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暗黒

暗黒 解題

 

「暗黒」は、文学誌『日報ボシュモティ [世界]』の、ベンガル暦1352年新年号(西暦19454月出版)に掲載されました。彼の故郷、ビルブム県ラブプルの鉄道駅を舞台に、駅で歌を歌って乞食する盲目の少年ポンキと、ケムタ踊りの女性歌手の間の、交流が描かれています。

ベンガルの鉄道駅や汽車の中は、歌って乞食する人びと、食べ物・飲み物・生活用品を売る行商人たちの、賑やかな活動の場所で、ときに、驚くほどの歌声に出逢うことがあります。この作品の主人公ポンキも、ラブプル駅に実在した、そうした乞食の少年をモデルにしています。

 

ポンキの出自はバグディ。ビルブム県に最も多い、ナマシュードラ(不可触民)の出自集団の一つです。女性歌手の出自は分かりませんが、ケムタ踊りの踊り子・歌手となれば、高カーストの出身ではあり得ず、おそらくは、同じナマシュードラ(不可触民)の出身と思われます。(物語の中で、ポンキが彼女の足を拝する許可を求めた時、彼女には、かつて、そのようにされた体験がなかった、と述べられていることからも、彼女が低い出自の出身であることが窺えます。)にもかかわらず、ポンキは彼女を「タクルン」と呼びます。「タクルン」は「タクル」(神様)の女性形で、もともとはバラモンの女性を指し、一般に高位カーストの女性への尊称として用いられます。しかしこの場合は、ポンキが、社会的に成功した歌手である彼女に対して抱く、距離感と崇敬の念を表しています。

女性歌手に対して信仰にも似た愛情を抱くポンキ、彼岸をもとめる信愛の念に満ちた女性歌手 — この二人の間の交歓とすれ違いが、二人の会話を通して、濃やかに描かれます。そして、「その(きら)めきが目に刺さる」と「黒いお方、あなたを待って」の二つの歌が、この二人の心情を、象徴的に表しています。(後者は、「黒いお方」(クリシュナ神)の訪れを待つ、人妻の愛人ラーダーの立場に立った、信愛歌です。

 

「ケムタ踊り」は、ジュムルと呼ばれる歌謡に合わせて踊られる、民間舞踏の形式で、ビルブム県を含む西ベンガルの辺境地帯で、広く行われてきました。女性の踊り子兼歌手を中心に、伴奏者数名(ハルモニウム、ドゥギ・タブラ、コンジョニ、竹笛、バイオリン等)を伴った職業グループを形成し、地域の祭祀や縁日に出向いて、あるいは裕福なパトロンに招かれて、上演します。歌謡の内容は、この作品にあるように、ラーダー=クリシュナ神話に基づく恋愛を歌ったものが多いです。

この小説に登場するグループは、ボルドマン市を拠点にした著名なグループらしく、ラブプル周辺の祭祀か縁日に招かれて、演奏した帰りなのでしょう。(ボルドマン市は、ビルブム県の南に接する、ボルドマン県の県庁所在地で、西ベンガル州の経済文化の中心地の一つです。

 

楽器について:

ハルモニウムは、インドで歌謡の伴奏に用いられる箱形のオルガンで、左手でリードに空気を送りながら、右手で鍵盤に指を走らせて演奏します。

ドゥギ・タブラは、タブラ・バンヤとも呼ばれる、一対の太鼓。伴奏用の楽器として、古典音楽から民謡まで、幅広く使われます。右手で高音域のタブラを、左手で低音域のドゥギ(バンヤ)を鳴らし、それらを組み合わせて複雑なリズムを刻みます。

コンジョニは、木の細長い枠に、小さなシンバルを二組嵌め込んだもので、片手で振りながら、歌のリズムに合わせてシャンシャン音を立てます。

また、盲目の乞食ポンキが歌の伴奏に使う手太鼓(ドゥブキ)は、円形の平らな太鼓。携帯用の簡便なもので、歌い手が腰につけたまま左手で叩き、リズムを刻みます。 



暗黒

タラションコル・ボンドパッダエ

 

支線の小さな駅である。

赤い石屑を敷き詰めた、地面と同じ高さのプラットホーム、それも、一つしかない。プラットホームに接して、駅名を示した小さな煉瓦造りの建物の中に、駅事務室があり、それに接して、トタン屋根で覆われた駅舎がある。屋根の下には煉瓦で囲った輸送用小荷物の保管所があり、その横のちっぽけな部屋の扉には、こう書かれている ―― 「女性専用」。

駅事務室の後ろ側が、紅茶と軽食の売店になっている。インド鉄道の認可を得た売主の店である。駅舎のトタン屋根は、その建物の壁から斜めに下りている。駅舎のすぐ向こうは、貨物置き場へと導く引き込み線。そこからは、まっすぐ北に向かって、赤土の村道が伸びている。ユニオン評議会[英領時代に導入された地元評議員による限定的な自治組織]のおかげで、その両側に溝が掘られた。定規で線を引いたようなまっすぐの溝ではなく、蛇の這った跡のように、くねくねしているのではあるが。それでも、田舎紳士のように、それなりの体裁を整えてはいる。村人はステーション・ロードと呼ぶ。評議会のノートにも、そう書かれている。

駅の区画、ないし領域は狭い。切符売り場、認可済みの紅茶の売店、貨物置き場、二本の側線。それっきりだ ―― 駅の境界はそこで終わる。境界のすぐ外、道の両側に、何軒かの家がある。パーン・ビリ・紙巻きタバコに、紅茶・軽食を売る店。二軒の石炭取り扱い事務所。駅の売店の店主の家。これらの横に、ある成金旦那が建てた、煉瓦作りの家。あとは空き地である。巨大なバンヤン樹の蔭の、きれいに掃き浄められた空間。遠くの村々から、馬車や牛車でやって来た人びとは、ここに集い、噂話に花を咲かせる。ここからしばらく行くと、村の居住区域が始まる。

午前中に、上りと下りの汽車が、一本ずつこの駅で交叉する。人びとは「落ち合う(ミート)」と言う。その二本はすでに去った。駅舎の中には僅かな数の人がいる。そのほとんどが、地元の住人である。待合客の中に、ケムタ踊りの一団が見える。二人の若い女、一人の老婢。三人の男のうち、一人はハルモニウム伴奏者、一人はバイオリン弾き、一人はドゥギ・タブラ叩き。彼らの汽車は、昼の2時である。女二人のうち、一人は色黒で背が高い。彼女は床にすわって髪を結っている。もう一人は美人で、ベンチに横になって眠っている。ハルモニウム弾きは相当に気障な若造で、紙巻きタバコを口にくわえ、プラットホームの端から端を往き来している。

一人の盲目の少年が、地べたにすわり、我にもあらず、うつらうつらしている。醜い容貌である。両目は白く、前の歯茎はおそろしくせり上がり、四本の歯が剝き出しになっている。手足は発育不全で萎えている。身にまとうのは、太糸で編んだ、丈の短い、汚れた一枚の布きれ。頭髪の後方は、まったくぶざまに短く刈り込んである。手太鼓(ドゥブキ)を一つ手に持ち、思いに任せて身体を揺すりながら、ときに笑みを浮かべ、ときに唇を動かす。ひとり、自分に向かって、何か呟いているのがわかる。ときに動きが激しくなる ―― 何かを聞こうと、努めているのだ。ときにはまた強く息を吸い込み、何かを嗅ぎ分けようとする。人夫が数人、駅の売店の側にすわって雑談をしている。ときおり店の七輪に木片をかざし、それでビリに火をつける。火が消えると、また木片から火を移す。

 

プラットホームの端に佇み、ハルモニウム弾きの若造が、指笛を吹いている。まだ5時間あまり、ここで過ごさなければならない。まったく特色のない場所である。何一つ見るべきものがない。二人の若い女を引き連れているのを見て、嫉妬を起こすような良家の子弟も、この界隈には見当たらない。チョイトロ月[3月半ば〜4月半ば] の終わり、目の前に広がる裸の田圃は、空から地面まで垂れ下がる、薄い煙の膜で覆われているように見える。ときおり、その煙の膜も、震えるかのようだ。

駅舎にはカッコウがいる。駅舎の中から、カッコウの鳴き声が響く …….

ハッとする、ハルモニウム弾き ―― パピア[カンムリカッコウ]もいるのか? ……. パピアの鳴き声、「目が無くなった(チョークギャロ)」が、次第に高まる。

何てこった! ここは動物園か? 羊が鳴いている! おや? 昼日中にジャッカルだと!

好奇心を抑えきれず、彼は駅の方を振り返り見た。 ―― ああ、ハリ神よ! あの盲の小僧か! 小僧はいつしか、手太鼓(ドゥブキ)を鳴らし、歌い始める。

その歌声の、何と甘いこと! おやおや! 声がいいだけじゃない、玄人も顔負けの歌いっぷりだ。その歌は、まこと、名人芸と呼ぶにふさわしい。


        その煌(きら)めきが、目に刺さる ――

ミラーを嵌めた あなたの腕輪。

なんて、素敵な! ―― この目はもう

とてもとても、耐えきれない、

キラキラ、ギラギラ、煌めき踊る、

手がくるくる 回るにつれて!

 

いつの間にか、周囲はすっかり活気づいていた。小僧はしゃがんだまま、手太鼓(ドゥブキ)の音に合わせて歌い続ける。出っ歯の顔には、満面の笑み、身体はリズムに乗って揺れている。人夫の一団は、彼の方を向いてすわりなおした。ハルモニウム弾きの共連れの一人、色黒女の、髷を結っていた両手の動きが止まった。もう一人の女の眠りは破れた。覚めたばかりの見開かれた両目には、笑みを含む、興に満ちた輝き。老婆は、刻みタバコを巻いたパーンを満足げに噛み砕いていたが、その口の動きも止んだ。

 

しゃんしゃん、しゃんしゃん、 腕環が、またまた

響きを撒き散らす

私の胸の バイオリンは

あなたの弓で 音色を奏でる

 

歌のリズムが速くなるにつれ、小僧の身体の揺れも激しくなる。いまにも後ろにひっくり返りそうだ! 向こうのベンチの上では、目覚めたばかりの女が、居住まいを正した。髪を結っていた色黒女は、クスリと笑って呟く、何てこと!

小僧は、もうすっかり、もの狂おしいリズムに乗って、

 

ああ ―― ああ、私がもし 腕輪だったなら

黄金でなく、(まばゆ)いミラー、

あなたの腕に巻きついて 輝いていたことでしょう、

栄えある生を 送るため。

ああ、ああ、 死んでも悔いは なかったことでしょう。

 

最後の行を三度繰り返して、歌を締めた。

聴衆の一団は、興奮に駆られ、やんやの喝采を浴びせた。賞讃に気を良くした、盲目の出っ歯の顔は、満面、笑みに溢れた。聴衆の一人が、火のついたビリを、そろそろと彼の手に持たせて言った、それ、こいつを吸いな!

―― ビリですかい?

―― そうだ。吸いな。

笑みを浮かべて彼は答える、紙巻きタバコを、吸ってる人がいなさる。一本、もらえませんかな!

売店の主人が遮って言う、おい、この生意気小僧! 「俺の名前は 生意気小僧、 何でも口に 入れちゃうぜ!」 タバコを吸うだと! 一本の値段がいくらか、知っているのか?

―― おれの歌には、その値打ちがない、ってわけですかい?

―― それ、それ。こいつを吸いな。

横合いから、ハルモニウム弾きが、タバコを一本取り出して、彼に渡した。

タバコを受け取ると、彼は恭しく言った、帰敬いたしやす、旦那様! 馬を下すったんで、鞭をもらえませんかな。マッチの火を、いただきてえんで!

ハルモニウム弾きは、マッチを点してやった。少年の白く濁った目に、炎の影が映ることはない。その熱を感じ取るだけだ。

盲目の少年は、全身でタバコの煙を吸い込む。吸い込む時の勢いで、頭も肩もぶるぶる震える。これ以上息がつげなくなると、ひとかたまりの煙を、口から一気に吐き出し、むせた喉で感極まった声を上げる、ああ!

彼の仕草を見て、皆が笑う。ハルモニウムの「旦那」が言う、おまえ、なかなか歌がうまいじゃないか! 驚いたぜ!

―― へえ、そうなんで! 旦那、みんなが、褒めてくれるんで。つまり ……

少しく口を閉ざし、また微かな笑みを浮かべて言う、

―― すごくうまく歌えば、つまり、身も心も、捧げて、(うて)えば、人を、とりこにできるんで。いいですかい!

この言葉に、若い女二人が、高らかな笑い声を上げた。笑い声を耳にして、盲の少年はぎくりとした。タバコは手から辷り落ちた。地べたに指先を這わせてタバコを捜しながら、

―― 笑った? 誰ですかい? どなた方、ですかい?

続けて小声で呼んだ、モリンド!

「モリンド」[「モニンドロ」の訛り]と呼ばれたのは、人夫の一団の一人である。彼は答える、何だ?

―― よく聞けよ。―― 手の感触に頼って、タバコの吸い口の方を、うまく抓みあげた。

―― 何だよ?

―― こっちだ。内緒の話だ。

―― 何なんだ? さっさと言えや。

―― 女たちが笑っているが。良家のご婦人方、だろうが?

―― そうだ。ボッドマンからおいでだ。

―― ふむ。思った通りだ。

―― どうやってわかる? モリンドは、鼻先でせせら笑った。

―― 声からに、きまってるだろ?

―― だが、良家の方々だと、どうやってわかった?

笑みを浮かべて、盲目の少年は答える、 腕環の音に、甘い匂い ……. だいぶ(めえ)から、この二つ ……. おかしいと、思ってたんだ。生まれが卑しいと、身体から、汗の匂いがする。ガラスの腕環じゃ、あんな綺麗な音はしねえ。黄金の腕輪だ。そうだろ?

―― ああ。

黙ってタバコを吸いながら、少年は何度も強く息を吸って、その甘い匂いを吸い込もうとした。突然、彼は口を開く、

―― ところで ……. 笑っていなさるご婦人(タクルン)方、あなた方に、申しあげる ……

色黒女は、おしゃべりの跳ねっ返りだ。髷に留め金を差し込んでいたが、肩を少し巡らせて少年の方を振り向くと言った、あたしたちのこと?

―― そうです。どうして笑いなさった?

色黒女は、にやりと笑って言い返す、あたしたちじゃないわ、他の人たちよ。

―― 他の人たち? 少年は首を横に振り、微かな笑みを浮かべて言った、いんや。

―― どうして「いんや」なの? 笑ったのは他の人よ。

少年は、笑まいをさらに広げて言う、角笛では、竹笛の音は出ませんぜ、ご婦人(タクルン)。空き缶を叩いても、タブラの音は出ませんぜ。

―― あら、まあ!

女は、驚きのあまり、好奇の目を見開いて、連れの女とまなざしを交わした。

美しいほうの女の顔も、笑みに綻んだ。だがその微笑む様は、色黒女のそれとは違った類いのもののように思われた。今度は彼女が口を開いた、あたしたちが笑ったので、あなた、腹を立てたってわけ?

―― 腹を立てる? 少年は笑って言う、めっそうもねえ! ご婦人(タクルン)方に腹を立てるなんて、そんなこと、できるもんですかい! ただ、どうして笑いなさったか、知りたかったんで。あの …… 失礼なこと、言いましたかい?

―― この恥知らず! 売店の主人が口を挟む、この豚野郎、おまえの「とりこにできる」がおかしくて、笑いなさったんだよ!

―― どうしてだ、おれには、とりこにできない、ってか?

―― もうたくさんだ、黙れ!

―― どうしてだよ?

―― 誰に向かって何を言ったか、わかってるのか?

この言葉に、盲目の少年は怯んだ。

―― このお方たちはな、コルカタの歌い手さんだ。おまえ、蓄音機の歌なんか、聞いたこともねえだろう、この恥知らず! そんなお方たちだ、名うての歌姫だ! ポンキの糞ガキ殿が、このお方たちを、とりこにできる、だと?

まるで罪を犯したかのように、彼は口調を改め、そういうことなら、無礼なことをしちまった。

―― そうとも、無礼千万だ。

色黒女は、髪結いを終えて長手拭いを肩にかけると、スーツケースを開き、石鹸を取り出して言った、すぐそこの池で、水浴びして来るわ。

盲目の少年は、手にしていた紙巻きタバコを放り投げた。そして顔を上に向け、奇怪な様に口をポカンと開け、音もなく笑いはじめた …… 鼻尖が、何度も脹れあがる。その表情は、まったくぶざまで、醜い。

売店の主人は言う、おいおい、見ろや、恥知らずの顔を! 恥知らずのポンケを!

盲目の少年の名は、「小鳥(ポンキ)」と言う。ポンケと呼ばれた彼は、音のない笑みを満面に浮かべ、すごーくいい匂いが流れてくるぜ、シンおじさん! 身も心も、とりこになっちまう。

美人のほうの女が言う、あなたのその、とりこにする歌を歌ってくれたら、あの石鹸、あげるわよ。

頭を掻きながらポンキは答える、くれるんですかい? 歌ったら?

―― ええ。

―― でも …… しばらく黙ってから、また口を開く ―― まったく無礼なことをしちまったんで。あなた方の前で、歌うだなんて、このおれが?

―― どうして? あなた、とても上手に歌えるのに。あなたの歌声、とっても綺麗よ!

―― 気に入ってくれたんですかい? いつもの音無しの笑みが、ポンキの顔いっぱいに広がる。

色黒女はハルモニウム弾きに言う、あたしと一緒に来てちょうだい。ガートでしばらく見張っていて。

ポンキは言う、ご婦人(タクルン)、ひとつ、言っても、いいですかい?

好意に溢れた笑みを浮かべて、美女は答える、言ってごらん。

―― 怒らないで、くれますかい?

―― とんでもない、怒るだなんて! 言ってごらんなさい。

ポンキはだが、無言のままだ。と、突然口を開く、ネタイ[「ニタイ」の訛り]! モリンド! 行っちまったのか? おい、ネタイ?

―― どうした、ネタイに何の用だ? 店の扉を閉めながら主人は言う、もうみんな、軽食の時間だろうが? 家に戻ったんだろうよ。

ポンキは微笑んで言う、おじさんも、それで、店に錠をかけてるんだな。

―― ああ、そうだとも。何か食いたいなら、来な …… もう、家に戻るぜ。

―― いいや。腹が減ってねえんだ、今日は。

 

10時半を回っていた。チョイトロ月のこの時間、すでに四方は塵に霞み、熱気を帯びている。駅のトタン屋根は、灼熱に晒されて、ときおりコタン、コタンと音を立てる。鉄路の合わせ目からも、音が立つ。

美女は、盲目のポンキに、凝っと目を注いでいる。ポンキは、無言のまますわっている。ときおり、顔を上げる。だが次の瞬間には、肩を落とす。

―― どうしたの、何も言わないで?

―― 何ですって?

―― 言いたいことがあるって、言ったでしょ?

―― いますぐ、言いますんで …… ! ポンキは、恥じ入った罪人のように笑い、肩を落とす。

―― 言ってごらんなさいよ。 ―― 女は待ち設けている。そうしながらも、彼女は放心したように、塵に霞んだ地平線の方を、凝っと見つめている。ポンキのほうは、ときおり、肩を上げたかと思うと、またすぐに下げてしまう。不意に彼は口を開く、言いたかったのは …… ?

ちょうどこの時、頭上のトタン屋根で、激しく音が鳴り響いた。女はハッとした。

―― 何なの、この音?

―― へえ、あの ……  物知り顔の笑みを浮かべて、ポンキは言う ―― 陽の熱で、トタンに、音がするんで。

―― そうなの? 太陽の熱で、トタンが音を立てるの?

―― へえ。日が暮れるまで、この音が続くんで。そら、そら …… こいつはでも、熱の音じゃねえ! 烏が屋根にすわったんだ。

女は、外に出てプラットホームに立った。好奇心が湧いたのだ。ほんとうに、烏が屋根に止まっている。彼女は驚いて、中に戻ると、立ちつくした ―― ポンキの側に。ポンキは、そわそわし始めた。何度か鼻腔が広がる。と、恭しく、囁くように、 ―― 言いたかったのは ……

女は、二本の指を、彼の目の前で動かしていた。

―― 言っても、いいんですかい、ほんとうに?

女は、ポンキの目が瞬かないのを見て、指を遠ざけた。そして口を開いた。

―― 言ってごらん。何度もそう言ってるでしょ?

―― あなたがもし、歌をひとつ、歌ってくれたら ……  言いかけたまま、無言の笑みに口もとを大きく広げ、彼は頭を掻き続けた。

女は笑った。 ―― 歌を聞きたいの?

地べたに手を滑らせ感触を確かめながら、女の足の指先を探り当てると、それに触れたまま口を開く、

―― あなた方のお御足を、どこに見つけたら、いいんです? どうやったら、歌が聞けるんです? でも ……  しばらく黙り込んだ後、見えない目を上方に向け ―― それでももし、願いが叶うなら …… おれだって、人間だから …… それに、歌を聞くのが好きだから、おれは。

女は、何と思ったことだろう。哀れみ? それとも、単なる気紛れ? ―― わかったわ、と答る。だが、すぐまた気遣わしげな顔になり、

―― ハルモニウムだけど、その上にたくさん荷物が積んであって ……

―― ハルモニ?

―― そうよ?

―― ハルモニ、なしにしましょうや。そのまま、歌ってください。そのまま、そおっと …… 陽はすごくきついけど …… 何もなしで、そおっと歌えば、すごーく、気持ちいいですよ。

女には、この考えが、とても気に入った ―― この子の言う通りだわ。

抑えた声で歌い始める ――

 

黒いお方、あなたを待って カダムバの木蔭で 目を凝らします。

ときに道の辺、ときに川岸、 ひとときも 逸らしはしない

見つめすぎて 溶けてしまう、

墨を刷いた 私の両の目。

 

ポンキは、全身、麻痺したかのようになった。脳内の毛細血管に至るまで、歌が、ヴィーナの多弦が響き合うような調べを奏で、彼の意識の隅々を覆いつくした。

歌が終わった。盲の少年に歌を聞かせたことで、女はすっかり満ち足りていた。微かな笑みを浮かべて、彼女は訊ねた、どうだった? 気に入ってくれた?

―― 何ですって? ポンキは我に返った。麻痺して無反応だった身体に、一瞬にして意識の流れが走った。

―― 気に入ってくれたの?

―― 生きていた甲斐(けえ)が、ありました、ご婦人(タクルン)

女はこれを聞いて、思わず吹き出した。

―― 笑いなすった? でも ……  少し黙ったあと、ポンキは言葉を継ぐ ―― でも、こんな歌を、生きている間に、どこで聞けると言うんです!

ポンキの言葉の中には、痛みの調べが鳴っていた。その調べに触れて、女はもはや笑うことができなかった。口を鎖した。言葉が、見つからなかったのだ。

―― あなたの足を、拝ませて、ください。

―― 足を拝む? どうしてなの?

―― どうしても、そうしたいんで。

女は心をそそられた。恍惚としたまなざし、手放しの賞讃、愛の囁き、そんなものは、これまで、山ほど得てきた。今も得ている。だが、足を拝む? 記憶になかった。無論、自分たちの仲間うちで、年少者が目上の者の足を拝む習慣は、ある。だが、この少年の接足作礼は、それより遙かに、価値が高いように思われた。彼女は拒まなかった。黙ったまま佇んでいた。

ポンキは、彼女の足の甲全体を、手で撫でた。そうしてから、女の両足の上に、自分の顔を置いた。

女は、幸せな気分に浸った。

足に熱い息を感じた。ポンキの異形の目から、涙がこぼれ落ち、足を濡らしている。それでも彼女は、足を引っ込めようとしなかった。塵に霞んだ、地平線のほうに、とりとめのないまなざしを注いだまま、黙って佇んでいた。と、不意に尋ねた、

―― あなた、家には、誰と誰がいるの? お母さん …… お母さんはいて? お父さんはいて? …… 聞こえているの? …… もう、起きなさい! 拝むのは、もうたくさんよ! さあ! 起きて!

―― おや、この小僧! おい! 何て真似を、してやがる? おい!

ハルモニウム弾きと色黒女が、水浴を終えて戻って来た。ハルモニウム弾きが、ポンキをどやしつけたのだ。

色黒女は言う、いやだわ!

美女のほうは、小声で繰り返す、さあ! 早く起きなさい!

ポンキは、ようやく身を起こした。彼のほうを見て、色黒女とハルモニウム弾きは、どっと吹き出した。涙に濡れて、女の足のアルタ[漆をベースにした赤い汁の化粧、女性が足のまわりに塗る] が、盲目のポンキの、顔中についていた。頬、鼻、額、両唇、一面真っ赤である。

女は言った、顔を拭きなさい。あなた、顔中に、赤い色がついているわ。

―― 赤い色?

―― そうよ、アルタがついてしまったの。

―― アルタ?

―― ええ、唇、額、頬、鼻 …… 拭いて、取ってしまいなさい。

―― いいんです、そのままで。

色黒女が共連れに言う、ちょっと、あんた、こいつを相手に、もったいつけるの、いい加減になさいよ。あっちで、ご飯を用意しているわよ。水浴びするなら、今すぐ行きなさいな。綺麗な水よ、池は。

―― 遠いの?

ポンキは立ち上がる。

―― そこ、すぐそこですよ。おれが、連れて行ってあげます、ご婦人(タクルン)。さあ。

―― あなたが?

―― へえ、へえ、盲は、どんな道でも、覚えてるんでね。間違えっこ、ねえんだ。さあ、来なせえ!

色黒女は笑みを浮かべて言う、安心して、水を浴びて来るがいいわ。この子が、ガートで、見張っていてくれるわよ。

 

その言葉通り、ポンキは、違えることなく道を進む。ときおり、足で地面を撫で、行く先を確かめる。ステーション・ロードに沿い、まずバンヤン樹の木蔭に着くと、

―― ほれ、バンヤンの木だ。左側を通って!

少し先まで行くと、池が見えてくる。黒い眉墨のような水である。

女は口を開く、あなた、名前は何と言うの?

―― 名前? おれの名前は、ポンケ。つまり、小鳥(ポンキ)

―― 小鳥?

―― へえ、そうです。子供の頃、小鳥みてえに、ぴいぴい、泣いていたんでね! 盲なんで、母さんがおれを、放ってらかしにしてたんだ。地面に落ちる度に、ぴいぴい泣いた。

―― あなた、母さん、父さんが、いるの?

―― へえ。ときどき、おれ、家に行くんだ。父さんはいい人だよ。父さんの名前は …… この辺では ……

不意に、自分から言葉を遮る …… 上方に顔を向けて、口を開く ……  ―― おお、おお! 鴨の大群が、飛んで来た!

褐色の野鴨の大きな一群が、ほんとうに、頭上で輪を描いていた。その羽搏く音が、空を覆った。

女も、空のほうに、目を遣った。

ポンキは口を開く。自分で遮った言葉を終わらせるために …….

―― 父さんの名前は、この辺では、みんな知ってる。クリッティバシュ・バグディと言えば ……

 

父親の名は、クリッティバシュ。盲目の、未熟児の、萎えた身体を持った息子の泣き声を聞いて、彼を「小鳥(ポンキ)」と名付けたのだ。人並みの、響きのいい、誇り高い名前を、つけてやる必要すら、感じることはなかったのだ。

 

ポンキは言葉を継ぐ。 …… 彼はガートの縁にすわっていた、そして女は、冷たい水に、首まで身体を沈め、彼の言葉を聞いていた。

―― おれには、一人、姉さんがいるんだ。姉さんは、おれを可愛がってくれた、膝に載せてくれた。それで …… そう、あなたくらいの歳だと思うよ。

―― あたしくらいの歳? 微笑んで、 ―― あたしの歳が、あなた、どうやってわかるの?

羞じらいの笑みを浮かべ、頭を掻きながらポンキは言う ―― あのな、あなたは、おれよりちょっとだけ、歳上だろ。ほんのちょっと。

しばらく黙って、また口を開く ―― 声音を聞けば、わかるんだ、だいたい。あなたの声は、まだ、竹笛の音色みてえだ。低音が混ざっていない。それに ……

ポンキは言いよどんだ。言うことができなかった。彼女の足の上に、顔を載せた時の、その柔らかい、すべすべした感触が、まだ焼き付いていたのだ。

話題を換える ―― ここからおれの家までは、四里くらい、離れている。一年くらい前、母さんが、ある日おれを、こっぴどく殴った。それで、姉さんが言ったんだ、ポンケ、あんた、歌が上手でしょ。だから、どこかいい、市みたいな、人が集まる場所に行ったらどうなの? 歌を歌って、物乞いするのよ。 その考えが気に入ったんだ、おれ。姉さんが、ある日、自分からおれの手を取って、ここに連れて来てくれた。それから、ずーっと ……

音もなく笑うと、彼はそのまま黙り込んだ。

しばらくして、不意に口を開く、

―― あなたの歌の、あそこのとこが、すごく素敵だ。ほら、あの、―― 黒いお方、あなたの笛の 音が鳴り響く時 ……

続けて彼は、旋律をつけて歌い始めた ――

 

家事も何も、すべてを忘れて 私はここに 駈けて来ます。

身体を磨く 暇もなく 髪を結う 暇もなく

あれもこれも できなかった ことだらけ!

 

女は身体に石鹸を塗っていたが ……. 驚きのあまり、手からその石鹸が、すべり落ちた。ポンキは、彼女とまったく同じ調べに乗せて、完璧に歌っていた。

―― 水を浴びるのに、何時間かかるんだ、まったく? もう、汽車が来るぜ!

定刻になったのを見て、ハルモニウム弾きが声を張り上げた。ガートからその姿が見える。慌てて呼びに来たのだ。

駅では、まさにその時、切符切りを告げる鉦が、鳴り響いた。

 

汽車は去った。ケムタ踊りの一行も去った。売店の主人、シン旦那は、乗客への紅茶、清涼飲料、軽食の販売を終えて、呼んだ、ポンケ! ポンケ!

ポンケの返事がない! どこに行った?

シン旦那は、彼のことを心から愛している。旦那の奧さんも同じだ。ポンキがどこにも食べ物にありつけない日があれば、彼はポンキを呼んで、食事を与える。2時の汽車が去るとすぐ、彼は一度、ポンキの消息を確かめる。ポンキの返事がない。たぶん、村のゴーヴィンダ神  [クリシュナ神の別名] の寺へ、神饌にありつきに行ったか、チャンディー母神の前庭だろう。チャンディー母神の前庭では、月に5度の祭礼の度に、山羊を生贄に供するのだ ―― いつが新月で、いつが十四夜、いつが八夜、いつが晦日か、全部ポンキの頭に入っていて、その日、彼は必ず、チャンディー母神の前庭に行くのだ。この二つの寺のうちの、どちらかに行ったに決まっている。シン旦那は、自分の店の準備に心を向けた。2時の汽車のあと、4時にまた、汽車が一本、来るのだ。

4時の汽車が来て、去った。シン旦那は、今度はさすがに心配になった ―― ポンケがまだ戻らないのは、どうしてだ? いったい、どこへ行った? ケムタ踊りの連中と一緒に、汽車に乗って行ったのか?

その通りだった。ポンキはひそかに汽車に乗り込んだのだ。客車のベンチの下に横になって、身を隠していた。乗換駅で降りたが、人混みに紛れて、一行を見失った。

支線の警備員や運転手は、みなポンキを知っている。彼らは言う、おまえ、こんな所に?

満面の笑みを浮かべて、彼は言う、ああ。来ちまったんだ。ちょっとぶらぶらしようと思ってさ。 しばらく黙ったあと、さらに笑みを広げ、 ―― 新しい場所を、見たり聞いたり、したくなるんだ!

警備のドット旦那は笑って言う、わかった。もうじゅうぶん見ただろう、そろそろ帰りな。

ポンキはだが、どういうわけか、帰るのを恥ずかしく感じたのだ。彼は答えた、いんや。おれ、ここにしばらく、いることにする。

―― ここにいるだと?

―― へえ。ここの市がどんなか、一度、見てみてえんで。 返事を聞くと、警備のドット旦那は、笑ってその場を去った。

その数瞬後、ポンキは、ひとつ思いついたことがあって、ドット旦那を呼び戻そうとした、警備の旦那! 警備の旦那! 彼はドットに伝えてほしかったのだ、ここの駅長、清掃係、売店の店主に、彼のことを一言、告げてくれるようにと。

返事は得られなかった。彼はもうすでに、駅舎の中に入っていた。

しばらく黙ったあと、ポンキは歩き始めた。売店のちょうど真ん前に来た。

―― 何を揚げてるんですかい、旦那? シンガラ[カレー味の野菜を包んで揚げた、菱の実の形の菓子] ですかい、コチュリ[カレー味の豆などを包んで揚げた丸パン]ですかい?

店主は、彼のほうを見遣ると、言った、どけ、そこを!

ポンキは、横にすわって、しばらくおとなしくしている。その後、手太鼓(ドゥブキ)を指で叩きながら、歌い始める ―― ああ、黒いお方!

警備の旦那に頼む必要はなかった。自分で自分の存在を知らしめたのだ、ポンキは。店の主人、駅長、清掃係、地面に敷かれた線路、信号機の電線、市、道、ガート ―― そのすべてが、彼の知りおくところとなった。カーリー母神の礼拝所、ゴウランゴの修行場への道も覚えた。連絡駅の何本もある線路を、彼は、ほとんど事ともせずに渡っていく。その前に来ると、まず立ち止まり、近くに人の気配があれば、尋ねる、どなたですかい? 線路には、汽車がいますかい?

人がいなければ、耳を(そばだ)て、エンジンの音が聞こえないか、確かめる。そうしてから歩を進め、線路の上に足を載せる。線路に触れて確かめる、汽車の動きが、その中に伝わってくるかどうか。ポンキは言う ―― 怖いと、背骨がブルブルするだろ。それと同じブルブルが、線路に伝わってくるんだよ。汽車の気配を察すると、線路をまたぐのをやめて、彼は陸橋の方に行く。片側の手すりで身を支えながら、すんなり渡り終える。階段の数は、頭に入っている。

手太鼓(ドゥブキ)とともに、いまでは土製の釜を一つ、手元に置く。何度も指で叩いて、試してから買ったのだ。土釜を叩きながら歌うと、人びとは、より盛り上がる。

ときには、駅舎の扉の前にすわることもある。彼がすわる時間は、昼の1時から2時半の間、と決まっている。この時間、駅長や他の旦那方がくつろいで、噂話に花を咲かせる。彼は耳を傾ける。話が途切れると、彼は口を開く、駅長の旦那!

―― どうした、おまえ? こんな所で!

―― へえ。

―― で、何だ?

―― へえ! ポンキは頭を掻く。

―― 何が知りたい? ボルドマンまでの距離か? 汽車賃か?

―― いんや、おれが知りてえのは ……  笑みを浮かべ、出っ歯のポンキは、歯をますます露わにして、旦那方が促すのを待つ。彼の期待通り、事は運ぶ。

―― いったい、何が知りたいんだ? ボルドマンの街の様子か? どんな大きさか?

―― へえ。謙遜のしるしに、さらに、歯を露わにする。

―― ボルドマンに行きたいのか? そのうち、乗せてやろうか、汽車に?

ポンキは黙っている。同意を伝えるのが怖いのだ。牛車、馬車、人の群れ、路地隘巷、果てしのない広がり ―― その中の、いったいどこに …… ?

電信機が音を立てる。向こうでは、電報の到着を告げる鉦の音が、チンチンと響く。旦那方は、忙しげに腰を上げる。ポンキは扉から遠ざかる。もの思いに耽りながら、プラットホームの縁に行って、立ち止まる。すぐ横の電柱に、風が当たって音を立てる。そこに貼り付いた、距離を示す鉄板が、小刻みに震えながら音を立てるのだ。ポンキは、そっと電柱に耳を当てて、佇ちつくす。電柱を指で叩きながら言う、トントカトカ、トントカトカ、トカトカトン。 続けて、 ―― ハロー! ハロー、ご婦人(タクルン)、ボルドマンのご婦人(タクルン)! おれ、ポンキです。歌を歌うよ ……

ああ、あなたを待って カダムバの木蔭で 目を凝らします!

 

時が経つ。一年後のことである。ポンキは、まだそのまま、乗換駅にとどまっている。少し金も貯まった。その一部は、売店の主人に預けてある。店主は、これが彼の全財産だと思っている。だが、ポンキは、稼ぎを分けて、隠しているのだ。一部は自分の身につけている。残りは、木の板で囲われた、ちっぽけな密室のような、女性専用待合室に。その部屋の片隅の、地面の下に埋めてある。乗換駅とは言いながら、支線のプラットホームは、石造りではない。女性専用待合室の床も、石屑を敷き詰めた土の床である。その上に、彼は自分の寝床を敷く。寝床とは、一枚の麻袋である。夜になるとそこに麻袋を広げ、その上に身体を丸めて寝る。

ボルドマン行きに取り憑かれていた心も、次第に冷めてきた。「黒いお方、あなたを待って ……」の歌を彼は歌い、人びとは賞讃し、ポンキは恭しい笑みを浮かべる。だがあの、チョイトロ月の昼ひなか、田舎駅のプラットホームで、柔らかい両足に顔をつけて拝んだ記憶は、もはや頭に浮かんでこない。あの甘い、心をとりこにした匂いのことも、思い出せない。いや、思い出しはするのだが、胸の中が、あの時のような「あくがれ」に満たされることが、ないのだ。

 

それから何日経ったことだろう。はるかな日々である。

不意にその日、彼の全身を、ブルブルが貫いた。線路の上を汽車が走る時、その音と感触に、身体に震えが走るように。あの歌だ! あの歌声だ! 今日は歌だけでなく、歌と一緒に楽器も鳴っている。駅舎の前で、ご婦人(タクルン)が歌っている。

 

黒いお方、あなたを待って ……!

 

ポンキは、走るようにしてその場に駆けつけた。ご婦人(タクルン)のまわりに、たくさんの人だかりがしているのがわかる。小さな子供までいる。

歌が終わると同時に、彼は、手を合わせて呼びかける、ご婦人(タクルン)

―― 誰だ、おまえは?

―― へえ、旦那、歌を歌いなさったご婦人(タクルン)を、お呼びしているんで。

同時に笑いの渦が巻き起こった。一人が言う、バカみたい!

再び歌が始まる ――

 

その煌めきが、目に刺さる ……

 

ポンキの胸は戦いた。あの歌だ。吟遊詩人(コビアル)のニタイから習った、彼の、あの歌 …… ご婦人(タクルン)は、ポンキから、口伝えで覚えたのだ。

歌が終わった!

―― おれのこと、忘れちまったんですかい、ご婦人(タクルン)! おれ、ポンキだよ …….

―― この野郎、おい! とっとと失せろ!

追われても、もう離れはしまい。息を凝らしたまま、彼はその場にすわっている。汽車の到着を告げる鉦が鳴った。一行は、その場に広げた荷物をまとめた。一人が言う、蓄音機をちゃんとしまえよ。レコードを箱の中に入れろ。

汽車が来て、去った。驚く、駅員、店の主人 ―― ポンキの姿が、どこにもない!

 

それからさらに、時が過ぎた。何年もの歳月が。ポンキの髪には、白いものが混じる。出っ歯の口からは、歯が何本か抜け落ちた。耳で聞く力も、衰えてきた。線路に足を乗せても、遠くから汽車が来るかどうか、もはや判別できない。

ポンキは、ある聖所の道端にすわって、物乞いをしている。歌を歌うことも少なくなった。彼は言う―― 盲の乞食に、哀れみを、旦那! 盲にお恵みを、奧さん! 母なる豊饒の女神(ラクシュミー)様!

母なる女性たちが通る時、ポンキの懇願は熱を帯びる。裸足なので足音ではわからない …… だが、絹のサリーのカサカサいう音や、礼拝用の花の香りで、ポンキは、母なる女性たちが来るのを、それと知る。

布施が少ない日には、彼は歌を歌う。

その日、彼は歌っていた。「その煌めきが、目に刺さる ……」は、近頃では気に染まない。信愛歌を歌うことが多い。「黒いお方、あなたを待って ……」を、ときどき歌う。その日歌っていたのは、まさにこの歌だった。

歌い終わると同時に、笑いとともに誰かの声 ―― おまえ、何度、レコードで歌ったことか、この歌を。巷に、溢れかえっているぜ。

女のとても微かな笑い声が、ポンキの耳に届いた。 ―― 何度も歌ったわ。でも、黒いお方、一度でも、お聞き届けになって?

―― またおまえの口癖が出た! もう聖所に、用はないだろう。さあ、さっさと帰ろうぜ。

―― もう、たくさん。私も歳をとったわ。暗闇に包まれてきたの、世界が。これで、もう ……

痺れを切らして、ポンキが口を開く ―― 奧さん、少々、お恵みを? 盲の ……

彼の手に、何かがひとつ、落ちてきた。

男が言う ―― 半ルピー銀貨だ。パイサ貨じゃないからな、おい。

―― 銀貨?

―― ああ。

銀貨? 贋貨(にせがね)じゃないだろうな? 手で撫でてみる …… 地面に投げて、音を確かめる。その後、満腔の感謝をこめて手を差し伸べ、女の足の甲をその手で撫で、帰敬した。

彼らが去る。その足音がした。

鳥たちが啼いている。日が暮れたのだろう。ポンキも立ち上がる。



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プロフィール

bengaliterature

Author:bengaliterature
大西正幸(おおにし・まさゆき)

東京大学文学部英語英米文学科卒。1976~1980年インドに留学。ベンガル文学・音楽などを学ぶ。オーストラリア国立大学文学部言語学科にて、ブーゲンビル(パプアニューギニア)の少数言語モトゥナ語の記述研究でPh.D.取得。名桜大学(沖縄)教授、マックスプランク研究所(ライプツィヒ)客員研究員、総合地球環境学研究所客員教授などを経て、現在は同志社大学文化遺産情報科学調査研究センター嘱託研究員。専門はベンガル文学・口承文化、記録・記述言語学、言語類型論。

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