壮麗市場(ショババジャル)のシャイロック
壮麗市場(ショババジャル)のシャイロック 解題
この作品も、ショモレシュ・ボシュ(1924~1988)の五つ目の短編小説集『心の鏡』に掲載されました。
「ショババジャル」は、北コルカタ(カルカッタ)の中心に位置する、最も古い区画の一つ。17世紀末に、ガンガー(ガンジス川)の支流、フグリー川東岸に位置する、ゴビンドプル、コリカタ、シュタヌティの三つの村が、東インド会社の所有となりました。このうち最も北にあるシュタヌティが現在のショババジャルに発展します。
ショババジャルの地名の由来には、二つの説があります。
シュタヌティは、当初、綿織物市場として栄えましたが、そこで富を築いた商人ボシャク家の頭領がショバラム・ボシャクです。彼の名前がこの地名の由来であるというのが、最初の説。
その半世紀後、「プラッシーの戦い」(1757年)で、ロバート・クライヴ率いる東インド会社軍は、当時のベンガル地域の太守であったシラージュ・ウッダウラを破ります。イギリス軍に協力した東インド会社の書記ノボクリシュノ・デーブは、その後、その恩恵に浴します。彼のシュタヌティの邸宅はラジュバリ(王宮)と呼ばれ、そこでは、イギリスの高官を招待して、毎年、ドゥルガー女神を祀る大規模な祭祀が行なわれてきました。(この祭祀は現在も続いています。)この家で開かれる「ラジュショバ」(王宮の集い)の「ショバ」と、「壮麗」の意味の「ショバ」が響き合って、この地名になった、と言うのが二番目の説です。
いずれの説を取るにしても、「ショバ」には「壮麗」のイメージが伴います。周辺には、歴史ある古い建物や寺院が、数多くあります。この短篇の主人公シャイロックが塒とする古い館も、そうした建物の一つだろうと思われます。
ところで、シャイロックは、当初、ガンガーの水を家々に供していた、とあります。当時の北コルカタは、各所にフグリー川からの水を引いた水溜が整備されており、人夫たちは、その「聖なる水」を空き缶に入れて天秤棒に担ぎ、家々に配って歩きました。こうした人夫には、オリッサ(オーディシャー)地域出身の人が多かったようです。
シャイロックはその後、近隣の中高等学校 [「ハイスクール」、5年生または6 年生から10年生まで在籍] の使用人として雇われます。当時の学校教師は、生徒の授業料支払いがないと給料が支給されず、この物語にあるように、生活のため、しばしば借金せざるを得ませんでした。教師に毎月定期的に給料が支払われるようになるのは、1977年、インド共産党マルクス主義派(CPI-M)主導の左翼戦線が、西ベンガル州の政権を取って以降のことです。
壮麗市場(ショババジャル)のシャイロック
ショモレシュ・ボシュ
「壮麗市場のシャイロック」、彼は皆に、この名で知られていた。知られていた、ではない、今もなお知られている。そして彼が生きている限り、この名で知られるだろう。
なぜなら、この名前にこそ、彼の本来の姿が表れているからだ。彼の性格の内と外、すべてをひっくるめて、人びとはこの的確な呼び名を与えたのだ。自分たち自身の体験からこう名付けたのだ。
なぜなら、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に出てくるユダヤ人商人のシャイロックが、借金返済の代わりに彼の債務者の身体の肉を要求したように、われらが壮麗市場のシャイロックの性格にも、同様の冷酷さが際立っているからだ。時代が変わってしまったので、さすがに借金の代わりに債務者の肉を要求することはできないとは言え、借金を現金で返すのが無理な場合は、肉でそれに代えるのも辞さないに違いない。
無論、ショババジャルで、皆さんが彼の姿を見かけることは、滅多にないだろう。その、どこか地下道のような盲小路の中にある、古色蒼然とした、巨大なおどろおどろしい屋敷に、彼は、夜寝るためだけに帰る。その屋敷の部屋部屋は、いまや、地下牢の集積のように思われる。そして、何もかも壊さずにはおかぬ無法者のように、その壁にはバンヤン樹・インド菩提樹が頭をもたげ、野鳩だけがその迫持や天井の窪みに何世代にも亘って住みつき、生と死の戯れに忙しい。
だが、彼がショババジャルの住人であるまさにその理由のために、彼は壮麗市場のシャイロックと呼ばれるのだ。彼がショババジャルのもともとの住人ではなく、彼の「もともと」がいったいどこなのか、それについてのはっきりした情報は、誰一人持ち合わせていないにしても。それでもなお、ショババジャルの誰もが、彼を知っているのだ。しかも、ずっと以前から
—— 彼が天秤棒を担いで、ガンガーの水を、家から家へと供していた頃から。
当時、この界隈のほとんどすべての寡婦、および年老いた既婚の主婦たちが、彼を知っていた。とりわけ、神を祀る部屋の外の世界を知らない女たちが。彼女たちが知っていたのは、ガンガーの水を撒き散らす、四辺形の世界だけだったのだ。
当時、彼女たちの口から、よく次の言葉が聞かれたものだった —— この、ゴテのたわけ者、足に泥をつけたまま家に入るなんて、あんた、何を考えてるの?
この「ゴテ」という呼び名から、彼の本名をまるごと見出すのが困難なのは確かだが、私には、それが「ゴトットコチュ」だというのが自然なように思われる。なぜなら、彼がいま職を得ている場所では、信じられないことに、彼の姓名はラボン・ハルダルと記されているからである。
[「ゴトットコチュ」(ガトートカチャ)は醜い姿をした怪力の羅刹(『マハーバーラタ』)。「ラボン」(ラーヴァナ)は10の顔を持つ羅刹たちの王、ラーマ王子に征伐される(『ラーマーヤナ』)。]
この姓と名、二つともに、無論、ハチャメチャである。どうしてハチャメチャかと言うと、彼は自分の出自をポードだと主張するのだが、北ベンガル出身のバラモン、ポード出自の者が、ハルダル姓を名乗るのは、どう見ても不自然なのだ。そして、名のほうは? それについては、誰もがこの思いを抱きながら沈黙を守るほかはない
—— この地上には、どれだけ奇妙な名があることか! それも、よりによって、われらが壮麗市場のシャイロックに、こんな名前がつけられたとは? なんと奇妙なことだろう!
彼の職業のことを述べる必要があろう。なぜなら、借金の利子で食っている者に、また、職業なんてものがあるのか? という問いが生じるおそれがあるからだ。実際、彼は定職に就いている。その職は、彼の本来の商いの発展に、大いに役立ったのだ。
彼は、近所の中高等学校の使用人である。ガンガーの水の聖なる商いをしながら、この職を、彼はいつの日にか、手に入れたのだ。今や「いつの日にか」という言い回しをせざるを得ないのは、25年以上にも亘って、彼はこの学校にいるからである。この間、三度、校長が代わった。多くの新任の教師が来て、古い教師は去った。亡くなった教師も少なくない。
この職に就く前、彼はガンガーの水を家々に供していた。そして、そのガンガーの水の聖なる商いの時代に、彼ははじめて、一人に金を貸したのだ。
これもまた面妖な話ではあるが、少なくとも、「シャイロック生」の最初の芽生えがどうであったかは、知ることができる。
彼が当時住みついていて、今日なお寝泊まりしている例の屋敷には、彼のような者が多い。彼らは、さまざまな方便で、その日暮らしをしている。
シャイロックの —— そう、もうシャイロックと呼ぶことにしよう —— シャイロックの手元には、その日、1ルピーだけ金があった。その金で、彼はその日の食事を工面しなければならない。
屋敷の知り合いの一人が、彼に、1ルピーの借金をもとめた。だが1ルピーしか持ち合わせがない。貸すわけにはいかない。それに、彼には、金を貸したいという意志が全くなかった。
にも拘わらず、その男はしつこかった。と言うのも、彼には大麻中毒の気があったのだ。男はほとんど足に縋りつくようにして言った、4パイサは無理だが、夜が明けたら、1ルピーと一緒に、まるまる2パイサ [1パイサは1/64ルピー]
の利子を支払う、と。
この言葉は彼の気に染まった。そして、内心怖れを抱きながらも、彼はその男に1ルピー渡したのだった。そのために、彼はその夜、食事を抜かなければならなかったのだが、それでも、ほんとうに、1ルピーとともに、さらなる2パイサが来るかどうか、確かめたかったのである。
その金はやって来た。まるまる2.5センチ直径の、王様の絵の入ったピカピカの銅銭二枚を、彼は手に入れたのだ。その日、そしてその2パイサが、どんなに大きな歴史的出来事だったか、その時にはわからなかった。この出来事を知る者すら、いなかったのだ。
シャイロックの家がどこで、誰と誰がいて、結婚したかどうか、子供があるかどうか、こうした問いに対し、シャイロックの人生は、押し黙った海のように無言である。そこからは、泡のブクブクほどの意味不明の音すら、聞こえてこない。
彼の現在の知人たちの見るところ、この男は、昔からずーっと、この風貌のままだったのだ。痩せてもおらず、太ってもおらず、まるで鎚で鍛え上げたようにがっしりした黒い身体、その年齢は知る由もない。50歳かも知れぬし、65歳だとしてもまったくおかしくない! 禿げはなく、灰色の短い針のような髪、それは決して、伸びることもなければ、色変わりすることもない。脹れた団子鼻、小さな目の上では、太く毛深い一対の眉毛が、前方に垂れ下がっているかのようだ。あの、いつも同じ、アメリカ布地の襟付き半袖シャツに、出来合いの短いドーティ
[インド風の下衣、長い腰布を巻き付けたもの] を、前を畳んで着付けている。彼は決して靴を履こうとはしない。嗜むものと言えば紅茶ばかりである。
教師のほとんどが、彼に一目置いている。内心、怒りや憎悪がないわけではないが、恐れてもいるのだ。なぜなら、このシャイロックは、月末どころか、月初めでも金を貸してくれるからである。使用人の分際で。
いつから彼にシャイロックの名がついたか、それもまた遠い過去の話ではある。誰もが彼をこの名で呼ぶ。彼はまったく意に介さない。
ただ校長だけが、彼をラボンと呼ぶ。シャイロック自身、その名前を失念しているので、返事をしないこともしばしばある。校長が彼をラボンと呼ぶのは、そうすれば、少なくともシャイロックは彼を特別扱いするだろう、と思ってのことである。そして、おそらく同じ理由で、どんなに必要があっても、彼は決して、シャイロックから金を借りようとしないのだ。
シャイロックは、教師たちに対し、いつも、まるで叱りつけるかのようにものを言う。彼にはその権限があり、彼が叱るのを誰もが容認してもいるのだ。
たとえば、ベンガル語のホレン先生が、教室に行かずに、ビリ [大衆向けの葉っぱ巻きタバコ] をうまそうに吸っているとする。授業開始合図の鉦は、もう5分以上前に鳴ったのだ。
シャイロックが声を上げる ——
どうしたんです、ホレン先生、ビリを随分前から吸っていらっしゃるが、あちらでは8年生の猿どもが、ランカーの戦みたいな騒ぎですぜ。さっさとお行きなさい。
[「ランカーの戦」はラーマ王子と羅刹王ラーヴァナの最後の戦い。ハヌマーンの一群がラーマ王子に加勢する(『ラーマーヤナ』)。]
ホレン先生は、当然、怒るべきだ。校長は何も言わないのに、使用人の分際で命令するというのか? だが、どうして怒ることができよう? 元金どころか、今月の利子までまだ払い終えていないのだ。
あるいは、英語のオニル先生を呼びつけて、シャイロックがこう言うこともある—— おおいオニル先生、地面に裾を引きずっていますよ! そんな調子だから、ドーティが破れて、毎月借金してでも、新しいのを買う羽目になるんですよ。
オニル先生の心中は、いかばかりか。
だが彼は、シャイロックの顧客なのだ。
今挙げたのはまだかなりマシなほうだ。これよりずっとひどい言葉遣いになることも多い。算数のラムクリシュノ先生に対しては、彼はしょっちゅう、まさしくその算数の教えを垂れるのである——
ラムケシュト [ケシュトは「クリシュノ」の口語形] 先生、借金の計算にこれだけ間違いが多いのに、よく生徒たちに教えられますなあ。まあ、間違えようが何しようが、あんたの勝手だが、私に、2ルピー53パイサの利子を、払ってからにしてほしいもんですな。
ほとんどすべての教師が彼の管理下にある。校長を除いては。校長はシャイロックに借金しない。
だが、教師たちを管理し、誰に対しても対等にものを言うこの厚かましさは、歯止めを失い、遂には、学校には彼の上に立つ者はいない、と思われるまでになった。彼の思い通り、何でも言いたい放題、やりたい放題なのだ。
つい先月のことだ。学校監査官が訪問した。シャイロックはその日、教師たちの多くを叱りつけた。その上、監査官がやって来ると、シャイロックは前にしゃしゃり出て、紹介し始めた。
—— えーと、こちらがこの学校の校長です。
監査官は礼をし、校長も返礼した。怒りのあまり、校長の腸は煮えくり返っていた。だがその時は何も言うことができなかった。
それだけではない、シャイロックはすべての教師を紹介したのだ。こちらが算数のラムクリシュノ先生、こちらがベンガル語の……云々。
最後に、この見てくれの悪い・腰をまくり上げ・半袖シャツをまとった・ハリネズミのような頭のシャイロックに向かって、監査官は言った —— で、あなたの紹介は、まだでしたね?
シャイロックは、真面目くさった様子で答えた
—— 私はこの学校の使用人です。
監査官は唖然として校長の方を凝視した。校長の顔は真っ赤である。こう言うのが精一杯だった —— ラボン、外に行って、待っていなさい。
シャイロックは外に出てすわった。
監査官が去った後、校長は、シャイロックをほとんど叩き殺さんばかりの勢いだった。
—— 出て行け(ゲット・アウト)! 今すぐ出て行け、学校から!
重大な過ちを犯したことに気づいて、シャイロックは口調を和らげて答えた。
—— 紹介をするのがいけないとは、知りませんでした。分かりました、もう決してこんなことはしますまい。
足に縋りついて謝った訳ではない。彼にとっては、これで十分だったのだ。
その日一日だけ、彼は、どの教師も、叱りつけることはしなかった。
だがこの場所は、シャイロックの本来の仕事場ではない。仕事場は他にあって、そこでこそ、誰もが彼のことを、最もよく知っているのだ。そして、そこには、先生と呼べるような人は誰もいない。皆が下層階級の者たちである。
だから、学校の終了の鉦を鳴らすと、門番にすべての責任を預け、彼は運河縁のいつもの茶店に行って、腰をおろすのである。
その店には、彼が決まってすわる場所がある。紅茶のグラスを持ってそこにすわり、彼の太い眉の下にほとんど隠れている小さな二つの目で、西の空の方を見つめる。
その場所は、彼が意図して選んだのである。なぜなら、西の方角にはほとんど遮るものがなく、ガンガーが見えるからだ。ガンガーの向こう岸まで。そこにすわったまま、彼は日没を見る。
いや、この世の謎の無言の発現を目撃するために、日没を見つめている訳ではない。彼の顧客の一団が借金の返済に来るのだが、日没と同時に、その利子が1パイサ上がるのである。
夕暮れ時に金を受け取る。次の日の日没前までに、利子とともに借金が返済されなければ、また利子が加算される。ここでの商いは、時計に基づいていない。ガンガーの向こう岸の木蔭に太陽の姿が消えるのが、一日の終わりの合図なのだ。こうして、1ルピーの借金の返済額は、1ルピー1パイサではなく、1ルピー2パイサになるのである。
仲買人たちの大部分は、夜、街を離れ、遠い村の市まで野菜類を買い出しに行く、卸し値で。その時のために、彼らには資金が必要になるのだ。翌日、市場での売り買いの末、彼らは損得勘定をするのである。
シャイロックに金を借りた連中も、夕方4時になると空を見上げている。太陽が沈んでしまえばもうおしまいで、10ルピーの利子が20パイサになるのである。
とは言え、その中にはいくつかの抜け道がある。例えば、債務者の列ができて、全員の収支決済が日没前に終わらない場合である。その場合、決済が済んでいない債務者たちは、余分の利子を払う必要がない。なぜなら、彼らは日没前に来ていたのだから。もちろん、本当に日没前に来たかどうか、シャイロックは目を光らせている。
銀行で小切手を現金化するには、2時までに窓口に行かなければならないのと似ている。このやり方をシャイロックは銀行から学んだのである。債務者には、男女を問わず、あらゆる種類の者たちがいる。そしてシャイロックの応対は、誰に対しても同じである。
という訳で、彼は夕方4時に運河縁の茶店に来て、座を占めるのである。膝の上には、お決まりの汚れた分厚い帳面、そして糸で結んだ鉛筆。その鉛筆の先の減り具合は、彼が実際に書くよりも、舌で何度も舐った結果の方が大きいのである。
帳面を開いて、一人一人の収支を、微に入り細を穿って確かめる。数字はすべて彼の手書きであり、彼以外には誰一人読むことはできない。数字の横に書かれたさまざまな印も、彼以外に解読できる者はいない。
1パイサも疎かにせず、彼は勘定する。唾をつけてページをめくりながら、利子計算と照らし合わせる。そうしながら、度々、空の方を仰ぐ。
空を見上げた視線を戻すと、債務者を、鋭く吟味するような目つきで観察する。誰と誰がまだ来ていないか、正確に覚えている。習慣になっているのだ。
大目に見る、などということはあり得ない。「容赦」などと言う言葉は、シャイロックの辞書にはないのだ。…
もし誰かが、—— ねえ、シャリク叔父さん—— とでも切り出したとしたら ……
そう、これも説明を要する。こんな風に、債務者たちは彼を、「シャリク」と呼ぶのである。「シャイロック」という言葉の意味を彼らは知らない。だが、この音を聞き慣わした結果、「シャイロック」は、彼らの理解と発音の両方で「シャリク」
[インドハッカ、ムクドリ科の鳥] となったのだ。
それでも、彼はまったく意に介さない。
もし誰かがこう言ったとする——ねえ、シャリク叔父さん 、今日はちょっと勘弁してくれないかな、もちろん明日払うから。今夜は、子供たちと、とにかく何とか食いつなぎたいんだ。
—— あんたが食いつなぐために、金を貸したわけじゃないぜ。
ごもっとも。日没後にやって来て、足に縋りついて頼んだところで、利子が倍になることを誰も免れることはできない。たまたま誰かの家で誰かが死んだために来れなかったとしても、シャイロックが容赦したことはない。死んだ債務者の金すら、徴収せずにはおかないのだ。ただし、死んだ後の日々の利子だけは、免除するのであるが。
かつて、女仲買人のパンチが、花キャベツを丸ごと二つ、シャイロックにやったことがある。パンチは、借金が少したまっていた。利子もたまっていた。その上、来るのが遅れて夜になった。だからパンチは花キャベツをやったのであろう。だが、花キャベツを受け取ったところで、彼は利子を半パイサすら負けることはなかった。
死・服喪・不慮の出来事、何が起ころうとも、この壮麗市場のシャイロックを、かつて動かすことはできなかった。日没を見ることを、彼はいかなる理由があれ、かつて一度も忘れたことはないし、日没後に利子が増えるのを、1パイサとて容赦したことはない。
債務者たちは、彼のもとに来ない訳にはいかないのだ。なぜなら、毎日の必要を充たしてくれるような貸し手を見つけるのは、とても難しいからだ。しかも、信用のおける貸し手を。だがその実、誰もが心の底から彼を憎悪する。金の必要があるにも拘わらず、誰もが彼の死を望む。そして誰もが堅く信じるところ、こいつが死ねば、ハゲタカが来てその死骸を食い荒らすだろう
…… しかも、死ぬ時には、たぶん、血を吐いて死ぬことになるだろう ……
彼のその死に様を想像しただけで、多くの人は、胸のすく思いがするらしい。
かくも冷酷な壮麗市場のシャイロックではあったが、そんな彼が、ある驚くべきことを仕出かしたのだ。
近隣の象の園市場で野菜を売る寡婦のシュコダは、42歳になる。見てくれはさほどでもないが、歳の割に身体はしっかりしている。顔容も月並みだが、ある種の輝きがある。道を行く時には、誰しも一度は彼女の方に目を注ぐ。
彼女はシャイロックの顧客である。時にシュコダは、シャイロックに色目を使ったり、少しよけいに笑いを見せたりもするのだが、彼の応対に変化の兆しはない。それに、こうしたことを目にしても、彼は半パイサすら負けることはなかったのだ。
シュコダはある日、彼女の16歳の娘を伴って現れた。そして、その日、シャリクが彼女の娘モエナを繰り返し見ているのが、シュコダの目に留まった。
モエナは、16歳ではあるが、やや大柄なのが、回りの目を惹く。その上、彼らが住む居住区は柄が良くない。娘をめぐって、シュコダの心配は尽きることはない。指笛、歌声での誘惑は四六時中。一瞬でも目を離すと、たちまちそわそわし始める。少しでも誰かの方に気を取られる様子を見ると、シュコダは彼女を抓って我に返らせる
—— いったい、何があるんだい、あっちばかり見て?
モエナはシュコダの頭痛の種だ。だが、シュコダには、娘を嫁がせるだけの金力がない。
そうしたことは、シャイロックも承知である。
だが、この「シャリク」の視線を見て、シュコダの胸には驚くべき願望が頭をもたげた。シャイロックを婿にするのも悪くはない。お伽噺の王子様のように、金の山を手中にしている。そんな彼を絡め取る道が、あるにはある。年齢? 金と比べれば、どうと言うことはない。それに、男に、歳が何だと言うのだ!
ある日のこと、こう口を切った——もうこれ以上、この娘を家に置いておくわけに行かないわ、シャリク兄!
—— 嫁がせろ。
—— 持参金はどうするの?
—— いくらだ?
シュコダの胸に震えが走った。こんなことを聞くの、どうしてかしら? 無利子で金を貸す気?
——まあ、今時、嫁がせるとなると、五百ルピーはいるわね。
——ふむ。
言葉を途切らせ、ひとたび日没の方に目を遣ると、シャイロックは言った—— 娘を嫁がせたいのか? あのモエナを? 相手を見つけたのか?
実は、すでに目をつけていた。上物で、シアルダ [コルカタ東部、ベンガル各地を結ぶ路線の発着駅がある] 市場の、かなり格上の店の主人である。だが、シャイロックが彼女を騙していないという証拠が、どこにある? シャイロック自身が婿になりたがっているのが、シュコダには分からない、とでも言うのか? それにしても、一度鞭を入れてみるのも悪くはあるまい。
—— 見つけたわ。
—— いい相手か?
―― 上物だわ。
—— ふむ。おまえの娘はいい子だ、シュコダ。見た目も綺麗だ。おれは気に入ったよ。
どんな風に気に入ったのか、それをシュコダは知りたかった。それで探りを入れた。
—— あんたには、見る目があるわ、シャリク兄。
—— ふむ。おまえの娘が幸せになるようにと、おれは願っているよ、シュコダ。
誰の幸せが欲しいのだろうか、シャイロックは?
シャイロックは、突然言い放った——金はおまえにやるよ、シュコダ。
——そんなにたくさんのお金、どうやって返したらいいの、シャリク兄?
シャイロックは、西の空の方を凝っと見つめた。彼の二つの眉は微動だにせず、両の目は穏やかに大きく見開いていた。重々しい声で言った。
——貸すんじゃない。おまえの娘の結婚のために、やるんだよ。五百ルピーやろう。だからその相手に伝えて、結婚の日取りを決めろ。このジョイシュト月 [5月半ば〜6月半ば] のうちに、式を挙げるんだ。
シュコダは、口をポカンと開けてシャイロックの方を見つめていた。
シャイロックは続ける——おまえの、今日の分の借金と利子を、払いな。
シュコダは借金と利子を渡すと言った——モエナの結婚のこと、嘘じゃないでしょうね、シャリク兄?
シャイロックは凄まじい形相になった。声を荒げた
—— このシャリクが、今まで嘘を言ったことが、一度でもあったか?
シュコダは娘の結婚の手筈を整えた。日取りが決まった。
500ルピーを手元に置いて、シャイロックは、毎日、シュコダの必要に応じて金を渡し続けた。
シュコダを脅す者もある。悪い噂を立てる者にも事欠かない。その醜聞から、母娘のどちらも、逃れることはできなかった。
それにしても、女を手に入れることが、シャイロックにとって、そんなに困難だったのだろうか? まるまる、五百ルピーも払うなんて?
誰もがシャイロックを、驚きの眼差しで見つめた。
こうして、その結婚式の日がやって来た。五百ルピーの残りをすべて、シャイロックはシュコダに手渡した。
式が終わった。招待客の中には、シュコダが招いた、多くの知り合いの仲買人がいる。彼らは皆、シャイロックの債務者である。
驚きと疑いに眉を顰め、さまざまな噂話が飛び交う。もちろん、シャイロックが話題だ。シュコダとモエナだけは、驚きのあまり、呆然としていた。
シャイロックは、他の招待客と並んで座り、食事をした。その後、絹のサリーを一枚取り出し、モエナに渡した。—— さあ、これを。
シュコダはわっと泣き出した。モエナは帰敬した。
立ち去る前に、シュコダを蔭に呼ぶと、シャイロックは言った ——この三日間、おまえの未払いの利子がたまっているぞ。あの7ルピー半だよ、覚えているか?
シュコダは驚いて答えた——はい。
—— どうしてさっさと払わない? 毎日利子がたまっていくぞ。明日、全部、払うんだ。
この男は、何一つ忘れることはない。五百ルピー払ってシュコダの娘の結婚を按配した、その同じ男が、7ルピー半の借金の利子、30パイサの支払いを催促するのを忘れない。
シャイロックが去った、その後を追って、何人かの仲買人たちが去った。
その後、シュコダたちの家からかなり離れた運河縁の、陸橋に隠れた暗闇の中で、突然何人かがシャイロックに襲いかかった。彼らは容赦なく彼を叩きのめした。そして、ただこう言う声だけが聞こえてきた——
この野郎、やっと正体を表したな! 女の尻を追いかけるのに、金を使いやがって! 貧乏人から巻き上げた金を!
翌日、噂は矢のように広がった —— どこかの連中が、シャイロックを叩き殺したらしい、との噂が。
学校の教師たちは見た —— シャイロックの、脹れて傷だらけの顔を。彼は死ななかったのだ。教師たちは鼻の先で笑った。
その日、運河縁の茶店を訪れた債務者の群も、特別の眼差しで、彼を観察した。
だが、シャイロックの応対には何の変化も見られなかった。ただ、五人ほどの仲買人に向かって、こう言っただけだった——いいか、この世では、罪業が、まだ幅をきかせているのだよ。おまえたちはまだ、解脱を得られん。おれにも、解脱はない。
これ以外、彼は何一つ言わなかった。
この出来事の後、五年の歳月が経ったが、シャイロックはと言えば、まったく前のままである。彼には何一つ、変わったところはない。
ただ、シュコダ、および皆の胸には、モエナの結婚を按配したことが、シャイロックの人生の沈黙の海における、いくつかの理解不能な泡のような印象を残したのだ。とにもかくにも、泡のようなものが立ったのである。
破られた契約
破られた契約 解題
ショモレシュ・ボシュ(1924 ~ 1988)の初期の作品。初出は不明。前回掲載した「快復」と同じく、1958年に発刊された短編小説集『心の鏡』に収録されています。
この小説も、ノイハティ市を舞台にしています。「快復」が、この街の光に満ちた 過去の由来を描いているとすれば、この「破られた契約」は、対照的に、この街の現代の暗黒を描いていると言えましょう。
「快復」の概説に書いたように、ノイハティ市は、コルカタ(カルカッタ)の北33km、ガンガー(ガンジス川)沿いに位置します。ショモレシュ・ボシュが、少年時代から深い繋がりを持ち続けた町です。舞台となるノイハティ駅は、カルカッタ(コルカタ)市内のシアルダ駅を起点とする路線の、重要な乗換駅です。この駅で、北・東ベンガル方面に向かう路線と、ベンガル州西部からビハール州方面に延びる路線に分岐します。そのため構内には多くの線路があり、駅の北側には、それらの線路を越えて、西の旧市街と東の新市街を結ぶ、長い陸橋が架かっています。
主人公のビジョリとそれを取り巻く3人の若者は、没落する中産階級下層に属し、貧困のため高等教育を途中で放棄せざるを得なくなります。1950年代の半ば、まだ印パ分離独立後の社会的混乱は尾を引いており、東ベンガルからの難民の居住区も、市内には残っていました。(インドでは、8年制の初等義務教育、4年制の中等教育の後、カレッジまたは総合大学での高等教育が用意されています。ノイハティ市には、文豪ボンキムチョンドロ・チャタルジの生家に隣接する、名門「聖者ボンキムチョンドロ・カレッジ」(1948年創立)があります。)
ビジョリ(略称ビジュ)の姓は「バナルジ」で、その訛った形が「バ(ン)ルッジェ」。ベンガルの最上位バラモンを代表する姓の一つです。「快復」の主人公オボニの姓も、やはりバ(ン)ルッジェでした。ベンガル地方では、「バナルジ/バ(ン)ルッジェ(ボンドパッダエ)」、「ムカルジ/ムクッジェ(ムコパッダエ)」、「チャタルジ/チャトゥッジェ(チョットパッダエ)」、「ガングリ(ゴンゴパッダエ)」の四つの姓が、クリン・バラモン(最上位バラモン)を代表します。いずれも、最初の形が英語化された語形、括弧内はもともとのベンガル語の語形で、どちらの形もよく使われます。
なお、物語の冒頭に「市の父」(シティ・ファーザー)とありますが、これは、ノイハティ市のシンボルとして、日中、街を自由に徘徊することを許されている雄牛のことです。
破られた契約
ショモレシュ・ボシュ
夜8時になろうとしていた。その時知らせが届いたのだ。一人が来て、唇を歪め、ある種の嘲りを露わにしながら、そのいっぽう無感動な態の笑みを浮かべ、いかにも事も無げに言い放った、「おいあの、あの例の女、死にやがったぜ。」
ポウシュ月 [12月半ば〜1月半ば] である。もう3時間以上も前に闇が深まっていた。地方都市であればその内も外も、どの街路も、この時間になれば人通りがなくなるはずだ。他の日であれば当然そうなるのだが、今日は土曜日である。だからまだ、人の往来が絶えていなかった。
鉄道駅の近くはやや人が多い。なぜなら、店舗が多く、明かりも多く、当然ながら人の往き来も多い。駅前の道をさらに南北に進めば、次第に人通りが減り店の数も少なくなる。
空には霧、星は死んだ目のように輝きがない。埃と煤煙が、裸体を目立たせるように着付けたサリーに似て、街全体に淫らな覆いを巻きつけているように見えた。北風には冷気の棘。街を徘徊する雄牛「市の父」はすでに駅のベランダに上がって休んでいた。路上の犬も人間たちも暖かい寝場所を捜していた。
そんな時である、知らせが来たのは。
市街の南方の空き地に、表通りに面して建てられた、時代遅れの低い屋根・虫に喰われた垂木・剥げ落ちた壁の「ゴネシュ・カフェ」。そこに知らせが届いたのだ。ゴネシュ・カフェはその時、客たちの雑談で大賑わいだった。茶碗・ガラスのコップ・安い素焼きの器、紅茶の入ったありとある容器がテーブルの上に並んでいた。デモに集まるさまざまな階層の民衆のように。
安タバコとビリ [大衆向けの葉っぱ巻きタバコ] の煙が、建物の内部を覆い尽くしていた。
店主は、下半身を簡単な腰布で覆い、全身ショールを巻きつけたまま、カウンターに座っている。新しい客は来そうにない。いま店にいるのは、ほとんど毎日顔を出す、常連客ばかり。大部分が土地の、職にあぶれた若者たちである。カレッジを落第した・中退した、ないしそもそもカレッジに行けなかった者たちが多い。汚れたパエジャマ [インド風の上衣]・ドーティ [インド風の下衣、長い腰布を巻き付けたもの]・ズボン、破れたシャツ、ぼさぼさの髪、絶えず腹を空かせた顔また顔の、ごちゃ混ぜの集合。もちろん彼らの中には、同輩でありながら、きちんとした身なりの・ピカピカの・食い足りて健康そのものの友人の姿がないわけではない。だがその出現は風任せである。その、場違いの、憐れみに満ちた素振り。
国民会議派・共産党・人民社会党(PSP)・革命社会党(RSP)、学校・カレッジ、市当局、殺人・逮捕・暴力沙汰、恋愛・詐欺・誘拐、歌・演奏・芝居、この街の過去・未来等々がここでの話題である。文学の話題まで出る。叫喚・熱狂はもちろんのこと、笑いや罵詈雑言の投げ合い。殴り合いになることも、ないわけではない。時には怒り狂った声とともに短刀が持ち出されたこともあった。まだ起きたことはないが、殺し合いに発展しそうなことも何度もあった。そうした中で、涙が流されたことも一方ではない。夜の8時、喧噪は極度に達していた。ベニヤ板の壁で仕切られた二つの狭い「女性専用」室でも、雑談が花咲いていた。「女性」は一人もいなかったのではあるが。
ゴネシュ・カフェの店主ゴネシュも、雑談に加わっていた。空気の通わぬ閉め切った建物、安タバコとビリの煙に包まれて、誰もが集合地獄にうじゃうじゃ群がる亡霊のように見えた。さまざまな話題、笑い、議論口論に皆が没頭している、そんな時に一人が来て、いつもの・決まり切った・古臭い知らせとでもいうかのように、笑みを浮かべ、平然と言い放ったのだ、「ほら例の、難民居住区横のバラモン地区に住む、ラドゥ・バンルッジェの娘、あの有名なビジュ、ビジョリだよビジョリ、あいつが死にやがったんだ。」
集合地獄は不意に静まり返った。亡霊たちは、呪文をかけた水を浴びせられたかのように、麻痺して凍り付いたまま、知らせをもたらした使者のほうを見つめていた。
少し経って太い声が響いた、「どうやって?」
返事が来る前にもう一人が言った、「今日の午後も見かけたぜ。」
さらに一人、「ああ、この店で見たんだぜ、夕暮れ時に。」
こう言うと彼はもう一人の方を見つめた。見つめられた男はすでに立ち上がっていた。彼とともに、あとの二人も。どれもせいぜい24, 5歳だろう。三人はほとんど同時に声を詰まらせながら言った、「ああ、今日の今日、ついさっきまでここにいたんだ。だが、どうやって死んだんだ? どこだ?」
知らせを運んできた男は言う、「金銀細工師ニシのマンゴー園の横、北信号室の側の線路の上だ。」
「線路で?」
「ああ。貨物列車の下敷きになって。おれは見て来たんだ。ちょうど喉のところで ……」
「自殺だろ、もちろん? でなきゃあんな場所に、夜、誰が行くものか?」
その時には、すでに三人とも店を出ていた。
その後も、ゴネシュ・カフェの低い屋根の建物は、しばらく息を潜めていた。少し経って一人の声が聞こえた、「たまげた! 何が何だが、訳が分からねえ、近頃は。」
ゴネシュはがらがら声で言った、「まったくだ! おまけに、線路の上で、だと!」
何人かが立ち上がった。「ちょっと行って見て来ようぜ。」
例の三人は、その頃、闇に沈む線路に沿って駈け、北信号室の側に着いた。その場所には道の明かりは届かない。信号室の明かりも、一本の木に遮られて届くことができずにいる。信号室の人夫が、点滅する信号用のカンテラを三つ持ってきていた。インド鉄道警察も到着していた。ときおり彼らの懐中電灯の明かりが閃く。何人かの人の輪が、4番線の線路の一部を取り囲んでいる。
彼ら三人は、人の輪を押しのけて前に進んだ。線路の方を一度見遣ると、同時に目を見合わせた。その三対の目は、一つの手に負えない問いと驚きのため、ぎらついている。三人等しく、互いに対して問い質しているのだ —— ほんとうに、ビジュなのか?
そう。間違いなくビジュだ。視線を下げ、再び彼らはビジョリの姿を見た。ちょうど喉のところから頭が切断されている。巻きついたかさかさの長い結い髪は、まるごと線路の内側にしどけなく垂れているが、それを覆っていた赤い布片は頭と一緒に枕木の上に載っている。頭は線路の内側。サリーに巻かれた身体は、線路の外側の石と草の上に、ほとんど投げ出されたかのように転がっている。
カンテラの点滅する明かりが、ビジョリの見つめている透明な目に、点のようにチカチカ映る。口は大きく開かれ、その純白の歯に明かりが映える。額の深紅のビンディー [ヒンドゥーの女性が額につける小さな円形の飾り] はまだギラギラ輝いている。線路の外では、肩のあたりから、褐色の黒く縁取られた縞模様のサリーの裾が、胸の上をぴったり覆っている。どこもまるで、僅かたりとも、乱れていないかのよう。ただ一つ、左足を覆うサリーが少し上までめくれている。ちょうど人が眠っている時にそうなるように。手に嵌めた赤いガラス製の腕輪のいくつかは割れて、手のすぐ側に落ちている。残りはすべて、手つかずである。どこにも血はついていない。ただ、肩のあたりから褐色の縞模様のサリー越しに、赤いブラウスの胸の上へと、ひとかたまりの血がこぼれ落ちている。冬の北風に晒されて、それはすでに乾き切り、使い枯らしの印象を与える。
それ以外はすべて整然としている。あたかも、肩に頭をくっつければ、すぐにでもビジュが、その稲妻のような笑いを振り撒きながら起き上がり、皆をあっと言わせそうだ。その笑いに逢って、この地方都市の誰もが、かつて一度は驚かされたのである。
ビジュだ、間違いなくビジュだ。醜聞がその肢体を飾っていた。町の下賎の者から身分の高い者まで、その悪評高い女の噂話にうつつを抜かした。簡単に針に引っかかると思い、さんざんお決まりの餌を投げたがうまくいかず、彼らはその恨み辛みを、無言のまま、あるいは人前で、ぶちまけざるを得なかった。にも拘わらず、カレッジで勉強中の、あるいは途中で勉強を投げ出した何人かのろくでなしたちと、恥ずかしげもなく、しょっちゅうあちらこちら歩き回る姿が目に留まった。疑いの眼差しに晒されながらも、路上で身体をすり寄せながら大声で笑いを振り撒き、巷間に嫌悪の念をかきたてた。あろうことか、今日もまた、そんな姿を見せていたのだ。これがそのビジョリ、この、線路で切断された女。
ゴネシュ・カフェのこの三人は、再び目と目を合わせた。彼ら三人こそ、その何人かのろくでなしたち。いつもビジュは、彼らと一緒にうろついていたのだ。彼ら三人の眼差しは、首を縄で絞められた死体のように、さらにぎらついた。虚空のように限りない、一つの驚きと問いのため、その目は今すぐ、血、または水の噴水を噴き上がらせて破裂してしまいそうだった。
ビジュ、間違いなくビジュだ。今日の午後も、彼ら三人とともにゴネシュ・カフェにいた彼女。その言葉、笑いはもちろんのこと、怒ったり拗ねたりする様子の中にさえ、一度として、線路で切断されることになる影すら、認めることはできなかった。
だとすると?
人の輪の中から、誰かのこれ見よがしの、ふーむと尾を曳くため息が聞こえた。それに続けてひそひそ声で、「つけあがりやがって。挙げ句の果てに、このざまだ。」
三対の目が、すぐさま人の輪の方に集中した、怒り狂うマングースのように。だが誰一人見分けることはできない。カンテラはすべてビジョリの側に置かれている、ビジョリを囲んでいる。周りの人間たちの姿は不明瞭だ。
知己、あるいは見知らぬ人びとの呟き声が、いっしょくたになって響く。 — 誰だ? 誰の娘だ? おお! あの、例の娘? 何があったんだ?
分かるだろ! 何かあったに、決まってるさ。
ああ、分かりきったことだ。
ビジョリの父、ラドゥ旦那の姿も、インド鉄道警察の警部補の横に見えた。彼の目はビジュの方を向いていない。落ち窪んだ目で、あらぬ方を見つめている。いかにもおどおどした、だが罪科は自分にある、といった様子。ビジョリの死体にも、死体を見に集まった群衆の誰の方にも、目を向けることはできない。
警部補は尋ねる、「娘さん、何歳になります?」
「23です。」
「嫁がせなかったのは、どうしてです?」
いかにも警部補らしい問いだ。ラドゥ旦那は答える、「適当な相手が見つからなくて。」
「ふーむ。 どうしたんだ? 早く死体を縛れ。」
巡査の一人が答える、「警部補、巡査部長がもうすぐ竹を持ってきますので。」
「ふーむ。」 警部補はまた口を開く、「娘さん、3年目で退学したのは、どういう訳です?」
「半年分の授業料を滞納していたので。」
「ふむ、それで、仰るには、手紙もなにも、残さなかったと?」
「ええ。」
「おや、おや! 旦那、隠し事はよくないですぞ。あとで後悔することになりますぜ。」
ラドゥ旦那は、まるで現場を押さえられた泥棒のように、あらぬ方に目を遣ったままだ。
警部補の懐中電灯が、ひとたび切断されたビジョリを照らし出した。
死体を運ぶ連中が来た。
彼ら三人はラドゥ旦那の方に近寄った。彼らの三対のぎらつく目は、殺意に満ちた一つの問いを押し抱く短刀のように、音もなく光を放つ。彼らはラドゥ旦那から知りたいのだ —— 何があったのか、何故ビジョリが死んだのか。
ラドゥ旦那は、前と同様のおどおどした視線で見つめた。そして、囁くかのように言う、「ああ、ションコルにノレシュか。おお、プロバトも来たか?」
その通り、彼らは来た。だがそれが重要ではない。ラドゥ旦那、知っていることを、どうか言ってください。 —— 彼らは知りたいのだ。彼らの、そう、笑いながらゴネシュ・カフェを出た彼らのビジュが、何故、その喉を線路の上に差し伸べることになったのか。
ラドゥ旦那も彼らの目の方を見つめていた。その時、ようやく気づいたのだが —— 彼の落ち窪んだ両目は、風邪で熱を出した時のように真っ赤に濡れそぼれていたのだ。歯のない口を、何度も唇で押さえている。「何も知らないんだよ。君たち、ビジュの友達だろう。君たち、君たちは何も知らないのか?」
ションコル・ノレシュ・プロバトは再び目を見合わせた。彼らには分かったのだ、ラドゥ旦那がほんとうに何も知らないことを。だとすると? だとすると、誰に聞けばいいのか? 誰が知っているのか?
三人の視線はビジョリの上に落ちた。ぎくりとして、彼らは互いの手を握り締めた。どこかに弾き飛ばされそうに感じたのだ。ビジョリの黒い顔を、巡査部長たちは彼女の胸の上に置いた。そしてビジョリはいまや、まっすぐ彼ら三人の方を見つめている。
彼らは、三人とも喉を振り絞り、無音の叫び声を上げた — ビーージュ! ビーージュ!
巡査部長たちは、死体を布で縛り、竹棒に吊り下げた。警部補は呼んだ、「さあ、ラドゥ旦那!」
人の輪はばらばらになった。その中の一群は、貼り付いた蠅の群のように、インド鉄道警察署に向かって進んだ、死体の後を追って。
彼ら三人は、数瞬、そこに立ちつくした。その後、北の方角に向かってさらに少しだけ進み、ムクバナタレオボクの木叢 [民間信仰では幽霊の住処] を過ぎて、寂れた暗い陸橋の上に上った。手すりの上に身体を預け、下を覗き込んだ。乗換駅の蛇のようにくねくねした線路が、遙か遠くまで続いている。
上から見ると、街全体を、煤煙がすっかり呑み込んでいるのが分かる。
彼ら三人をも、ある恐ろしい何かが呑み込んでいた。いくら努めても、誰の口からも、何一つ音が出て来ないかのようだった。
ノレシュひとりが、喘ぎながら口を開いた、「ビジュ —— ビジュのやつ ……」
それ以上言葉を継ぐことができなかった。いつものように、今日もビジュは、午後会った時、屈託のない笑い声を振り撒いたのだ。その時の様子がひたすら思い出された。
三人とも黙ったままだった。コオロギのつんざくような音が聞こえる。
まるで、ビジュの笑い声が、彼ら三人の胸に鳴り響くかのようだった。三人とも、4番線のあの場所に視線を注いだ。何一つ見えない。あそこ、線路の上は、おそらくまだ血痕がついたままだろう。おそらく、こうしている内にもジャッカルが来て、ぺちゃぺちゃ舐め始めているに違いない。そして、彼ら三人が陸橋を降りて立ち去った後、深夜、あの屈託ない笑い声が、おそらく線路の鉄の中に鳴り響くに違いない。なぜなら、ビジュの喉はあの線路の真上で切断されたのだから。
彼ら三人がこの時間、陸橋の上にこのような有様で立っているのを、誰かが見たとしたら、何かよくないことを想像したことだろう。三人の策謀家が、何かとんでもないことを企んでいるのではないかと。彼らの汚れて破れた衣服、もじゃもじゃにほつれた髪、そして何よりも、彼らの血走った目には、厄介な問いと容赦ない報復への渇望がめらめら燃えていたのだ。
頭の宝石を奪われた伝説の大蛇のような、度しがたい苦痛と殺意に駆られ、彼らは胸の暗闇の中を手探りで探しているかのようだ、ビジュの死の原因を。そういえば、今日の午後ビジュが来た時、「ビジュ、遅いじゃないか。」と彼らが言うと、ビジュは答えた、「これからはだんだん遅くなって、もう来ることもできなくなるわ。」 「どうしてだ?」
ビジュは微笑んで答えた、「あらまあ、私が結婚しない、とでも思っているの? あなたたち三人と歩き回っていれば、永遠にうまく行くとでも?」 こう言うと大声で笑った。
だが、だからどうだと言うのだ? それはビジュの口癖だった。珍しいことではない。そうだとも。ビジュが遅れるのは、いつものことだ。何か腹を立てたことがあれば、あるいは単に秘密めかして、何度言ったことか、「もう来れないわ。今日でおしまい。」 こんな「おしまい」は、何度もあった。だが、その後いつも、「追伸」が繰り返されたのだ。だから、ビジュの今日の言葉あるいは素振りの中に、最後の出会いを標すような目新しさは、何ひとつなかった。
だとすると? だとすると、いったい何が? 彼ら三人は、一斉にまた、線路の方に眼差しを投げた。三人とも、線路の上に行って額を打ちつけたい願望に駆られる。額を何度も打ちつけて問い質したい、「どうしてだ、どうしてなんだ、ビジュ?」
だが、彼らは三人とも手すりに顔を押しつけたままだった。なぜなら、額を打ちつけて血の海としたところで、鉄の線路は何ひとつ答えないだろうから。
ひたすら、ビジュとともにあった昔の日々が、頭の中を駆け巡る。その日々、ビジョリ・バナルジが彼らの同級生であった日々。
彼らが学生だった日々。彼らの人生に嵐のような勢いがあり、生命は日々沸き立ち、目には夢の眉墨が描かれていた。ビジュは女王様のようにクラスに現れた。彼らは反旗を翻した家来のようだった。彼らは皮肉をこめて女王様を顕彰した、厚かましい笑いを目と唇に浮かべて。だがビジュが校長室に駆け込むことはなかった。本物の女王様のように、ただその笑いによって、反抗者たちを鎮めたのだった。彼女のその笑いは、当時から皆の胸の中に、ビジュの身持ちの悪さへの疑いを深めることとなった。そして皆と同様、彼ら三人も疑いを抱いたのだ。堕落した女と思い込んで、彼らの反抗は、ときに度を越えたものとなろうとした。
だが、学生生活において、彼らに安らげる住処、食事、そして少しの愛情を保証してくれるはずだった、肝腎の舟の底に、穴が開いていたのだ。人生を勢いづけた嵐は、舟の錨を引きちぎり、破滅の中へ引きずっていった。カレッジの校庭を離れ、彼らがいつ、火に燃えさかる人生の庭に跳び込むことになったか、自分たちすら覚えていない。カレッジでのセクト争いを離れ、外庭に出て来て、彼ら三人がいったいいつ友達となったかも、すっかり忘れてしまった! 無職と飢餓の苦しみに駆られ、いつ彼らが、この町でも指折りの厚顔なごろつきとして、悪名を轟かせることになったか、そのことは彼ら自身も知らないのだ。
そして、ビジョリ・バナルジという名の女に、ある日彼らがちょっかいを出そうとしたことも忘れてしまっていたに違いない —— もし三年前のある夕暮れ、町の南の、人気ない線路脇の排水溝の所で、出逢うことがなかったとしたら。女王様の目の隈には、その日深い溝が刻まれていた。両目のまなざしはまったく焦点がなく、痛ましかった。憔悴した顔。手には煎った南京豆の山。口の中でも、その二三粒を食んでいた。
彼ら三人を見て、ビジュは一瞬、気後れした様子を見せた。だが次の瞬間、あの女王様の笑いが、その痛ましい顔に稲妻のように煌めいた。そして口を開いた、「あなたたち、こんな所に?」
ビジョリを見た瞬間、彼ら三人の舌は、皮肉を言おうとして疼いた。彼女をつけ回す手立てを胸の内に組み立てていた。
だが、ビジュの黒い両の眸にどんな魔法が潜んでいたのか、彼らの意図は満たされることがなかった。むしろ、この悪名高いごろつきたちは、ビジュの有無を言わせぬ問いかけに、やや気圧されて答えた、「何となく。」
だが、ビジュの黒い目は、秘密を少しだけ開示するかのように、ちかちかと光を放った。「今までにも何度か、ここであなたたちを見かけたわよ。」
こう言うと、掌を広げて三人の方に差し出した。「さあ、どうぞ。」
彼ら三人は顔を見合わせると、豆を受け取った。見ただけで、三人の顔には、空腹の徴が刻印されているのが分かる。破れた衣服、もじゃもじゃにほつれた髪が三人を落ちぶれて見せていたが、それより以上に、彼らの目や顔には、悪巧みを企む者の刻印が押されていた。
彼ら三人を等しく一種の焦燥が捉えていた。何を言いたいのだ、この女は? 彼らがこの排水溝の脇に来る理由を、知っているのか? あの、すぐそこの待避線の横に積んである、枕木を盗むためにやって来たのを? なぜなら、枕木を材木の集積場まで運ぶと、彼らは少し金をもらえるからだ。彼らには金が必要だ、でないと生き延びることはできない。そして、生き延びるための他のどんな道も、彼らは見出すことができなかったのだ。
だが、ビジョリは彼らに何も言わなかった。ただあの笑いだけを、その口の端に浮かべていた。そして言った、「さあ、街の方に行きましょう。」
無理だ。仕事を終えないまま、行くのか? 三人ともウジウジしていた。
ビジョリは再び口を開いた、「行きましょう!」
何としたことだろう! その掛け声に、彼らは逆らうことができなかったのだ。あたかも、遙か彼方の朧気な空間から、ある得体の知れぬ謎の女が手招きとともに呼びかけ、彼らを連れ去ってしまったかのようだった。連れ去った先は、彼らの隠れ家、ゴネシュ・カフェだった。そして、自分が腹を空かせているとの口実のもとに、食べ物を一山、注文したのだ。「車輌検査官の、10年生の女の子を教えているの。今日、謝礼をもらったのよ。さあ、食べましょう。」
その瞬間、彼らは気づいたのだ、排水溝のすぐ側に、車輌検査官の宿舎があることを。だからビジュは、彼らの姿を何度も認めることになったのだ。
彼らは飢えた者のようにがつがつ食べた。家は扶養すべき子供たちで溢れているので、ラドゥ・バナルジに銭はないとは言え、娘のビジョリに、不自由はあるまい。彼女には、山のように顧客がいるのだ。
食べている最中に、彼らの内の誰かが質問したようだった、「カレッジの様子は、どう?」
ビジュは、小さな女の子のように料理を頬張りながら答えた、「やめたわ。」
「どうして?」
「お金がないから。」
信じられなかった、彼らは。金がないのは誰もが知っていた。だが同時にこのことも、誰もが知るところだった —— ブロジェン・パールのようなパトロンがいる以上、ビジョリには何の不自由もあるまい、と。ブロジェン・パールは、豪商ノクル・パールの不肖の息子である。だが、ノクルによれば、それは神の思し召しである。神の手にかかれば、ロバでも尻を叩いて馬に変貌させることができる。それに、パール家でカレッジまで行ったのは、彼が最初である。それ故、学士課程を終えるのに10年かかったところで、何の問題があろう? 不肖の息子でも、背後に金という万能薬さえあれば、うすのろロバもいずれ馬のように、ヒヒーンと雄叫びを上げることができるのだ。
その雄叫びを上げたいがため、当時、ブロジェンは、蹄の先から頭の先にいたるまで飾り立て、まさに白馬もかくやといった趣だった。アメリカ風仕立てのコートとズボン、そのポケットには万能薬の金貨銀貨がじゃらじゃら鳴っていた。そのじゃらじゃらを、彼はとりわけビジョリの背後に響かせた。カレッジからラドゥ・バルッジェの家まで、彼女を追いかけ回すブロジェンの姿が見られた。こうしたブロジェンの噂を聞く限り、ビジョリのサリー・ブラウスを始め、本・万年筆に至るまで、彼の金で買ったのだと思われた。
誰もがそう信じていた。ブロジェンとともにいるビジョリの姿が、その頃、あちこちで見られもしたのである。だから、金がないと聞いて、彼らは、喉に食事がつっかえそうになったのだ。
ビジュの目の、例の謎めいた煌めきが、さらにいくつかの丸窓を開け放った。微笑むと口を開いた、「どうかしたの?」
一人が尋ねた、「ブロジェンと、喧嘩でもしたのか?」
一瞬、ビジョリの目の煌めきを雲が覆ったかのようだった。口の端に浮かんだ微笑が萎んだ。
だが次の瞬間、再び微笑みながら、「どうやって喧嘩になるの? 仲良くしているとあなたたちに見えるなら、それはそのままだわ。ブロジェンがつけ回すのをやめることはないの。あなたたち、たぶん気づかなかったでしょうけど、ブロジェンは影みたいに、私たちの後について来ているの。覗いてごらんなさい、道端に立って、こっちを見張っているから。」
彼らが覗いて見ると、驚くべきことに、ほんとうにブロジェンは外に立っていたのだ。彼の目には、餌を待つ犬の哀願するまなざし。口に紙巻きタバコをくわえ、両の手はズボンのポケットに突っ込んでいる。
彼らが振り返ると、ビジョリの唇には、やつれ憔悴した微笑が刻まれているかのように見えた。そしてその時、彼ら三人の誰の目にも、ビジョリがとてもか弱く感じられたのだ。彼らの人を人とも思わぬ心にもまだ僅かに残っていた人間の鼓動が、あたかも少しだけ、ずきずき疼いたかのようだった。
ビジュは、得も言われぬ笑いを浮かべると、また口を開いた、「女の身で、どうやって、ブロジェンの金を受け取れるとおもう?」
まさにその瞬間、ビジョリを見つめる彼らのまなざしが、完全に別のものとなったのだ。その瞬間、ひとつの女の生にまつわる真実を発見して、ビジョリの新たな姿を前に、自分たちの罪深さを悟ったのだ。
ビジョリは、その時すでに立ち上がっていた。彼らのうちの誰かが言ったようだった、「じゃあ、君を家まで、送っていくよ。」
ビジョリの目に、またあの女王様の笑いが、一瞬よぎった。
「ブロジェンのこと? その必要はないわ。つけ回さずにいられないんだから、そうさせておきましょう。でも —— 」
ビジョリの目の謎めいた影が、急に深みを増した。少し間を置いて言葉を継いだ、「排水溝のあの穢らわしい場所に、あなたたち、もう行かない方がいいわ。鉄道の貨物倉庫のあそこから、警察が、何もしていない人でも捕まえたりするから。」
こう言うと、彼女は立ち去った。
彼ら三人は、あたかも電気ショックを受けたかのように動顚していた。
これが彼ら三人をめぐる、ビジョリの付き合いの始まりである。さっそくその日の内に、ゴネシュ・カフェから街中に、蠅の羽音がぶんぶんと響き渡った —— 悪名高い三人とビジョリが、手を携えたという噂が。類は友を呼ぶ、とは、まさにこのことだ!
だが、その物語もすっかり昔日のものとなった。この三年間、この三人と一緒に、ビジュは毎日歩き回った。いつしか、三人は彼女を、「君」ではなく「おまえ」と呼ぶようになった。いったいいつ、彼ら四人が、一瞬も分かちがたい共連れとなったか、彼ら自身もおそらく覚えていないに違いない。この様子を見て、餌を投げるのが好きな街の女誑したちは、たやすく落とせると思い何度も熱を上げた挙げ句、憤懣のあまり歯噛みするところとなったのだ。いっぽうブロジェンは、つけ回すのをやめるどころか、ますます熱を上げる。こうして彼女は、街中に不快の種を撒き散らしたのだ。今もなお、撒き散らしている。
今なお、撒き散らしている。撒き散らしたまま、ビジュは、金銀細工師ニシのマンゴー園の側にやって来たのだ。何故だ?
陸橋の上から、三つの呪われた亡霊のように、彼らはまた頭を巡らして4番線のあの場所を見つめた。
そして、彼ら三人には、最初の日にビジュを包んでいた謎、まさしくその謎が、今日あの4番線の上に、これを最期と喉を差し伸べたかのように思われた。解明の鍵となるいかなる痕跡も彼女は残さなかった。三つの亡霊たちは、永遠にその謎を追いかけて、ただひたすら彷徨い続けるだろう。
彷徨い続けるだろう、そして問い続けるだろう、何故ビジュは、金銀細工師ニシのマンゴー園の側に、やって来たのか? ビジュが彼らに、排水溝のあの穢らわしい場所に行くことを禁じたので、彼らはもうそこに行くことができなかった。その後もビジュは、彼らに多くの場所に行くことを禁じ、彼らはそこに行くことはなかった。
それなのに、ビジュは、何故、北信号室の真っ暗闇の中、線路の上に来て、死んだのか? どうしてなんだ、ビジュ?
答は得られないだろう。明日の朝となれば、露に濡れた線路には、何の痕跡も残らないだろう。ただ、ついそこにある交叉線の傍の60センチの高さの信号機、その赤い明かりだけが灯るだろう。次第に沈殿していく闇の中、今、あの明かりの赤い輝きは次々と砕かれて細かい粒となり、4番線の線路の上一面に撒かれている。あの輝きの残像は、血の色をした一つの傷口のように、夜通し、くすぶり続けるだろう。
だがその翌日、解決の手懸かりが一つ、得られた。人びとは皆、再び舌なめずりを始めた。午後になって、死体安置所から知らせが届いたのだ。ビジョリは身籠もっていた。
そして彼ら三人、ノレシュ・プロバト・ションコルは、例のゴネシュ・カフェの「女性専用」室に顔と顔をつきあわせて坐った。彼らの目には、激しい憎悪が燃えさかっている。殺意に満ちた根深い疑念に駆られ、彼らは自分たちの間で、お互いを打ちのめそうとする。彼らの全生涯にわたる破滅的な出来事のすべてが、今日、自分たちの間で殺し合う狂気を許容しようとしている。誰だ? 誰が汚れなきビジュに、この汚点を負わせ、殺したのだ?
告白させなければならない、なぜなら、彼ら三人の他に、ビジョリのこの破滅の片棒を担ぎ得る者はいないからだ。この街に巣喰うすべての毒蛇たちを出し抜き、彼女は自ら、この厚顔なならず者三人組を、自分の隠れ家としたのだ。一人の娘にとって可能なすべてと引き換えに、彼女はこの三人に自分を預けたのだ。彼女のすべての破滅、すべての汚名を、彼女はこの三人のもとに抵当に入れたのだ、友情と引き換えに。勇気・愛情・慈悲と引き換えに。彼ら三人を破滅のすべての道から、病毒がはびこるすべての場所から連れ戻すのと引き換えに、ビジュは、彼女の心の内奥の扉をも、すっかり開け放ったのだ。表も裏もなかった。汚い灰を撒き散らした彼ら三人組の中庭に、彼女は安心して、まるで花のように咲き誇ったのだ。その機に乗じて、誰が彼女を殺したのか、はっきりさせなければならない。友情の手に自分を無力にして擲つ契約を、彼女は彼らと結んだ。その契約を、彼らの内の誰かが破ったのだ。告白させなければならない。
その告白を強いるために、彼らは三人で、板壁で仕切られた個室の中に、息を詰め、殺意を露わにして坐っている。互いに相手の目から目を離そうとしない。三人がそれぞれ、狩人であると同時に獲物でもあるかのようだ。
個室の外では、いつも通り、ゴネシュ・カフェお決まりの雑談喧噪が続いている。そちらにばかり目を向けていれば、気づく見込みはない —— その同じ屋根の下の個室の一つで、恐ろしい血まみれの激情が、次第に昂まりつつあることに。
根深い疑念に駆られ、怒りを押し殺したひそひそ声で、ションコルが口を切る、「おれでもない、プロバトでもない、ノレシュでもない、なら、誰だ? 誰なのか、おれは知りたい。おれたち以外に誰がいたんだ、あいつに?」
あたかも咬みつく前の蝮のように肩を怒らせ、ノレシュが唸り声を上げる、「おれもそれを知りたい。そいつが誰だろうと、おれはそいつを両手で押さえつけて、蟻のように押し潰してやりたい。」
人間が真に恐ろしくなる時、そのすべては芝居がかって見える。プロバトは、ポケットから、彼の名うてのボタン式ダガーを取り出すと、その刃を開いてテーブルの上に置いた。研ぎ澄まされたダガーの鋭い刃は、この日、血を求めて、度し難いほどにギラギラ光っている。プロバトがそのダガーをビジョリの前で開く度に、ビジョリの両の目には悲憤の影が広がったのだ。「プロバト、何度あなたに言った? 私、それ、我慢できないの。しまいなさい。」
こう言うと、彼女は手ずからその刃を収めたのだった。この日、刃を収める者はどこにもいない。
彼は歯噛みしながら言う、「そいつを捕らえたら、どんなに親しい友達だろうと、おれはそいつの胸を抉りとってやる。」
だが、これはただの言葉である。で、その後は?
ダガーの鋭い刃は、彼ら三人の顔の前に、殺意を抱いて輝き続けた。彼らはあたかも、殺戮の祝祭前に、呪いを吹き込まれた武器を取り囲む、部族民たちのようだった。
以前は、彼らが怒りや憎悪に駆られ、何らかの理由で兇暴になった時、それを宥めるのがビジョリの役柄だった。彼らが鎮まらないとビジュは怒った。涙を流しすらした。
この日、ビジュはいない。そして今日、彼らは兇暴な姿を隠そうとしない。
プロバトはダガーを取り出した。ノレシュはその黒い巨体の筋肉扱く。ションコルの血走った両の目はものに憑かれたように大きく見開かれている。その目を見ると、ビジュは笑いながら、サリーの裾で彼をはたいたのだ。「そら、そら、人食い鬼の目つきになったわよ!」 ノレシュの筋肉隆々の身体は、ビジョリの小さな手に押さえられ、ついに冷酷に荒れ狂うことはなかった。
彼らは、過去の日々のページを一枚一枚めくりながら、探ろうとする、お互いの、日々の行状を。日々、誰がいつどんな笑いを浮かべたか、ビジュとどれだけより親しくなり得たか。いつ誰がどれだけの間、ビジュと二人きりでいたか。ビジュが誰にいつ、少しよけいに愛情を見せたか。
彼らの胸の中には、以前から、この不信と疑いの根が隠されていたのかもしれない。だがその時はビジュがいた。空に輝く虹のように、猛毒を含む雲が広がるのを許さなかった。胸を覆う獣のような闇が徘徊することはかなわなかった。今日、彼らのその胸は、絶望・不信・疑念に駆られ、殺気立っている。その獣のような闇が三人を呑み込んでいる。だから彼らは、日々のごく瑣末な差異も見逃そうとしない。誰が? いったい、誰が? ビジュが金銀細工師ニシのマンゴー園の側に行く前、その昨日の午後、三人の誰がどんなことを言ったか、そのことすら彼らは思い起こそうとする。ビジュが、会話の中でほんの僅かな暗示すら与えなかったのは、三人の内の誰を守るためだったのか?
やがて、自分たちの発する息にハッとして、彼らは改めて互いの顔を見つめる。続いてテーブルの上のダガーを。いつもビジュが坐っていた場所、そして彼らがビジュを囲んで坐っていた場所を。
疑念と不信の念は去ろうとしない。しまいには自分たちの間で血まみれの事件を引き起こしそうだ。それでも、ビジュとの日々の記憶が、彼らをときに放心させる。
ションコルが不意に呼ぶ、「プロバト!」
プロバトは疑念に駆られ、荒々しく身構えて答える、「何だ?」
ノレシュが鋭い目つきで二人を凝視する。
ションコルが言う、「ベチュ・パトクが、やつの老いぼれ姉貴を殺そうとしただろう? 覚えているか?」
プロバトは眉を寄せて答える、「それが、どうした?」
「ベチュ・パトクは、財産目当てで、おまえを使って殺しをさせようとした。おまえに、現金で二千ルピーやると言った。ベチュ・パトクが、夜、扉を開けておくので、おまえはただ、暗闇の中、婆あの首を絞めて来る。ただそれだけのことだ、と。後になって、たとえベチュ・パトクがおまえに罪を着せる気になったとしても、どこにも証拠が残らないのだ、と。」
プロバトはほとんど叫ぶに言った、「それが、どうかしたか?」
ションコルはまるで囁くように言う、「おまえはそうしなかった。ビジュが止めたから。」
ションコルの囁き声を聞いて、プロバトとノレシュは同時に震え上がった。憎悪と激情にも増して、夜魔に取り憑かれたような惑乱が二人の目を覆った。三者全員の目の前に、ビジュがありありと、その姿を現したのだ。
そうだった。ビジュがプロバトを行かせなかったのだ、ベチュ・パトクの姉を殺しに。人殺しがもたらす恐ろしい地獄の姿は、ずっと前に、彼らの感覚から遠いものとなっていた。ビジュはその感覚を、彼らに取り戻させたのだ。
彼らが職を得るために次から次へと申し込み、羊の群のようにありとある場所に列を作って並び、ジュートの紡績工の募集にさえ馳せ参じ、失望と落胆に沈んだまま引き返さねばならなかった時、残された唯一のまともな、真実の道とは、死ぬことだった。こう新聞の見出しを飾ることもできたのだ —— 「青年の自殺 —— 飢餓の苦しみに耐えかねて」
だが彼らはそうしなかった。恐ろしい闇の地下道の数々が口を開けて待つ、それとは別の人生を選んだのだ。なぜなら、それこそが、この国では廉直な道だとわかったから。
まさにその時だった、彼らの人生にビジュが現れたのは。彼女がその闇の地下道の前に立ちはだかったのだ。
その時、彼らの女王様の顔には、彼らと同じ空腹の烙印が押されていた。その時から彼らは、2パイサの南京豆、4パイサの炒り米、2パイサの紅茶をビジュと分かち合ったのだ。飢餓の中でも、彼らはすべての欲望に打ち克つことができた。
プロバトは、むせぶようなしゃがれ声で言った、「そうだとも、ビジュが止せと言ったんだ。言うことを聞かないと死ぬ、とまで言った。ビジュが死ぬと言うので、おれも、金を欲しがるのがつくづく嫌になったんだ。ビジュは止せと言った。ビジュは、おまえにも止せと言っただろう、ションコル。ダシュ・ガングリは、おまえに五百ルピーやると言った。やつに敵対する党のリーダー、ケダル・ゴトクの名で、女を一人巻き添えに、嘘の演説をしさえすれば。名誉毀損の裁判になれば、ダシュ・ガングリが費用を負担することになっていた。だがおまえは行かなかった、ビジュが止めたんだ。」
まるで酔っ払いのような単調な声でプロバトは続ける、「ビジュはおまえにも止せと言ったな、ノレシュ。医者のタルクダルがおまえに月給三百ルピーの仕事をやろうとした時 —— やつの密売拠点を監視するために。やつの密売仲間たちが裏切らないかどうか、スパイするために。その仕事をおまえはやらなかった。ビジュが止せと言ったんだ。」
ビジュは彼らに止せと言った —— この言葉が、板壁に仕切られた密室の中を反響し続ける。ビジュは彼らに嫌悪することを教えた。だから彼らは、真っ暗闇の地下道の入り口に足を踏み入れながらも、引き返したのだ。だから彼らは、この世のすべての飢えた民衆の群に加わったのだ。生き延びようとした他のすべての人のように、憤懣と怒り、辛苦と涙の中で。
それでもなお、空腹のビジュは、彼ら三人が一刻一刻死に近づいていく姿を見据え、いつも涙を抑えることができなかったのだ。俯き、まるで罪人のように言ったものだ、もしかしたら私のせいで、私のせいであなたたち、死んでいくのだわ。私、間違っているのかもしれない。あなたたち、考えてみて。
だがもはや考える余地はなかった。その日、引き返してビジュのまわりに集ったその日、彼らは、行こうとしていた道を嫌悪することを学んだのだ。たとえビジュがその道に戻るよう言ったとしても、彼らは戻ることができなかっただろう。これからもできまい。なぜなら、嫌悪だけでなく、彼らは一つの愛を得たのだから。一人のビジュを得たのだから。彼女とともに、彼らは、この世の虐げられた人びとが集う市に、その行列に加わることを欲したのだから。
だから、悲しみに我を忘れた女王様の目の涙を、彼らは拭ったのだ。その黒い眸に燃えさかる炎の灼熱を、彼らは欲したのだ。不死の・恐れ知らずの・汚れない笑い声、その高らかな響きにこの世界が隅々まで震え上がるように —— 彼らはそのことをこそ欲したのだ。
だからその笑いを、ビジュは最後の日まで笑ったのだ。躊躇・葛藤・恐怖・逆境に満ち満ちた人生の中で、その笑いこそが、どんな時にも恐怖に打ち克つ、彼らの旗印だったのだ。
その笑いを奪ったのは、誰だ!
他の、いったい誰が、ビジュの人生に隠された秘密のひとつひとつを嗅ぎ当てたのか? 無力な、恥辱にまみれたあの折り目正しいラドゥ・バンルッジェが、家族を道連れに刻一刻と死にゆくのを、彼らは見た。ひたすら彼ら三人が原因で、ラドゥ・バンルッジェは、彼の売れ残りの娘の不始末のために頭を垂れたのだ。その不始末の、何よりも重大な隠された真実とは何だったか、それを知るのは彼ら三人とビジュだけだった。彼ら四人だけが知っていた —— その不始末とは、ただ彼ら四人が手を繋ぎ合って生き延びることだった。即ち、彼らの友情だった。
その友情を逆手にとって、いったい誰が、ビジュを殺したのか?
三対の目の根深い疑念、憎悪の視線を、三人の誰もが、誰からも逸らすことができないでいる。
だが、いかに不信・疑惑の念が深かろうとも、彼らの怒りの火は、もはやダガーの鋭い刃のようにギラギラと燃えさかることはない。彼らの疲弊した胸は、ただひとつの悲嘆の叫びに覆い尽くされたかのようだ。ひたすら思い起こされた、ビジュが彼らに、何処に行くことを許さなかったか、どうやって前に立ちはだかったか。どうやって三人の男の六つの前肢を押さええつけながら、それでも迷うことなく、破滅の道へと自らを解き放ったか。
ゴネシュ・カフェの中、客数は減ってきた。正面の大部屋は次第に静まっていく。道を行く車や馬車の音もまばらになった。
ノレシュは不意に落ち着きを失った。ダガーを手に取り、彼は早口の低声で言った、「おれ、一つ、話したいことがある。」
ションコルとプロバトは、二人とも彼の方を見つめた。
ノレシュは、夢遊病者のような虚ろな眼差しを投げると、口を開いた、「いつだったか、おまえたち二人はいなくて、どこに行ったのだったか —— この部屋には、おれとビジュ、二人きりだった。ビジュは笑いながら、いろんな話をしていた。だがおれは、自分がどうなったか、自分でも分からない。ビジュの身体の方を、まるで、始めて、ちゃんと見たような気がしたんだ。まるで、始めて、ビジュが美人で、若々しくて、その体がどんなに綺麗か、知ったような気がした。おれ、気が狂ったように、両腕でビジュを抱き締めたんだ。ビジュは、一度震え上がって、その後、凍りついたようになった。」
言葉を継ぎながら、ノレシュは、その巨体を扱いかねたかのように喘いだ。だが、どちらも彼に言葉をかけることはなかった。二人とも、凝っと、鋭い眼差しでノレシュの方を見つめていた。
ノレシュは再び口を開いた、「抱き締めて、おれ、何度も何度も呼んだんだ、ビジュ、ビジュ、と。ビジュの顔は見ることができなかった。見る勇気もなかった。だが、少し経ってから、今度はビジュが、両手でおれの頭を抱き締めた。そして言ったんだ、「何を言いたかったの、ノレシュ?」 おれの目は、その時、血走っていたに違いない。ビジュの方に目を向けた。笑っていたが、目は涙で濡れていた。ビジュがおれの頭に手をやった瞬間、おれ、どうなっちまったか! 慌てて、身体から腕を離したんだ。ビジュは言った、「ノレシュ、父さんは決して、私を嫁がせること、できないの。私が自分から結婚するとしたら、誰にしたらいいと思う? あなたが望むように、あなたに? ションコルとプロバトに、私は何と言ったらいいの? あなたは、何と言うの?」 おれはその場から、犬みたいに、尻尾を巻いて逃げ出したかった。両手で顔を隠したまま言ったよ、「許してくれ、ビジュ、許してくれ。」 ビジュはおれの両手をあいつの胸に引き寄せた。おれに近づいて、言った、「あなたも私を許して、ノレシュ! あなたと、私と、プロバト、ションコル、誰一人、私たちはもう離れ離れになれないの。だから私たちは、もう決して、こうしたことはできないの。」
ノレシュは、息を継ぐために一度中断した。そして続けた、「これが、これがおれの、たった一つの罪だ。ビジュに対する、おまえたちに対する。これが —— これが —— 」
言い継ぎながら、ノレシュの声は萎んでいった。
だが、プロバトもションコルも、その時、夜魔に憑かれたもののように、手で顔を覆った。それと同じ罪を、他の場所で同じように、彼らもビジュに対して犯したのだ。
同じようにプロバトは、夜闇の中、ビジュをひとり家まで送りに行く途次、あの木蔭で、両の手で彼女を引き寄せたのだ。ちょうど同じように、ビジュの両唇への渇望に、彼の胸は張り裂けんばかりだったのだ。だが、ビジュの唇は、死体の唇のように感じられた。冷たい・血の通わない・微動だにしない固い唇。次の瞬間、プロバトの胸の中を、ビジュを永遠に失うのではないかという思いが、恐ろしい破滅のように襲いかかった。だが、その同じビジュが、彼女の唇の感触によって、彼を恐れから解き放ったのだ。その唇には、はるか彼方から漂い来る、どこか塩っぽい味わいがあった。その唇を開いて彼女は言った、「そうしたら、他の二人の前で、私、死ななければならないの、プロバト。」
まったく同じように、ある雨の夜、陸橋の下、線路の暗闇の中で、ションコルはビジュの両手をつかんだのだ —— 男が、自分の正体を露わにするつかみ方で。彼の大きく見開かれた両目は、虫を焼き尽くすかのように燃えさかっていた。ビジュはただ、瞬きのない目で、線路のほうを見つめていた。まったく同じように、彼女はションコルを宥めたのだ。彼にも同じことを言った、もし彼女が自由奔放に振る舞うとしたら、同じものを三人全員に与えることになるだろう。それが無理な以上、友情を守るよう努めることが、ビジュの生の変わらぬ指針なのだ、と。
ビジュは友情を守り通した。彼女は、彼らを自滅から守る砦、友情という砦の揺るぎない歩哨だった。だとすると? 彼ら三人がたゆまず落とし続けた影の下を、他の誰かが、潜り抜けることができたのだろうか? 潜り抜けて、どこを目指す? ビジュだろう? そのビジュは、彼らと、生き死にを共にしていたのだ。彼らを呼び戻し、引き留め、愛を注いだのだ。
夜は更けた。パタパタとゴネシュ・カフェの扉が閉まる音が響き、彼らに出て行くよう促している。彼らは立ち上がった。
だが、彼らの誰も、互いから離れることはできない。
外は煤煙と靄で朦朧とし、冷えつのる道は地獄のように人影なく、静まり返っている。
昨日、彼らは何も知らぬまま帰ることができた。今日、彼らは帰ることもできずにいる。ビジュの醜聞に、街全体が罵声を上げて嘲笑する。その同じ罵声を浴びせようとして、ビジュの父親の目の前にも、他のすべての人と同様、この三人の姿が浮かんだかもしれぬ。彼らには永遠の汚名が残るだろう。
北に向かって彼らは進んだ。金銀細工師ニシのマンゴー園の縁が彼らを呼んでいるかのようだ。と、あたふたと彼らを追い越していく者がいる。前に進もうとして彼らの方に目を遣り、その男は、ハッとしたようだった。動顚したのか、一瞬足を止めた。霧の中、男のボサボサ髪がぼんやりと目に映った。大きく見開かれたもの狂おしい両目に、恐怖の一閃が走ったようにも見えた。一瞬のことだ。すぐに、さらに速足で前に進む。
誰だ? 見知った顔のようだが? ブロジェンじゃないか?
そう思った瞬間、彼らの三対の目が互いを見交わし、その胸の中を突然、故知らぬ戦慄が走った。あたかも何事かが、彼らの中で起きたかのようだった、そしてその瞬間、彼ら三人はブロジェンに向かって駈けた。駈け寄り、襲いかかった、三人揃って。一瞬の余裕も与えず、喉元をつかみ、目の前の狭い路地に引きずり込んだ。
どうして三人がブロジェンを取り囲んだのか、自分たちにも分からない。ただ、ブロジェンの顔に、彼らは何かを読み取ったかのようだ。読み取り、戦きが走った。ブロジェンが何か知っているなら、言わせよう。疑いが晴れるように。
ブロジェンは喘いでいる。この寒さの中、彼は薄いシャツを一枚羽織っただけ、それもボタンが外れている。ズボンは靴の上までずり落ち、土埃の中を引きずられ、今にも脱げ落ちてしまいそうだ。それを彼は片手で支えている。身体中埃まみれで、どこかで転げ回ってきたかのようだ。恐怖ではない。彼の目に宿るのは、落ち着きのない・気違いじみた・不自然な眼差し。
調子外れのしゃがれ声で、早口で言う、「何だ、何が知りたいんだ、おまえたち? ビジュ、ビジュのことか?」 ビジュ。ビジュ。その名前を、彼らは他の誰の口からも聞くことを欲しない。歯噛みしながら彼らはブロジェンの方を見つめ続けた。それでも、彼らの目は驚きの色を隠せずにいる。ただひとりプロバトの手に、ダガーがぎらぎら光を放つ。時が来れば彼は襲いかかるだろう。
再び同じ声で、しかしより甲高く、ブロジェンの言葉が響く、「ビジュのことを知りたいのか、おまえたち? ビジュの?」 言葉を継ぎながら、彼の気違いじみた両目に、突然涙が浮かんだ。そして両手を伸ばし、プロバトの手を摑んだ。ほとんど猛り狂う咆吼のように言葉を発する、「それなら、殺っちまえ、このおれを、殺っちまえ。」
彼らは三人とも、驚愕のあまり、恐ろしい何かから逃れるように、身を退いた。
ブロジェンの声は、次第に底無しの沼に沈み始めた。それでもなお、落ち着きなく、「そうだよ。おれだよ。おれのせいだよ。さっさとおれを、殺っちまってくれ。おれ、このおれのせいだよ。おれはやつに、三ヵ月前、七百ルピー、やったんだ。やつがおれの所に来て、欲しいと言ったんだ。それがないと、やつの父親、やつの母親、兄弟のみんなを、家主が、夜の夜中に、家から追い出すところだった。二年分の家賃を、おれはやつにやったんだ、条件付きで。その条件のために、おれはやつの跡を、影のようにつけまわし続けた。影のように。」
彼ら三人は、揃って待ち伏せでもするかのように身構えた、ブロジェンを八つ裂きにするために。ブロジェンの声は不意にさらに甲高くなった。「殺ってくれ、プロバト、ションコル、ノレシュ、おれを殺っちまってくれ。おれのせいだ。ビジュが誰よりも嫌ったのは、このおれだ。やつが、一緒に寝ることで死ぬ苦しみを味わうことになった相手は、このおれだ。やつが、唇に、顔に、唾を吐きかけ、呪いの言葉を投げた相手は、このおれだ。それでもやつは、自分の身体を差し出さなければならなかった。おれだよ、それでもやつを、貪婪に喰いちぎったのは。長いこと溜まり溜まった欲望を、充たすために。このおれだよ、やつの息の根を止めたのは。殺っちまってくれ、このおれを、殺っちまってくれ。」
だが、三人に取り憑いていた殺戮への欲望は、どこかに消し飛んでしまっていた。信じ難い、身の毛もよだつような話に打ちのめされ、三人ともその場に釘付けになった。気が狂った一つの獣が、彼らの前に跪いて、ひたすら死を乞うている。
死を懇願する悲鳴を、彼らは聞いている、だが、いまもなお、あのビジュが彼らの手を押さえているかのようだ、あの、彼らをすべてのゴミと灰の山から連れ戻したビジュが。ブロジェンを殺すという冷酷さの前に、そのビジュが、両手を広げて立ちはだかっているように思われた。彼らの目には、あの、汚い灰が撒き散らされた彼ら三人組の家の敷地に、いまなおあの花が、萎むことなく咲き誇っていた。
不意に、ブロジェンの声が、重くはっきりと響いた。「殺れないんだな、おまえたち。おれは、昨日の夜8時から、この24時間、何とか生き延びようと、必死だったんだ。探し回っていた、やつがもし生きていたら、一生、やつの跡をつけ回すところだった。」
再び彼の目を、あの気違いじみた眼差しが覆い尽くした。ズボンを引きずりながら、泳ぐように立ち去った。目の前の、灌木の茂みの方に。
彼ら三人は、その時もなお、佇ちつくしたままだった。動こうにも、その力がなかったのだ。ブロジェンは、線路に死にに行ったのかも知れない。行くがいい。彼らは止めないだろう。なぜなら、彼らの胸はその時、弾け散るような恐ろしい苦痛に苛まれていたから。三つの胸の中で、ビジュその人が、囁きかけているかのようだった —— どうして、いったいどうして、ビジュは死んだの?