背後をつけ回していた。理由もないのに彼を呼びつけ、いろいろなことを質問する。からかう者もあれば、同情する者もある。伝染するのを怖れて近づかない者も多い。
彼は、自分の家の西側にある、ホメオパシーの先生ゴクル・ミッティルの家近くまで来ると、その南側を回って進むのを日課とするようになった。以前は、ミッティル家の北側を通っていたのである。
長いこと覗き窓を通して目に映りながら、気に留めていなかった二つの目がある。よくよく見ると、オボニが行き来するちょうどその時、この二つの目は、無言で不動の絵画のように、ゴクル先生の格子窓から瞬きもせず見つめているのである。その目は深い思慕とともに、驚きと憐憫に溢れている。
この二つの目は、ゴクル先生の娘、パルルのものである。ようやく思い出した
—— パルルの二つの目は、まさに無言で不動の絵画のように、この三年間ずっと見つめ続けていたのだ。誰の目に留まることもなかった。オボニも気づかなかった。
パルルは美人にはほど遠い。色黒の肌、ありふれた顔。普段着のサリーをまとった彼女は、二十年間にわたり人気がなかった一本の川に遂に満ち潮が訪れ、その喜びに湧きたっているかのようだった。まったく月並みな二つの目に、底知れぬ深さが宿る。髪は毎日きつく結わえつける。目立たないようにしているのだ。
ぼくと同様、オボニも、これまで盲だったのだ。これまで、彼は北側を曲がっていた。いま南を曲がるようになって、不意にある日、パルルの目と行き逢ったのだ。
パルルの、思慕と驚きと憐憫に満ちた眼差しの中に、何があったか、誰が知ろう。オボニの高くせり上がった肩が、急に少し下がったかのようだった。
いつものようにびっこを引きながら、少し歩を進めると、彼の肩はまたせり上がった。
翌日には忘れていた。だが目が逢うと、たちまちオボニの肩と左足は、不意打ちを喰らったかのように真っ直ぐになった。
この目に見えない屋根裏部屋の中にいるぼくですら、不意打ちを喰らったのだ。こいつはまるで、オボニのショック療法が始まったみたいじゃないか?
だが、すぐ次の瞬間、オボニはまたびっこを引きながら、北に向かって歩を進めた。離れてから、一度横目で振り返り見た。
それなのに、次の日にもまた、オボニは同じように不意打ちを喰らい、真っ直ぐになろうとする徴候を見せた。顔にはほんの一瞬、あの優しく甘い表情がよぎった。だがそのすべてはただ一瞬の出来事だった。毎日がこんな具合に過ぎていった。
そしてぼくには、パルルの思慕に満ちた両目の中に、ある不思議な情熱がこもり始めるのが見えた。窓際に来る時間はますます長くなった。まるでこの踊り子市場のように、踊り子市場の空のように
—— 一日中彼女は窓際にすわることを欲し、すわり続ける。実は、まさにそうし続けていたのだ彼女は、12歳の時から、苦行するウマー女神のように。
ぼくは好奇心いっぱいの目で見ていた —— オボニの肩が次第に平らになっていく様を、足がゆっくりゆっくり、ほんの少しずつ、真っ直ぐになっていく様を。それに続いて、髪型や服装にも、何か目立たない変化が起きつつあるように見えた。笑いの中に以前の甘美さが戻ってきた。
その変化は誰の目にも映ったが、家の内にも外にも、その秘密が分かる者はいなかった。
そうしたある日の帰り道、夕暮れ時に、オボニはパルルの窓際に佇んだ。一度パルルの方を見つめると、急に、やや恥ずかし気に頭を垂れた。そして彼のかつての声音で尋ねた、「ゴクル叔父さんは、元気かい?」
パルルには、自分の人気ない川に不意に洪水が押し寄せて、今にも溢れ出してしまいそうに感じられた。どうにか声を出した、「はい。」
オボニは立ち去った。
次の日、また立ち止まった。そして言った、「ガンガーの岸辺、シヴァ寺院前のガートに来てくれる?」 [ガートは川岸や池にある階段状の共有施設、沐浴・洗濯などに使われる。]
パルルの胸の中に、ぶるぶる震えが走った。「参りますわ。ですから、今はどうか、お帰りになって。」
ほとんど昔の彼と同じ足取りで、オボニは人気ないシヴァ寺院前のガートに来た。まだ完全に暗くなってはいなかった。踊り子市場の西の空は、赤い残照に染まっていた。
オボニは、今がどんな季節か、どの月なのか、思い出そうと努めた。風には微かに冬の気配が感じられる。
パルルが来た。少し離れて佇んだ。人気ない川が合流点に至ったのに気づき、怯んで立ち往生したかのように。
オボニは言った、「おいで。」
パルルは近くに来た。来て、見つめ、またうつむいた。二人ともしばらく黙りこくっていた。
オボニが口を開いた、「あんな風に、毎日、何を見ているんだい、パルル?」
答えようとして、パルルははじめ、声を出すことができなかった。何度か聞かれて、やっとのこと、答えた、「お分かりにならないの?」
オボニは、パルルの方を見つめたまま、しばらく黙っていた。そして言った、「分かるよ。でも、どうしてなの、パルル?」
パルルは、あの思慕に満ちた眼差しで見つめた。
また二人の間に沈黙がおりた。
しばらくして、パルルが口を開いた、「お病気、すっかりよくなって?」
これこそが、いまのオボニの心配の種だったのだ。ほんとうに治ったのだろうか? 彼の病気、不具、怖じ気、卑屈。喉のあたりが、何かで痞えるのを感じていた。パルルの手を握り、あたふたと彼女の方を向いて言った、「分からないんだよ、パルル。」
だがパルルの目には、疑いの影すらない。
人気ないガート。暗闇がさらに迫ってくる。パルルは自ら、その顔をオボニの顔に近づけた。
オボニの病が、これを最後と昂じたかのようだった。顔を歪め目を窄めて、彼はパルルの目の方を、唇の方を見た。
次の瞬間、彼の顔と目は清々しくなった。目には涙が溢れたようだった。雨の雫を求めるチャータカ鳥のように、彼はパルルの唇の上に舞い降りたのだ。
「うん、すっかりよくなったよ、パルル。」
ぼくは覗き窓から目を離した。驚きのあまり、言葉もなかった。 ——
家の片隅に捨て置かれた薬草に、こんな効用があったとは! たった二つの眸の力で、病気が治るなんてことが、この人間世界にあろうとは!
さてこの事件からしばらくして、踊り子市場には、また新たな頭痛の種が到来した。一人が言う、「霊に憑かれたに決まってるさ。」 別の一人は言う、「いや、似たような病気が前に流行ったことがあったぜ。その時には、おれの姉貴の
…… 」
「ムンドゥ! つきとめるんだ、何か企んでいるに決まっとるからな。あのペテン師、ノエン・シャドゥカーンの野郎、偽証文稼業がバレないように、唖や聾のフリをしたことがあったろう? 覚えているか?」
バシュ・プルトの路地の角に立って話しているのは、ゴダイ・シャドゥカーンだ。「あんなの、何てことはねえや、ただの梅毒さ。このゴダイ様には、何もかもお見通しだ。あんな連中、そこら中に、ごろごろいるぜ
…… 」
まったくその通り。ゴダイはむかし、そのせいで、地面を這いつくばって歩いたこともあったのだ。この上、何を付け加えることがあろう?