押し車
押し車 解題
今回から、ビブティブション・ボンドパッダエ(1894-1950)の作品を、連載いたします。
ビブティブション・ボンドパッダエは、サタジット・レイ(ベンガル語で「ショットジト・ラエ」、1921-1992)監督の映画、『オプー三部作』(『大地のうた』・『大河のうた』・『大樹のうた』)、および『遠い雷鳴』の、原作者です。タゴール以後のベンガル文学で、最もよく読まれている作家の一人です。同じく1930年代に文壇に登場した、タラションコル・ボンドパッダエ(1898-1971)、マニク・ボンドパッダエ(1908-1956)とともに、三人のボンドパッダエと、並び称されます。
ビブティブションの小説は、ベンガル農村の自然と生活¬が中心的なテーマですが、霊的な世界を扱った作品も少なくありません。また、ビハール州奥地の森林を描いた長編小説『森の世界』(1939)は、近代ベンガル文学を代表する傑作のひとつに数えられます。
彼の生涯や文学の特徴については、林良久訳『大地のうた』(新宿書房)の解説に詳しく書かれていますので、ぜひご参照ください。
「押し車」は、彼の最初の短編集『雨を呼ぶラーガ(メーグ=マッラール)』(1931)に収められています。ビブティブションには、子供の世界を描いたすぐれた作品が数多くありますが、この小品も、そうした作品のひとつです。
なお、この作品も含め、ビブティブションの作品には、ベンガルの農村生活に密着した、さまざまな植物が登場します。あまりに煩雑になるため、今回、いちいち注をつけることはしませんでした。それら植物のひとつひとつについては、西岡直樹さんが、『インド花綴り』および『とっておきインド花綴り』(いずれも木犀社)の中で、美しい絵とともに、親しく描写されています。こちらも、ぜひご参照ください。
押し車
ビブティブション・ボンドパッダエ
寝床から起きたばかり、お日様は、やっと顔を出したか出さないか ―― 裏口の扉の外の、ウドンゲの木の上では、シャリク鳥 [インドハッカ、ムクドリ科の鳥] が何羽かキチキチ声を上げ、羽根をパタパタさせて騒いでいる。ぼくは起きてから、昨夜食べ残したバナナの揚げ菓子が、台所の天井から吊り下がった籠の中の大きな鐘青銅の深皿に、ぼくらのために取ってあるのを、どういう理由をつけて母さんにねだったらいいか、顔を洗う前にねだるのがどれだけ得策か、そんなことをあれこれ考えていた。とその時、家の外扉の側で、一台の押し車のゴロゴロいう音がして、それと同時に、甘い、鈴の音のような呼び声が響いてきた ―― トゥニィィにぃぃ さぁぁん! おおい、トゥニィィ……。
すぐさま、ぼくの歳老いた叔母さんが、手に何かを振りかざしながら、すごい剣幕で駈け出した。
――こんな朝っぱらから、よくもまあ? まだ烏だって眠っていると言うのに、うちの子を呼びつけて、家から連れ出そうってわけ? 朝だろうが、夕方だろうが、昼間だろうがお構いなし、年がら年中、ゴロゴロ、ゴロゴロ音を立てて…… 今度、ホル・ガングリの家に行って、言ってやるわ、昼も夜も、車をゴロゴロ引きずって、ほっつき歩くままにさせて、あんたの息子の来生、ろくなものにならないわ…… さあ、さっさとお帰り。トゥニは、今は行かないわ。まったくいやになるわ、いつもいつも、車のゴロゴロ…… 早くその車、持って行って!……
ぼくが無邪気な顔で、唯々諾諾(いいだくだく)と、叔母さんの背後に佇ちつくした頃には、押し車の音は、ぼくらのガートへの道を通って、遠く、また遠くへと、聞こえなくなっていた。その後、ぼくが手と顔を洗いに庭に出ると、裏口の扉の側から、微かな声が耳に届いた ―― おおい、トゥニ兄さん……
ぼくは、一度背後を振り返って、叔母さんのいる場所とその目の届く方角を測ったあと、さっと裏口の扉を開けて、外に出た。朝まだきの蓮の花のように、無垢で、嬉しさにはちきれそうな幼いノルが、笑みでいっぱいの丸い目を見開いて、そこに立っていた。
――トゥニ兄さん、行かない?
――起きたばっかりだよ。まだ顔も洗っていなけりゃ、何も食べていないのに…… おいでよ!
ノルは目配せして言う ―― どこに?
――叔母さんは何も言わないさ、中においでよ……。
――顔を洗って来てよ、トゥニ兄さん…… ぼく、ビワモドキの樹の下で、車を持って、待っているからさ。乗るよね、トゥニ兄さん?
二人揃って、村の中心へ出かけて行った。タマリンドの樹蔭の遊び場は、子供たちでいっぱいだった。ムクッジェ [ムカルジ(高位バラモンの姓)の口語形] 居住区の子供たちは、一人残らずそこにいた。ノルは笑顔で呼びかける ―― おいでよ、ポトゥ兄さん、ニタイ兄さん…… ぼく、車を持ってきたんだ…… ほらね、ちょうどいい時に来たでしょ? さあ、乗って……。
押し車は、ノルがひとりで、曳き続けた。誰もが乗った。
ポトゥが言った ―― お昼になったら、ぼくらの家に来るかい、ノル?
ノルは首を横に振って断った。
――おいでよ、ノル…… あの日は、叔父さんと鉢合わせになったからな。今度は、そんなことにはならないよ。
――ぼく、もう、兄さんの家には行かないよ。叔父さんったら、あの日、本気でなぐりかかるところだったんだ…… 毎日毎日、車を押してほっつき回るもんじゃない、って言ってた。ぼくが逃げ出さなかったら、きっと、さんざんぶたれていたよ。今度会ったら、車を取り上げられるかもしれない。
二人揃ってその場を離れ、道端の大きなムラサキフトモモの樹蔭にすわって、話をした。毎日毎日、どんなにいろんな話をしたことか。大きくなったら誰が何になるか、それがいつもの話題だった。
チビ助は、まだとても、将来のことを思い巡らすような年頃じゃなかった! 大きくなったら何になるかなんて、順序立てて話せるわけはなかった。突拍子もなく、船頭たちの大将になるんだとか、汽車のエンジンを動かすんだとか、言う。あるいは ―― 蒸気船を動かす連中のことを、何と言ったっけ ―― それにもなりたがった。ぼくは、同じ齢の子供たちと比べると、少しませていたので、こんなふうに言ったものだ ―― ぼくはね、白人式の治療ができるお医者さんになるんだ…… 県庁所在地の裁判官になるんだ……。
日が高くなっても、彼は強い陽射しが照りつける中を歩き回り、赤く火照った顔で家に戻った。父親がいる方を避けて、別の方角から、そおっと家に入る。彼の母親は言ったものだ ―― 何て子なの、朝っぱらから家を出て、もうこんな、真っ昼間だというのに、今頃になってあんたは……。
――しーっ! そんなことないよ、ぼく、ほら、トゥニ兄さんちの、ムラサキフトモモの樹の下にすわったまま、黙って遊んでいたんだよ、ぼくと兄さんで…… どこにも行かなかったよ、母さん! ほんとだよ……。
でも、どういうわけか、このチビ助のことが、ぼくはとても好きだったのだ。村の他の男の子たちと比べて、彼の顔や目に、その言葉に、どんな魅力があったと言うのだろう…… 一日のうち、少なくとも一度は、彼と会わずにはいられなかった。チビ助のほうも、ぼくの家に寄らずには、村の中のどこにだって¬、出かけることはなかったのだ。
日によっては、家の前のムラサキフトモモの樹の下を通って、車を押しながら、昼前に家に帰っていくこともあった。ぼくの顔を見ながらこう言う ―― あのニタイのやつ、すごくずるいんだよ。何度も言ったんだ、乗りなよ、君を押して、牛飼い集落まで行って、戻って来るから…… でもね、どうしても、乗ろうとしないんだよ。母さんに叱られるから、油を買いに行くんだ、って…… ねえ、トゥニ兄さん、乗らない?
――今日は、他には誰も、乗ろうとしなかったんだね、チビ助?
――ぼくらの集落では、誰も乗らなかったんだよ、ずーっと探して歩いてるんだけどね…… ほんとに、みんな、ずるいんだよ。来てくれる、トゥニ兄さん?
チビ助の哀願するようなまなざしから、その頃のぼくは、どうしても逃れることができなかった。ぼくは押し車に乗った。チビ助は喜び勇んで、チョイトロ=ボイシャク月 [3月半ば〜5月半ば、真夏の季節] の真っ昼間の灼けつく太陽を、まったくものともせずに、車を押して走り回ったのだ。太陽のほうも、その仕返しに、彼の幼い顔を真っ赤に染め、その服を汗でびちゃびちゃにせずにはおかなかった。
彼はまだ、年端も行かない、痩せ細った女の子のような体格だったので、体力では、集落のどの男の子にも太刀打ちできなかった…… 誰との間でも、不当な扱いを耐え忍ぶしかなかったのだ。誰もが何の苦もなく、弱者に対する強者の権利を、彼に対して行使したのだった。
その日はとても暑かった。チョイトロ=ボイシャク月の陽射しを浴びて、村の道に積もった土埃は、炎のように燃えていた。ポンチャノン [「五つの顔を持つ者」、シヴァ神の別名] 広場では、村あげての催しの場が設けられ、その上は組んだ竹で覆われていた。誰もが朝から日暮れ時まで立ち働いていた。
大きなピトゥリ樹の下に、チビ助の押し車のゴロゴロが響きわたった。オヌが言う ―― そら、ノルが来るぞ。
背後に刎頸(ふんけい)の友のベニヤ板製押し車を従えて、ノルが現れる。設置された舞台を指さして訊く ―― 芝居はどの日にあるの、トゥニ兄さん?
情報を得て、彼は満足げに笑った。押し車のほうを指して言った ―― 乗る、ポトゥ兄さん?
ポトゥは首を横に振って言う ―― ぼくが乗ったら、誰が曳くんだよ?
チビ助は喜び勇んで答える ―― ぼくに決まってるでしょ?
楽しみを前にして、彼の顔も目も、期待に輝きわたった。
――バカな! おまえがぼくを、曳くだって? 曳けるかどうか、試してやる…… ぼくなんか、無理に決まってるだろう……。
――乗ってよ! ちゃんと、曳いてみせるから!
ポトゥの番が終わると、オヌ、ピル、ホルの順で、そこにいた男の子たちは皆、押し車に乗った。大きな子、小さな子、さまざまで、それを曳くのに、チビ助は息を継ぐ間もなかったが、それでも彼は奮い立って、皆を最後まで、ちゃんと引き回したのだ。全員を乗せ終えると、彼は笑顔で、皆を見渡して言った ―― 今度は、ぼくをちょっと、曳いてみて!
皆が互いの顔を見合わせはじめた。その様子から、誰も曳く気がないのがわかる。彼のことを哀れに思って押し車に乗ってやり、それを曳かせることで恩を売ってやったのに、彼を乗せて、他の誰かに曳か¬せかるだと? そんな権利が、いったいどこにあるんだ? 皆が一致して、そうした気持ちを表していた。
――へえ、皆を乗せてあげたのに、ぼくの番になると、誰も……。
ぼくは、彼を車に乗せて、曳いてやりたかった。でも、同年輩の男の子たちにからかわれるのが怖かったか、あるいは、彼らに歯向かって行動する勇気がなかったと言うべきか ―― とにかく、そうすることができなかった。彼は、車を曳いて、その場を離れた。
男の子たちの間で、前もってどんな示し合わせがしてあったのか、ぼくは知らない。車が少し遠ざかると同時に、一団の中の一人が、焼いて固くなった大煉瓦を手に取ると、押し車めがけて、投げつけたのだ。
押し車の底が、その瞬間、めりめり音を立てて、マッチ箱のように裂けた。チビ助は背後を振り返り見た ―― なにか茫然とした様子だった ―― それから、急いで被害の程度を調べるために押し車に近づき、その状態を見定めると、もう一度驚いた目で、ぼくらの方を見た。続けて彼は、ぼくにまなざしを落とした ―― 彼の目の痛みに満ちた驚き、何が起きたのか理解できないでいるそのまなざしが、ぼくの胸を矢のように貫いた。その目は言っていた ―― トゥニ兄さん、兄さんも、仲間だったの?
でも、彼は誰に対しても何も言わず、こわれた押し車の横にしゃがんで、それを見つめていた。すでにその前に、ぼくを取り巻く一団は、その場を後にしていた。
そのあと、彼は長いことその場にしゃがみ込んで、こわれた押し車を左右に揺らしては、車の裂けた底がどうやったら直せるか、試していた。傍らでは、一本の小振りなアダトダ・ヴァシカの木の枝に、白い花叢がいくつも揺れていた。そのすぐ横のベンガルガキとヒマの茂みの縁に押し車を置いて、しばらくしゃがみ込んだ後、彼は車を押して運び去った。
一晩中、よく眠れなかった。朝、彼の家に駈けつけて、仲直りすることができればよかったのだけれど、そうするのが何となくためらわれた。チビ助は毎朝やって来る習慣だったのに、その日は姿を見せなかった。ぼくに裏切られたと思い込んでいたのだ。
二日、三日と経つうちに、一週間あまりが過ぎた。
そのすぐ後、ぼくは家族皆と一緒に、母方の叔父の家に出かけることになった。末の叔母の結婚式があったのだ。そこから家に戻るまでに、10ヵ月足らずの日々が流れた。
戻っても、チビ助に会うことはなかった。彼は、その前のポウシュ月 [12月半ば〜1月半ば] に、百日咳で死んだのだ。帰宅して10日ほど経ったある日、彼の家を訪ねた。チビ助の母親が中庭にいて、日干しにしたイヌナツメの実を、拾い集めていた。ぼくを目にすると言った ―― トゥニ、戻って来たのね? …… ぼくが口を開く前に、彼の母は、わんわん泣き崩れた。
――それでも、トゥニ、あんただけは来てくれたのね…… この家まで来てくれる子なんて、他に、誰もいやしない…… チビ助は、私を置いてきぼりにして、行っちまったの! ちょっと待って、ザボンの実の大きくなったのが、中にあるから、切ってあげるわ、塩をつけて、食べて? どんどん実が大きくなるのに、食べる人がいないの…… チビ助がどんなに好きだったか…… お食べなさいな、そこにすわって。
秋の午後。澄みわたる青空の下、翳った夕刻の陽射しの中を、何の鳥か、翼を広げて漂っている。軒蛇腹がこわれて屋根下にあいた割れ目のあたりから、野鳩の鳴き声が聞こえる…… 中庭の日陰を通って吹く心地よい風は、干したイヌナツメの実の匂いでいっぱいだ!……。
チビ助の、あの押し車を見た。庭の木の棚の下に置いてあった、曳き紐も一緒に。その車には、長いこと、誰ひとり、触れることすらなかったのだ……
はるか昔のことなのに、目を閉じて思い起こすだけで、ありありと見えてくる ―― いったいいつの日のことか、8歳のあのちっぽけなチビ助が、例の押し車を曳いて、歩き回っているのは。人気ない真っ昼間、野鳩の鳴き声の中、家を出て、パール家のレンブ樹の庭園の蔭を潜り抜け…… ぼくらの家の大きなデイゴの樹下の道を通り、赤く火照った顔で、希望と喜びに満ちた輝く目で、あのベニヤ板の押し車を曳きながら、彼はやって来る…… ココヤシの木の下を抜け…… ポトゥたちの家の、年に二回実をつける、大きなマンゴーの樹の下を通り…… こうして進むうちに、次第しだいに彼の姿は、マイティ家の池の曲り角、檳榔樹の列の蔭に隠れて、見えなくなってしまう。……。