暗黒
暗黒 解題
「暗黒」は、文学誌『日報ボシュモティ [世界]』の、ベンガル暦1352年新年号(西暦1945年4月出版)に掲載されました。彼の故郷、ビルブム県ラブプルの鉄道駅を舞台に、駅で歌を歌って乞食する盲目の少年ポンキと、ケムタ踊りの女性歌手の間の、交流が描かれています。
ベンガルの鉄道駅や汽車の中は、歌って乞食する人びと、食べ物・飲み物・生活用品を売る行商人たちの、賑やかな活動の場所で、ときに、驚くほどの歌声に出逢うことがあります。この作品の主人公ポンキも、ラブプル駅に実在した、そうした乞食の少年をモデルにしています。
ポンキの出自はバグディ。ビルブム県に最も多い、ナマシュードラ(不可触民)の出自集団の一つです。女性歌手の出自は分かりませんが、ケムタ踊りの踊り子・歌手となれば、高カーストの出身ではあり得ず、おそらくは、同じナマシュードラ(不可触民)の出身と思われます。(物語の中で、ポンキが彼女の足を拝する許可を求めた時、彼女には、かつて、そのようにされた体験がなかった、と述べられていることからも、彼女が低い出自の出身であることが窺えます。)にもかかわらず、ポンキは彼女を「タクルン」と呼びます。「タクルン」は「タクル」(神様)の女性形で、もともとはバラモンの女性を指し、一般に高位カーストの女性への尊称として用いられます。しかしこの場合は、ポンキが、社会的に成功した歌手である彼女に対して抱く、距離感と崇敬の念を表しています。
女性歌手に対して信仰にも似た愛情を抱くポンキ、彼岸をもとめる信愛の念に満ちた女性歌手 — この二人の間の交歓とすれ違いが、二人の会話を通して、濃やかに描かれます。そして、「その煌めきが目に刺さる」と「黒いお方、あなたを待って」の二つの歌が、この二人の心情を、象徴的に表しています。(後者は、「黒いお方」(クリシュナ神)の訪れを待つ、人妻の愛人ラーダーの立場に立った、信愛歌です。)
「ケムタ踊り」は、ジュムルと呼ばれる歌謡に合わせて踊られる、民間舞踏の形式で、ビルブム県を含む西ベンガルの辺境地帯で、広く行われてきました。女性の踊り子兼歌手を中心に、伴奏者数名(ハルモニウム、ドゥギ・タブラ、コンジョニ、竹笛、バイオリン等)を伴った職業グループを形成し、地域の祭祀や縁日に出向いて、あるいは裕福なパトロンに招かれて、上演します。歌謡の内容は、この作品にあるように、ラーダー=クリシュナ神話に基づく恋愛を歌ったものが多いです。
この小説に登場するグループは、ボルドマン市を拠点にした著名なグループらしく、ラブプル周辺の祭祀か縁日に招かれて、演奏した帰りなのでしょう。(ボルドマン市は、ビルブム県の南に接する、ボルドマン県の県庁所在地で、西ベンガル州の経済文化の中心地の一つです。)
楽器について:
ハルモニウムは、インドで歌謡の伴奏に用いられる箱形のオルガンで、左手でリードに空気を送りながら、右手で鍵盤に指を走らせて演奏します。
ドゥギ・タブラは、タブラ・バンヤとも呼ばれる、一対の太鼓。伴奏用の楽器として、古典音楽から民謡まで、幅広く使われます。右手で高音域のタブラを、左手で低音域のドゥギ(バンヤ)を鳴らし、それらを組み合わせて複雑なリズムを刻みます。
コンジョニは、木の細長い枠に、小さなシンバルを二組嵌め込んだもので、片手で振りながら、歌のリズムに合わせてシャンシャン音を立てます。
また、盲目の乞食ポンキが歌の伴奏に使う手太鼓は、円形の平らな太鼓。携帯用の簡便なもので、歌い手が腰につけたまま左手で叩き、リズムを刻みます。
暗黒
タラションコル・ボンドパッダエ
支線の小さな駅である。
赤い石屑を敷き詰めた、地面と同じ高さのプラットホーム、それも、一つしかない。プラットホームに接して、駅名を示した小さな煉瓦造りの建物の中に、駅事務室があり、それに接して、トタン屋根で覆われた駅舎がある。屋根の下には煉瓦で囲った輸送用小荷物の保管所があり、その横のちっぽけな部屋の扉には、こう書かれている
―― 「女性専用」。
駅事務室の後ろ側が、紅茶と軽食の売店になっている。インド鉄道の認可を得た売主の店である。駅舎のトタン屋根は、その建物の壁から斜めに下りている。駅舎のすぐ向こうは、貨物置き場へと導く引き込み線。そこからは、まっすぐ北に向かって、赤土の村道が伸びている。ユニオン評議会[英領時代に導入された地元評議員による限定的な自治組織]のおかげで、その両側に溝が掘られた。定規で線を引いたようなまっすぐの溝ではなく、蛇の這った跡のように、くねくねしているのではあるが。それでも、田舎紳士のように、それなりの体裁を整えてはいる。村人はステーション・ロードと呼ぶ。評議会のノートにも、そう書かれている。
駅の区画、ないし領域は狭い。切符売り場、認可済みの紅茶の売店、貨物置き場、二本の側線。それっきりだ ―― 駅の境界はそこで終わる。境界のすぐ外、道の両側に、何軒かの家がある。パーン・ビリ・紙巻きタバコに、紅茶・軽食を売る店。二軒の石炭取り扱い事務所。駅の売店の店主の家。これらの横に、ある成金旦那が建てた、煉瓦作りの家。あとは空き地である。巨大なバンヤン樹の蔭の、きれいに掃き浄められた空間。遠くの村々から、馬車や牛車でやって来た人びとは、ここに集い、噂話に花を咲かせる。ここからしばらく行くと、村の居住区域が始まる。
午前中に、上りと下りの汽車が、一本ずつこの駅で交叉する。人びとは「落ち合う」と言う。その二本はすでに去った。駅舎の中には僅かな数の人がいる。そのほとんどが、地元の住人である。待合客の中に、ケムタ踊りの一団が見える。二人の若い女、一人の老婢。三人の男のうち、一人はハルモニウム伴奏者、一人はバイオリン弾き、一人はドゥギ・タブラ叩き。彼らの汽車は、昼の2時である。女二人のうち、一人は色黒で背が高い。彼女は床にすわって髪を結っている。もう一人は美人で、ベンチに横になって眠っている。ハルモニウム弾きは相当に気障な若造で、紙巻きタバコを口にくわえ、プラットホームの端から端を往き来している。
一人の盲目の少年が、地べたにすわり、我にもあらず、うつらうつらしている。醜い容貌である。両目は白く、前の歯茎はおそろしくせり上がり、四本の歯が剝き出しになっている。手足は発育不全で萎えている。身にまとうのは、太糸で編んだ、丈の短い、汚れた一枚の布きれ。頭髪の後方は、まったくぶざまに短く刈り込んである。手太鼓を一つ手に持ち、思いに任せて身体を揺すりながら、ときに笑みを浮かべ、ときに唇を動かす。ひとり、自分に向かって、何か呟いているのがわかる。ときに動きが激しくなる
―― 何かを聞こうと、努めているのだ。ときにはまた強く息を吸い込み、何かを嗅ぎ分けようとする。人夫が数人、駅の売店の側にすわって雑談をしている。ときおり店の七輪に木片をかざし、それでビリに火をつける。火が消えると、また木片から火を移す。
プラットホームの端に佇み、ハルモニウム弾きの若造が、指笛を吹いている。まだ5時間あまり、ここで過ごさなければならない。まったく特色のない場所である。何一つ見るべきものがない。二人の若い女を引き連れているのを見て、嫉妬を起こすような良家の子弟も、この界隈には見当たらない。チョイトロ月[3月半ば〜4月半ば] の終わり、目の前に広がる裸の田圃は、空から地面まで垂れ下がる、薄い煙の膜で覆われているように見える。ときおり、その煙の膜も、震えるかのようだ。
駅舎にはカッコウがいる。駅舎の中から、カッコウの鳴き声が響く …….
ハッとする、ハルモニウム弾き ―― パピア[カンムリカッコウ]もいるのか? ……. パピアの鳴き声、「目が無くなった」が、次第に高まる。
何てこった! ここは動物園か? 羊が鳴いている! おや? 昼日中にジャッカルだと!
好奇心を抑えきれず、彼は駅の方を振り返り見た。 ―― ああ、ハリ神よ! あの盲の小僧か! 小僧はいつしか、手太鼓を鳴らし、歌い始める。
その歌声の、何と甘いこと! おやおや! 声がいいだけじゃない、玄人も顔負けの歌いっぷりだ。その歌は、まこと、名人芸と呼ぶにふさわしい。
その煌(きら)めきが、目に刺さる ――
ミラーを嵌めた あなたの腕輪。
なんて、素敵な! ――
この目はもう
とてもとても、耐えきれない、
キラキラ、ギラギラ、煌めき踊る、
手がくるくる 回るにつれて!
いつの間にか、周囲はすっかり活気づいていた。小僧はしゃがんだまま、手太鼓の音に合わせて歌い続ける。出っ歯の顔には、満面の笑み、身体はリズムに乗って揺れている。人夫の一団は、彼の方を向いてすわりなおした。ハルモニウム弾きの共連れの一人、色黒女の、髷を結っていた両手の動きが止まった。もう一人の女の眠りは破れた。覚めたばかりの見開かれた両目には、笑みを含む、興に満ちた輝き。老婆は、刻みタバコを巻いたパーンを満足げに噛み砕いていたが、その口の動きも止んだ。
しゃんしゃん、しゃんしゃん、 腕環が、またまた
響きを撒き散らす
私の胸の バイオリンは
あなたの弓で 音色を奏でる
歌のリズムが速くなるにつれ、小僧の身体の揺れも激しくなる。いまにも後ろにひっくり返りそうだ! 向こうのベンチの上では、目覚めたばかりの女が、居住まいを正した。髪を結っていた色黒女は、クスリと笑って呟く、何てこと!
小僧は、もうすっかり、もの狂おしいリズムに乗って、
ああ ―― ああ、私がもし 腕輪だったなら
黄金でなく、眩いミラー、
あなたの腕に巻きついて 輝いていたことでしょう、
栄えある生を 送るため。
ああ、ああ、 死んでも悔いは なかったことでしょう。
最後の行を三度繰り返して、歌を締めた。
聴衆の一団は、興奮に駆られ、やんやの喝采を浴びせた。賞讃に気を良くした、盲目の出っ歯の顔は、満面、笑みに溢れた。聴衆の一人が、火のついたビリを、そろそろと彼の手に持たせて言った、それ、こいつを吸いな!
―― ビリですかい?
―― そうだ。吸いな。
笑みを浮かべて彼は答える、紙巻きタバコを、吸ってる人がいなさる。一本、もらえませんかな!
売店の主人が遮って言う、おい、この生意気小僧! 「俺の名前は 生意気小僧、 何でも口に 入れちゃうぜ!」 タバコを吸うだと! 一本の値段がいくらか、知っているのか?
―― おれの歌には、その値打ちがない、ってわけですかい?
―― それ、それ。こいつを吸いな。
横合いから、ハルモニウム弾きが、タバコを一本取り出して、彼に渡した。
タバコを受け取ると、彼は恭しく言った、帰敬いたしやす、旦那様! 馬を下すったんで、鞭をもらえませんかな。マッチの火を、いただきてえんで!
ハルモニウム弾きは、マッチを点してやった。少年の白く濁った目に、炎の影が映ることはない。その熱を感じ取るだけだ。
盲目の少年は、全身でタバコの煙を吸い込む。吸い込む時の勢いで、頭も肩もぶるぶる震える。これ以上息がつげなくなると、ひとかたまりの煙を、口から一気に吐き出し、むせた喉で感極まった声を上げる、ああ!
彼の仕草を見て、皆が笑う。ハルモニウムの「旦那」が言う、おまえ、なかなか歌がうまいじゃないか! 驚いたぜ!
―― へえ、そうなんで! 旦那、みんなが、褒めてくれるんで。つまり ……
少しく口を閉ざし、また微かな笑みを浮かべて言う、
―― すごくうまく歌えば、つまり、身も心も、捧げて、歌えば、人を、とりこにできるんで。いいですかい!
この言葉に、若い女二人が、高らかな笑い声を上げた。笑い声を耳にして、盲の少年はぎくりとした。タバコは手から辷り落ちた。地べたに指先を這わせてタバコを捜しながら、
―― 笑った? 誰ですかい? どなた方、ですかい?
続けて小声で呼んだ、モリンド!
「モリンド」[「モニンドロ」の訛り]と呼ばれたのは、人夫の一団の一人である。彼は答える、何だ?
―― よく聞けよ。―― 手の感触に頼って、タバコの吸い口の方を、うまく抓みあげた。
―― 何だよ?
―― こっちだ。内緒の話だ。
―― 何なんだ? さっさと言えや。
―― 女たちが笑っているが。良家のご婦人方、だろうが?
―― そうだ。ボッドマンからおいでだ。
―― ふむ。思った通りだ。
―― どうやってわかる? モリンドは、鼻先でせせら笑った。
―― 声からに、きまってるだろ?
―― だが、良家の方々だと、どうやってわかった?
笑みを浮かべて、盲目の少年は答える、 腕環の音に、甘い匂い ……. だいぶ前から、この二つ ……. おかしいと、思ってたんだ。生まれが卑しいと、身体から、汗の匂いがする。ガラスの腕環じゃ、あんな綺麗な音はしねえ。黄金の腕輪だ。そうだろ?
―― ああ。
黙ってタバコを吸いながら、少年は何度も強く息を吸って、その甘い匂いを吸い込もうとした。突然、彼は口を開く、
―― ところで ……. 笑っていなさるご婦人方、あなた方に、申しあげる ……
色黒女は、おしゃべりの跳ねっ返りだ。髷に留め金を差し込んでいたが、肩を少し巡らせて少年の方を振り向くと言った、あたしたちのこと?
―― そうです。どうして笑いなさった?
色黒女は、にやりと笑って言い返す、あたしたちじゃないわ、他の人たちよ。
―― 他の人たち? 少年は首を横に振り、微かな笑みを浮かべて言った、いんや。
―― どうして「いんや」なの? 笑ったのは他の人よ。
少年は、笑まいをさらに広げて言う、角笛では、竹笛の音は出ませんぜ、ご婦人。空き缶を叩いても、タブラの音は出ませんぜ。
―― あら、まあ!
女は、驚きのあまり、好奇の目を見開いて、連れの女とまなざしを交わした。
美しいほうの女の顔も、笑みに綻んだ。だがその微笑む様は、色黒女のそれとは違った類いのもののように思われた。今度は彼女が口を開いた、あたしたちが笑ったので、あなた、腹を立てたってわけ?
―― 腹を立てる? 少年は笑って言う、めっそうもねえ! ご婦人方に腹を立てるなんて、そんなこと、できるもんですかい! ただ、どうして笑いなさったか、知りたかったんで。あの
…… 失礼なこと、言いましたかい?
―― この恥知らず! 売店の主人が口を挟む、この豚野郎、おまえの「とりこにできる」がおかしくて、笑いなさったんだよ!
―― どうしてだ、おれには、とりこにできない、ってか?
―― もうたくさんだ、黙れ!
―― どうしてだよ?
―― 誰に向かって何を言ったか、わかってるのか?
この言葉に、盲目の少年は怯んだ。
―― このお方たちはな、コルカタの歌い手さんだ。おまえ、蓄音機の歌なんか、聞いたこともねえだろう、この恥知らず! そんなお方たちだ、名うての歌姫だ! ポンキの糞ガキ殿が、このお方たちを、とりこにできる、だと?
まるで罪を犯したかのように、彼は口調を改め、そういうことなら、無礼なことをしちまった。
―― そうとも、無礼千万だ。
色黒女は、髪結いを終えて長手拭いを肩にかけると、スーツケースを開き、石鹸を取り出して言った、すぐそこの池で、水浴びして来るわ。
盲目の少年は、手にしていた紙巻きタバコを放り投げた。そして顔を上に向け、奇怪な様に口をポカンと開け、音もなく笑いはじめた …… 鼻尖が、何度も脹れあがる。その表情は、まったくぶざまで、醜い。
売店の主人は言う、おいおい、見ろや、恥知らずの顔を! 恥知らずのポンケを!
盲目の少年の名は、「小鳥」と言う。ポンケと呼ばれた彼は、音のない笑みを満面に浮かべ、すごーくいい匂いが流れてくるぜ、シンおじさん! 身も心も、とりこになっちまう。
美人のほうの女が言う、あなたのその、とりこにする歌を歌ってくれたら、あの石鹸、あげるわよ。
頭を掻きながらポンキは答える、くれるんですかい? 歌ったら?
―― ええ。
―― でも …… しばらく黙ってから、また口を開く ―― まったく無礼なことをしちまったんで。あなた方の前で、歌うだなんて、このおれが?
―― どうして? あなた、とても上手に歌えるのに。あなたの歌声、とっても綺麗よ!
―― 気に入ってくれたんですかい? いつもの音無しの笑みが、ポンキの顔いっぱいに広がる。
色黒女はハルモニウム弾きに言う、あたしと一緒に来てちょうだい。ガートでしばらく見張っていて。
ポンキは言う、ご婦人、ひとつ、言っても、いいですかい?
好意に溢れた笑みを浮かべて、美女は答える、言ってごらん。
―― 怒らないで、くれますかい?
―― とんでもない、怒るだなんて! 言ってごらんなさい。
ポンキはだが、無言のままだ。と、突然口を開く、ネタイ[「ニタイ」の訛り]! モリンド! 行っちまったのか? おい、ネタイ?
―― どうした、ネタイに何の用だ? 店の扉を閉めながら主人は言う、もうみんな、軽食の時間だろうが? 家に戻ったんだろうよ。
ポンキは微笑んで言う、おじさんも、それで、店に錠をかけてるんだな。
―― ああ、そうだとも。何か食いたいなら、来な …… もう、家に戻るぜ。
―― いいや。腹が減ってねえんだ、今日は。
10時半を回っていた。チョイトロ月のこの時間、すでに四方は塵に霞み、熱気を帯びている。駅のトタン屋根は、灼熱に晒されて、ときおりコタン、コタンと音を立てる。鉄路の合わせ目からも、音が立つ。
美女は、盲目のポンキに、凝っと目を注いでいる。ポンキは、無言のまますわっている。ときおり、顔を上げる。だが次の瞬間には、肩を落とす。
―― どうしたの、何も言わないで?
―― 何ですって?
―― 言いたいことがあるって、言ったでしょ?
―― いますぐ、言いますんで …… ! ポンキは、恥じ入った罪人のように笑い、肩を落とす。
―― 言ってごらんなさいよ。 ―― 女は待ち設けている。そうしながらも、彼女は放心したように、塵に霞んだ地平線の方を、凝っと見つめている。ポンキのほうは、ときおり、肩を上げたかと思うと、またすぐに下げてしまう。不意に彼は口を開く、言いたかったのは
…… ?
ちょうどこの時、頭上のトタン屋根で、激しく音が鳴り響いた。女はハッとした。
―― 何なの、この音?
―― へえ、あの …… 物知り顔の笑みを浮かべて、ポンキは言う ―― 陽の熱で、トタンに、音がするんで。
―― そうなの? 太陽の熱で、トタンが音を立てるの?
―― へえ。日が暮れるまで、この音が続くんで。そら、そら …… こいつはでも、熱の音じゃねえ! 烏が屋根にすわったんだ。
女は、外に出てプラットホームに立った。好奇心が湧いたのだ。ほんとうに、烏が屋根に止まっている。彼女は驚いて、中に戻ると、立ちつくした ―― ポンキの側に。ポンキは、そわそわし始めた。何度か鼻腔が広がる。と、恭しく、囁くように、
―― 言いたかったのは ……
女は、二本の指を、彼の目の前で動かしていた。
―― 言っても、いいんですかい、ほんとうに?
女は、ポンキの目が瞬かないのを見て、指を遠ざけた。そして口を開いた。
―― 言ってごらん。何度もそう言ってるでしょ?
―― あなたがもし、歌をひとつ、歌ってくれたら …… 言いかけたまま、無言の笑みに口もとを大きく広げ、彼は頭を掻き続けた。
女は笑った。 ―― 歌を聞きたいの?
地べたに手を滑らせ感触を確かめながら、女の足の指先を探り当てると、それに触れたまま口を開く、
―― あなた方のお御足を、どこに見つけたら、いいんです? どうやったら、歌が聞けるんです? でも …… しばらく黙り込んだ後、見えない目を上方に向け
―― それでももし、願いが叶うなら …… おれだって、人間だから …… それに、歌を聞くのが好きだから、おれは。
女は、何と思ったことだろう。哀れみ? それとも、単なる気紛れ? ―― わかったわ、と答る。だが、すぐまた気遣わしげな顔になり、
―― ハルモニウムだけど、その上にたくさん荷物が積んであって ……
―― ハルモニ?
―― そうよ?
―― ハルモニ、なしにしましょうや。そのまま、歌ってください。そのまま、そおっと …… 陽はすごくきついけど …… 何もなしで、そおっと歌えば、すごーく、気持ちいいですよ。
女には、この考えが、とても気に入った ―― この子の言う通りだわ。
抑えた声で歌い始める ――
黒いお方、あなたを待って カダムバの木蔭で 目を凝らします。
ときに道の辺、ときに川岸、 ひとときも 逸らしはしない
見つめすぎて 溶けてしまう、
墨を刷いた 私の両の目。
ポンキは、全身、麻痺したかのようになった。脳内の毛細血管に至るまで、歌が、ヴィーナの多弦が響き合うような調べを奏で、彼の意識の隅々を覆いつくした。
歌が終わった。盲の少年に歌を聞かせたことで、女はすっかり満ち足りていた。微かな笑みを浮かべて、彼女は訊ねた、どうだった? 気に入ってくれた?
―― 何ですって? ポンキは我に返った。麻痺して無反応だった身体に、一瞬にして意識の流れが走った。
―― 気に入ってくれたの?
―― 生きていた甲斐(けえ)が、ありました、ご婦人。
女はこれを聞いて、思わず吹き出した。
―― 笑いなすった? でも ……
少し黙ったあと、ポンキは言葉を継ぐ ―― でも、こんな歌を、生きている間に、どこで聞けると言うんです!
ポンキの言葉の中には、痛みの調べが鳴っていた。その調べに触れて、女はもはや笑うことができなかった。口を鎖した。言葉が、見つからなかったのだ。
―― あなたの足を、拝ませて、ください。
―― 足を拝む? どうしてなの?
―― どうしても、そうしたいんで。
女は心をそそられた。恍惚としたまなざし、手放しの賞讃、愛の囁き、そんなものは、これまで、山ほど得てきた。今も得ている。だが、足を拝む? 記憶になかった。無論、自分たちの仲間うちで、年少者が目上の者の足を拝む習慣は、ある。だが、この少年の接足作礼は、それより遙かに、価値が高いように思われた。彼女は拒まなかった。黙ったまま佇んでいた。
ポンキは、彼女の足の甲全体を、手で撫でた。そうしてから、女の両足の上に、自分の顔を置いた。
女は、幸せな気分に浸った。
足に熱い息を感じた。ポンキの異形の目から、涙がこぼれ落ち、足を濡らしている。それでも彼女は、足を引っ込めようとしなかった。塵に霞んだ、地平線のほうに、とりとめのないまなざしを注いだまま、黙って佇んでいた。と、不意に尋ねた、
―― あなた、家には、誰と誰がいるの? お母さん …… お母さんはいて? お父さんはいて? …… 聞こえているの? …… もう、起きなさい! 拝むのは、もうたくさんよ! さあ! 起きて!
―― おや、この小僧! おい! 何て真似を、してやがる? おい!
ハルモニウム弾きと色黒女が、水浴を終えて戻って来た。ハルモニウム弾きが、ポンキをどやしつけたのだ。
色黒女は言う、いやだわ!
美女のほうは、小声で繰り返す、さあ! 早く起きなさい!
ポンキは、ようやく身を起こした。彼のほうを見て、色黒女とハルモニウム弾きは、どっと吹き出した。涙に濡れて、女の足のアルタ[漆をベースにした赤い汁の化粧、女性が足のまわりに塗る] が、盲目のポンキの、顔中についていた。頬、鼻、額、両唇、一面真っ赤である。
女は言った、顔を拭きなさい。あなた、顔中に、赤い色がついているわ。
―― 赤い色?
―― そうよ、アルタがついてしまったの。
―― アルタ?
―― ええ、唇、額、頬、鼻 …… 拭いて、取ってしまいなさい。
―― いいんです、そのままで。
色黒女が共連れに言う、ちょっと、あんた、こいつを相手に、もったいつけるの、いい加減になさいよ。あっちで、ご飯を用意しているわよ。水浴びするなら、今すぐ行きなさいな。綺麗な水よ、池は。
―― 遠いの?
ポンキは立ち上がる。
―― そこ、すぐそこですよ。おれが、連れて行ってあげます、ご婦人。さあ。
―― あなたが?
―― へえ、へえ、盲は、どんな道でも、覚えてるんでね。間違えっこ、ねえんだ。さあ、来なせえ!
色黒女は笑みを浮かべて言う、安心して、水を浴びて来るがいいわ。この子が、ガートで、見張っていてくれるわよ。
その言葉通り、ポンキは、違えることなく道を進む。ときおり、足で地面を撫で、行く先を確かめる。ステーション・ロードに沿い、まずバンヤン樹の木蔭に着くと、
―― ほれ、バンヤンの木だ。左側を通って!
少し先まで行くと、池が見えてくる。黒い眉墨のような水である。
女は口を開く、あなた、名前は何と言うの?
―― 名前? おれの名前は、ポンケ。つまり、小鳥。
―― 小鳥?
―― へえ、そうです。子供の頃、小鳥みてえに、ぴいぴい、泣いていたんでね! 盲なんで、母さんがおれを、放ってらかしにしてたんだ。地面に落ちる度に、ぴいぴい泣いた。
―― あなた、母さん、父さんが、いるの?
―― へえ。ときどき、おれ、家に行くんだ。父さんはいい人だよ。父さんの名前は …… この辺では ……
不意に、自分から言葉を遮る …… 上方に顔を向けて、口を開く …… ―― おお、おお! 鴨の大群が、飛んで来た!
褐色の野鴨の大きな一群が、ほんとうに、頭上で輪を描いていた。その羽搏く音が、空を覆った。
女も、空のほうに、目を遣った。
ポンキは口を開く。自分で遮った言葉を終わらせるために …….
―― 父さんの名前は、この辺では、みんな知ってる。クリッティバシュ・バグディと言えば ……
父親の名は、クリッティバシュ。盲目の、未熟児の、萎えた身体を持った息子の泣き声を聞いて、彼を「小鳥」と名付けたのだ。人並みの、響きのいい、誇り高い名前を、つけてやる必要すら、感じることはなかったのだ。
ポンキは言葉を継ぐ。 …… 彼はガートの縁にすわっていた、そして女は、冷たい水に、首まで身体を沈め、彼の言葉を聞いていた。
―― おれには、一人、姉さんがいるんだ。姉さんは、おれを可愛がってくれた、膝に載せてくれた。それで …… そう、あなたくらいの歳だと思うよ。
―― あたしくらいの歳? 微笑んで、 ―― あたしの歳が、あなた、どうやってわかるの?
羞じらいの笑みを浮かべ、頭を掻きながらポンキは言う ―― あのな、あなたは、おれよりちょっとだけ、歳上だろ。ほんのちょっと。
しばらく黙って、また口を開く ―― 声音を聞けば、わかるんだ、だいたい。あなたの声は、まだ、竹笛の音色みてえだ。低音が混ざっていない。それに ……
ポンキは言いよどんだ。言うことができなかった。彼女の足の上に、顔を載せた時の、その柔らかい、すべすべした感触が、まだ焼き付いていたのだ。
話題を換える ―― ここからおれの家までは、四里くらい、離れている。一年くらい前、母さんが、ある日おれを、こっぴどく殴った。それで、姉さんが言ったんだ、ポンケ、あんた、歌が上手でしょ。だから、どこかいい、市みたいな、人が集まる場所に行ったらどうなの? 歌を歌って、物乞いするのよ。 その考えが気に入ったんだ、おれ。姉さんが、ある日、自分からおれの手を取って、ここに連れて来てくれた。それから、ずーっと
……
音もなく笑うと、彼はそのまま黙り込んだ。
しばらくして、不意に口を開く、
―― あなたの歌の、あそこのとこが、すごく素敵だ。ほら、あの、―― 黒いお方、あなたの笛の 音が鳴り響く時 ……
続けて彼は、旋律をつけて歌い始めた ――
家事も何も、すべてを忘れて 私はここに 駈けて来ます。
身体を磨く 暇もなく 髪を結う 暇もなく
あれもこれも できなかった ことだらけ!
女は身体に石鹸を塗っていたが ……. 驚きのあまり、手からその石鹸が、すべり落ちた。ポンキは、彼女とまったく同じ調べに乗せて、完璧に歌っていた。
―― 水を浴びるのに、何時間かかるんだ、まったく? もう、汽車が来るぜ!
定刻になったのを見て、ハルモニウム弾きが声を張り上げた。ガートからその姿が見える。慌てて呼びに来たのだ。
駅では、まさにその時、切符切りを告げる鉦が、鳴り響いた。
汽車は去った。ケムタ踊りの一行も去った。売店の主人、シン旦那は、乗客への紅茶、清涼飲料、軽食の販売を終えて、呼んだ、ポンケ! ポンケ!
ポンケの返事がない! どこに行った?
シン旦那は、彼のことを心から愛している。旦那の奧さんも同じだ。ポンキがどこにも食べ物にありつけない日があれば、彼はポンキを呼んで、食事を与える。2時の汽車が去るとすぐ、彼は一度、ポンキの消息を確かめる。ポンキの返事がない。たぶん、村のゴーヴィンダ神 [クリシュナ神の別名] の寺へ、神饌にありつきに行ったか、チャンディー母神の前庭だろう。チャンディー母神の前庭では、月に5度の祭礼の度に、山羊を生贄に供するのだ
―― いつが新月で、いつが十四夜、いつが八夜、いつが晦日か、全部ポンキの頭に入っていて、その日、彼は必ず、チャンディー母神の前庭に行くのだ。この二つの寺のうちの、どちらかに行ったに決まっている。シン旦那は、自分の店の準備に心を向けた。2時の汽車のあと、4時にまた、汽車が一本、来るのだ。
4時の汽車が来て、去った。シン旦那は、今度はさすがに心配になった ―― ポンケがまだ戻らないのは、どうしてだ? いったい、どこへ行った? ケムタ踊りの連中と一緒に、汽車に乗って行ったのか?
その通りだった。ポンキはひそかに汽車に乗り込んだのだ。客車のベンチの下に横になって、身を隠していた。乗換駅で降りたが、人混みに紛れて、一行を見失った。
支線の警備員や運転手は、みなポンキを知っている。彼らは言う、おまえ、こんな所に?
満面の笑みを浮かべて、彼は言う、ああ。来ちまったんだ。ちょっとぶらぶらしようと思ってさ。 しばらく黙ったあと、さらに笑みを広げ、 ―― 新しい場所を、見たり聞いたり、したくなるんだ!
警備のドット旦那は笑って言う、わかった。もうじゅうぶん見ただろう、そろそろ帰りな。
ポンキはだが、どういうわけか、帰るのを恥ずかしく感じたのだ。彼は答えた、いんや。おれ、ここにしばらく、いることにする。
―― ここにいるだと?
―― へえ。ここの市がどんなか、一度、見てみてえんで。 返事を聞くと、警備のドット旦那は、笑ってその場を去った。
その数瞬後、ポンキは、ひとつ思いついたことがあって、ドット旦那を呼び戻そうとした、警備の旦那! 警備の旦那! 彼はドットに伝えてほしかったのだ、ここの駅長、清掃係、売店の店主に、彼のことを一言、告げてくれるようにと。
返事は得られなかった。彼はもうすでに、駅舎の中に入っていた。
しばらく黙ったあと、ポンキは歩き始めた。売店のちょうど真ん前に来た。
―― 何を揚げてるんですかい、旦那? シンガラ[カレー味の野菜を包んで揚げた、菱の実の形の菓子] ですかい、コチュリ[カレー味の豆などを包んで揚げた丸パン]ですかい?
店主は、彼のほうを見遣ると、言った、どけ、そこを!
ポンキは、横にすわって、しばらくおとなしくしている。その後、手太鼓を指で叩きながら、歌い始める ―― ああ、黒いお方!
警備の旦那に頼む必要はなかった。自分で自分の存在を知らしめたのだ、ポンキは。店の主人、駅長、清掃係、地面に敷かれた線路、信号機の電線、市、道、ガート
―― そのすべてが、彼の知りおくところとなった。カーリー母神の礼拝所、ゴウランゴの修行場への道も覚えた。連絡駅の何本もある線路を、彼は、ほとんど事ともせずに渡っていく。その前に来ると、まず立ち止まり、近くに人の気配があれば、尋ねる、どなたですかい? 線路には、汽車がいますかい?
人がいなければ、耳を欹て、エンジンの音が聞こえないか、確かめる。そうしてから歩を進め、線路の上に足を載せる。線路に触れて確かめる、汽車の動きが、その中に伝わってくるかどうか。ポンキは言う
―― 怖いと、背骨がブルブルするだろ。それと同じブルブルが、線路に伝わってくるんだよ。汽車の気配を察すると、線路をまたぐのをやめて、彼は陸橋の方に行く。片側の手すりで身を支えながら、すんなり渡り終える。階段の数は、頭に入っている。
手太鼓とともに、いまでは土製の釜を一つ、手元に置く。何度も指で叩いて、試してから買ったのだ。土釜を叩きながら歌うと、人びとは、より盛り上がる。
ときには、駅舎の扉の前にすわることもある。彼がすわる時間は、昼の1時から2時半の間、と決まっている。この時間、駅長や他の旦那方がくつろいで、噂話に花を咲かせる。彼は耳を傾ける。話が途切れると、彼は口を開く、駅長の旦那!
―― どうした、おまえ? こんな所で!
―― へえ。
―― で、何だ?
―― へえ! ポンキは頭を掻く。
―― 何が知りたい? ボルドマンまでの距離か? 汽車賃か?
―― いんや、おれが知りてえのは ……
笑みを浮かべ、出っ歯のポンキは、歯をますます露わにして、旦那方が促すのを待つ。彼の期待通り、事は運ぶ。
―― いったい、何が知りたいんだ? ボルドマンの街の様子か? どんな大きさか?
―― へえ。謙遜のしるしに、さらに、歯を露わにする。
―― ボルドマンに行きたいのか? そのうち、乗せてやろうか、汽車に?
ポンキは黙っている。同意を伝えるのが怖いのだ。牛車、馬車、人の群れ、路地隘巷、果てしのない広がり ―― その中の、いったいどこに …… ?
電信機が音を立てる。向こうでは、電報の到着を告げる鉦の音が、チンチンと響く。旦那方は、忙しげに腰を上げる。ポンキは扉から遠ざかる。もの思いに耽りながら、プラットホームの縁に行って、立ち止まる。すぐ横の電柱に、風が当たって音を立てる。そこに貼り付いた、距離を示す鉄板が、小刻みに震えながら音を立てるのだ。ポンキは、そっと電柱に耳を当てて、佇ちつくす。電柱を指で叩きながら言う、トントカトカ、トントカトカ、トカトカトン。 続けて、
―― ハロー! ハロー、ご婦人、ボルドマンのご婦人! おれ、ポンキです。歌を歌うよ ……
ああ、あなたを待って カダムバの木蔭で 目を凝らします!
時が経つ。一年後のことである。ポンキは、まだそのまま、乗換駅にとどまっている。少し金も貯まった。その一部は、売店の主人に預けてある。店主は、これが彼の全財産だと思っている。だが、ポンキは、稼ぎを分けて、隠しているのだ。一部は自分の身につけている。残りは、木の板で囲われた、ちっぽけな密室のような、女性専用待合室に。その部屋の片隅の、地面の下に埋めてある。乗換駅とは言いながら、支線のプラットホームは、石造りではない。女性専用待合室の床も、石屑を敷き詰めた土の床である。その上に、彼は自分の寝床を敷く。寝床とは、一枚の麻袋である。夜になるとそこに麻袋を広げ、その上に身体を丸めて寝る。
ボルドマン行きに取り憑かれていた心も、次第に冷めてきた。「黒いお方、あなたを待って ……」の歌を彼は歌い、人びとは賞讃し、ポンキは恭しい笑みを浮かべる。だがあの、チョイトロ月の昼ひなか、田舎駅のプラットホームで、柔らかい両足に顔をつけて拝んだ記憶は、もはや頭に浮かんでこない。あの甘い、心をとりこにした匂いのことも、思い出せない。いや、思い出しはするのだが、胸の中が、あの時のような「あくがれ」に満たされることが、ないのだ。
それから何日経ったことだろう。はるかな日々である。
不意にその日、彼の全身を、ブルブルが貫いた。線路の上を汽車が走る時、その音と感触に、身体に震えが走るように。あの歌だ! あの歌声だ! 今日は歌だけでなく、歌と一緒に楽器も鳴っている。駅舎の前で、ご婦人が歌っている。
黒いお方、あなたを待って
……!
ポンキは、走るようにしてその場に駆けつけた。ご婦人のまわりに、たくさんの人だかりがしているのがわかる。小さな子供までいる。
歌が終わると同時に、彼は、手を合わせて呼びかける、ご婦人!
―― 誰だ、おまえは?
―― へえ、旦那、歌を歌いなさったご婦人を、お呼びしているんで。
同時に笑いの渦が巻き起こった。一人が言う、バカみたい!
再び歌が始まる ――
その煌めきが、目に刺さる ……
ポンキの胸は戦いた。あの歌だ。吟遊詩人のニタイから習った、彼の、あの歌 …… ご婦人は、ポンキから、口伝えで覚えたのだ。
歌が終わった!
―― おれのこと、忘れちまったんですかい、ご婦人! おれ、ポンキだよ …….
―― この野郎、おい! とっとと失せろ!
追われても、もう離れはしまい。息を凝らしたまま、彼はその場にすわっている。汽車の到着を告げる鉦が鳴った。一行は、その場に広げた荷物をまとめた。一人が言う、蓄音機をちゃんとしまえよ。レコードを箱の中に入れろ。
汽車が来て、去った。驚く、駅員、店の主人 ―― ポンキの姿が、どこにもない!
それからさらに、時が過ぎた。何年もの歳月が。ポンキの髪には、白いものが混じる。出っ歯の口からは、歯が何本か抜け落ちた。耳で聞く力も、衰えてきた。線路に足を乗せても、遠くから汽車が来るかどうか、もはや判別できない。
ポンキは、ある聖所の道端にすわって、物乞いをしている。歌を歌うことも少なくなった。彼は言う―― 盲の乞食に、哀れみを、旦那! 盲にお恵みを、奧さん! 母なる豊饒の女神様!
母なる女性たちが通る時、ポンキの懇願は熱を帯びる。裸足なので足音ではわからない …… だが、絹のサリーのカサカサいう音や、礼拝用の花の香りで、ポンキは、母なる女性たちが来るのを、それと知る。
布施が少ない日には、彼は歌を歌う。
その日、彼は歌っていた。「その煌めきが、目に刺さる ……」は、近頃では気に染まない。信愛歌を歌うことが多い。「黒いお方、あなたを待って ……」を、ときどき歌う。その日歌っていたのは、まさにこの歌だった。
歌い終わると同時に、笑いとともに誰かの声 ―― おまえ、何度、レコードで歌ったことか、この歌を。巷に、溢れかえっているぜ。
女のとても微かな笑い声が、ポンキの耳に届いた。 ―― 何度も歌ったわ。でも、黒いお方、一度でも、お聞き届けになって?
―― またおまえの口癖が出た! もう聖所に、用はないだろう。さあ、さっさと帰ろうぜ。
―― もう、たくさん。私も歳をとったわ。暗闇に包まれてきたの、世界が。これで、もう ……
痺れを切らして、ポンキが口を開く ―― 奧さん、少々、お恵みを? 盲の ……
彼の手に、何かがひとつ、落ちてきた。
男が言う ―― 半ルピー銀貨だ。パイサ貨じゃないからな、おい。
―― 銀貨?
―― ああ。
銀貨? 贋貨じゃないだろうな? 手で撫でてみる …… 地面に投げて、音を確かめる。その後、満腔の感謝をこめて手を差し伸べ、女の足の甲をその手で撫で、帰敬した。
彼らが去る。その足音がした。
鳥たちが啼いている。日が暮れたのだろう。ポンキも立ち上がる。
輝き姉さん(ランガ=ディディ)
輝き姉さん(ランガ=ディディ) 解題
タラションコル・ボンドパッダエ(1898~1971)円熟期の短篇。文学誌『インド』(ベンガル暦1347年バドロ月号、西暦1940年8月出版)に掲載されました。絵巻物師(ポトゥア)の女性を描いた作品です。ポトゥアは、ベデと同じく(5回目掲載の「ベデの女(ベデニ)」参照)、イスラーム教徒でありながらヒンドゥー教の習俗を守る出自集団(ジャーティ)です。この作品には、インド神話や口承文化・民間信仰のさまざまな要素が盛り込まれ、当時のベンガルの、豊かな土着文化を支える人びとの生き様が、あますところなく描かれています。
主な登場人物は、すべてインドの神々や聖者の名前で呼ばれています。
ランガ=ディディ(「輝き姉さん」)の綽名で呼ばれる主人公の女絵巻物師の本名、ショロッショティ(サラスワティー)は、学芸の女神(弁財天)で、彼女が土人形作りや口承芸に長けた土着文化の継承者であることを示しています。また、その夫の老いた絵巻物師、ゴノポティ(ガナパティ)は、象の頭を持つ財運の神、ガネーシャの別名。彼が富をもたらす存在であること、また象の長い鼻の比喩から精力旺盛であることを示唆します。
ショロッショティを愛する若き絵巻物師の名、ゴノッシャム(ガナシャーマ、「雨雲のように黒いお方」の意)は、クリシュナ神の別名。ゴノポティが彼につける呼び名、ケロ=ショナ(「黒い黄金」の意)も、クリシュナ神の愛称。さらに、後半に登場する大地主家の息子は、中世にクリシュナ信仰を広めた聖者チャイタニヤ(1486~1534)にたとえられ、ショロッショティは、彼を、チャイタニヤの愛称、ゴウルチャンド(「白い月」の意)で呼びます。
ゴノッシャムとショロッショティの間の関係は、クリシュナ神話を背景にした歌や巧妙な言葉の応酬を通して比喩的に表現されます。ゴノッシャムの妻がショロッショティに対して抱く嫉妬は、ラーダーの夫の姉クティラーがクリシュナ神のもとに走るラーダーを非難する絵と歌とで代弁され(「クティラーは ...」で始まる歌)、また二人の間の恋の戯れは、クリシュナ神の舟遊びの場面(「他の女伴侶なら…」で始まる歌)や、クリシュナ神の笛の音に魅せられたラーダーの水汲みの場面への言及によって示唆されます。
ショロッショティが売る腕環のうち、「彩り腕環」と訳した「レショミ・チュリ」は、直訳すると「絹の腕環」、ラージャースターン州などの北西インド由来の、彩り豊かなガラス製の腕環です。また、彼女が作る人形、「ふさふさ髪(を持つ女)」、「チャンパの花(のような女)」、「着飾り女」、「庭師の女」、「牛飼い女」などは、ベンガルの口承の歌物語に登場する村の娘たちの姿をかたどっています。
彼女が良家を訪れて作る「カンタ」は、ベンガルの女性たちの伝統的な手工芸で、古布を継ぎ合わせ、さまざまなパターンの刺繍を縫い付けて作られます。ハンカチから座布団、枕カバー、肩掛け袋、敷布に至るまで、さまざまな大きさ・用途のものがあります。
絵巻物師(ポトゥア)の生活、彼らが描く絵巻物やその物語については、西岡直樹さんが、『インドの樹、ベンガルの大地』(講談社文庫)、『インド動物ものがたり』(平凡社)、『サラソウジュの木の下で』(平凡社)などの一連の著作の中で、親しく描かれています。ぜひご参照ください。
輝き姉さん(ランガ=ディディ)
タラションコル・ボンドパッダエ
絵巻物師の娘――その上、年寄りの若妻である。まるで、衰えたマンゴーの古木にまとわりつく、黄金色のネナシカズラのようだ。老いさらばえたマンゴーを、自分の身体の網でがんじ絡めに覆い尽くし、その蔓の数々の先端を、雌蛇が鎌首をもたげるように、まわりの甘い薫りを放つマンゴーの木々に向かってもたげて踊る――年老いた絵巻物師ゴノポティの若妻ショロッショティも、まさしくそのように身をくねらせ、踊るように巡り歩くのだ。
絵巻物師ゴノポティは、この地域の絵巻物師の社会ではよく知られた名匠である。彼の筆になる絵巻物は、白人や高位の方々が買い取っていく。――まこと非の打ち所のない、カラスウリの実のようにふっくらと切れ長の目、ゴマの花にそっくりの小鼻、片掌でつかめそうにもほっそりした腰、そして水甕のように丸々とした豊かな胸――誰の筆を以てしても、これほど見事には描けない。ゴノポティは、筆で絵巻物を描き、手で人形や神像を作る名匠であるだけではない。彼が創る、絵巻物の偉大さを褒め讃える歌や、神々のさまざまな戯れの歌物語も、人口に膾炙している。ゴノポティの歌は、官報にも掲載されたそうだ。「ドゥルガー女神が貝の腕輪をつける」、「シヴァ神が魚を捕る」「シヴァ神の農作業」「クリシュナ神が土を食べる」等々、多くの歌物語を彼は創作した。この地域の絵巻物師の社会で、富・名声・技量において、ゴノポティに並ぶ者はない。歳を取ってから、この男は、絵巻物師の娘ショロッショティを見てすっかり前後を失い、遂には彼女と結婚する仕儀に至った。ショロッショティの両親は、ゴノポティの財を見て、嫌とは言わなかった。多額の金を払って、老人はショロッショティを家に迎え入れたのだ。老人の何人かの遠縁の孫たちが、金を出し合って、面白半分に革職人たちを呼び、結婚祝いの楽器演奏をさせた――大太鼓と角笛である! ゴノポティ老人はだが、横紙破りの性格である。彼は腹を立てるどころか孫たちをもてなしてすわらせると、腹いっぱい甘菓子をご馳走して帰らせたのだ。
こう言う諺がある:
ポトニとノトニ、
おんなじ身振り、おんなじ調子、
どっちがいい? どっちが悪い?
「ポトニ」とは女絵巻物師、「ノトニ」とは踊り子で、この二人は同じだと言うのだ。体の動き、話し方、毎日の習慣、身振り素振り、泣き笑い――両者の間に、ほとんど見るべき違いはない! 表裏一体とでも言うべきだろう――言うなれば裾模様入りのサリーの、表と裏のようなものだ。ショロッショティも絵巻物師の娘である。新妻だと言うのに、彼女は羞じらうどころか顔を斜めに構えてくすりと笑い、あらぬ方に視線を逸らす。彼女の深紅の色粉をつけた唇の蔭から、お歯黒を塗った褐色の歯の列が、まるで汚れた線のようにその姿を見せつける。それは決して自分の姿を隠そうとはしない。そして何よりも驚くべきことは――彼女のその、笑みと汚れに刻印された顔の上に、悲しみの新月が訪れることは、決してないのである。つとよぎる薄雲のように、サリーの裾が彼女の頭を覆うことがあっても、その顔が完全に隠れることは、一瞬たりともないのである。
男たちの昼食の用意を済ませて、午前10時になると、絵巻物師の女たちは商いのために家を出る。ガラスの腕環、土製の人形、小さな数珠を繋いだネックレス、お守り用の腰紐、女たちが額に飾るキンカネムシやタマムシのキラキラ光る羽根を籠に並べ、彼女たちは、村から村へ、行商に出かけるのだ。色鮮やかな斑模様入りの短いブラウスの上に、イスラーム教徒風にサリーをぐるりと巻きつけて身体を覆い、頭上に籠を載せる。すっかり習い性となっているので籠を手で支える必要すらない、両腕を思いのまま揺らしながら体をくねくね動かし、ごく狭い路地でも平気で進む。村に入ると一種独特の調子で声を張り上げる――彩り腕輪、いらんかね〜! 箱い〜り〜 む〜すめ〜! あお〜い ほうせ〜き〜! バラ〜の みや〜び〜!
腕環の色の違いに従って、彼女らは自分たちでいろいろな名前をつける。黄色の腕環の名前が「箱入り娘」、濃緑色のものが「青い宝石」、そして「バラの雅」はバラ色である。深紅の腕環の名前が何よりも振るっている――「心の虜」!
人形にも名前がある――「ふさふさ髪」、「チャンパの花」、「ヤムナー川」。「ふさふさ髪」の頭にはまったく不釣り合いな結い髪、「チャンパの花」の胴体は黄色、そして青い色の人形の名前が「ヤムナー川」 [クリシュナ神と人妻ラーダーの逢い引きの川]
である。頭に水瓶を載せた「牛飼い女」、手に籠を持った「庭師の女」、これらは昔ながらの名前である。この他にも、天馬、虎、ライオン、吉祥天の梟等々。ショロッショティは自分で人形を作る。ゴノポティは、自ら進んで、彼女にこの技を仕込んだのだ。
行商に出るとなれば顔を出さないわけにはいかず、饒舌にもならざるを得ない。だがショロッショティは、すべてにおいて異彩を放つ。顔とともに、結った縮れ髪も開けっぴろげのまま、笑うとお歯黒を塗った歯の列が汚れた線のように現れる。その汚れた線は、目に露わなだけでなく、音まで伴っているのだ。その姿形と声音に触発されて、彼女の出自に固有の饒舌が、踊り子の足鈴のように鳴り響き、人びとを酔わせ、恥じることを知らない。市では、彼女は進んで人に声をかけ、行商の品を売りつける。小物屋で石鹸を買っている青年を呼びつけ、彼女は笑いながら言う
―― 腕環を買わない? 腕環を?
―― 腕環?
―― そうよ、腕環よ。「箱入り娘」、「青い宝石」、「バラの雅」、「心の虜」! どれがいい?
ショロッショティのお歯黒を塗った歯が、微笑に伴って少しだけ露わになり、黒い稲妻のように間を置いて輝きを放つ。男は黙っているが、その場を離れることもできない。ショロッショティは言う
―― すわってよく見なさいよ。あんたの奧さん、どんな色なの? あたしが見繕ってあげるわ。私みたいに、色白?
男は思わず笑みをこぼす。――いいや!
――じゃあ、どうなの? バナナの若葉みたいな色? それとも、もっと黒いの? ムラサキフトモモの実みたいに、真っ黒?
しまいには、深紅の彩り腕環、「心の虜」を、まんまと売りつける。
絵巻物師の女たちには、もう一つの商いがある。良家の奥様方から、古布を継ぎ合わせてカンタを作り、その上に模様を縫い付けるよう、お声がかかる。三四種類の大きさの違う針を手に、彼らはそうした家に出向く。奥様方は布切れと赤い広縁のサリーを渡す――彼女たちは素早い巧みな手つきでカンタを縫い上げ、その上に、まるで機械のように正確に模様をつける。模様のさまざまなパターンも彼女たちは会得している。蓮の葉、鳥、花、ナツメヤシの葉、菱形のミルク菓子、ヴリンダーヴァナの森 [クリシュナ神とラーダーの逢い引きの森]、水波、等々の紋様を、彼女たちは、目を閉じたままでも縫い付けることができる。絵巻物師の娘は、五歳になると中庭に座り、母親や祖母から、土塵の上に指で紋様を描くことを学び、身につける。良家の奥様方や女召使いたちは、触れるのを怖れて離れてすわり、彼女たちの自由自在な針の動きを感嘆したまなざしで見つめ続ける、そして遠い村々のいろいろな家の噂話を聞く。饒舌な絵巻物師の女たちは、奥様方の顔に目を遣り、針を動かしながら語り続ける、どの村のどの家の嫁が新しい腕環を身につけたか、その腕環の紋様はどんなか。どの村のどの家の嫁の腕環が、突然消え失せたか。どの家の奥様の声が、クルクシェートラ
[パーンダヴァ王家とカウラヴァ王家の主戦場(『マハーバーラタ』)] のどの角笛のように甲高く響きわたるか。どの家の嫁の話しぶりが貝殻を削る鉋のようで、良い噂も悪い噂も、どちらも撫で切りにせずにはおかないか――等々。
ショロッショティは、さらに加えて、奥様方や女召使いたちをネタに、面白半分に冷やかし、笑いに顔を綻ばせながら即興で気の利いた俚諺を唱え、男女間の情愛のさまざまな機微を説いて聞かせる。彼らが彼女に、ゴノポティについて何か質問をしようものなら、それはもう、えらいことになる。サリーの裾で口を覆って恥ずかしがるフリをしながら彼女は笑い始め、その笑いは止むことを知らない。しまいには縫っていた針を片付けて言う――
もうこれ以上、無理ですわ、奥様。今日はこれで失礼して、明日また参ります。あの人ったら、まるで敵に喰らいつくみたいに、一度しゃぶりついたら、やめろと言ってもきかないんですよ!
ショロッショティが立ち去ると、女たちは、自分たちが貞操を律し品行方正であることを見せつけるために、口を揃えて言う ―― ショロッショティの恥知らず、死んだ方がマシよ! いくら年寄りとはいえ、旦那は旦那でしょ! それを物笑いの種にするだなんて!
ショロッショティの笑いはしかし、それでもまだ止むことはない。帰り道を歩きながらひとりほくそ笑む、あるいは家に帰ると、絵巻を描くのに忙しいゴノポティに向かって笑いかける
―― 奥様連中、何て言ったと思う?
絵巻から目を離して彼女の顔の方を見つめると、ゴノポティは微笑を浮かべながら聞く ―― 何て言ったんだい?
口をサリーの裾で隠すと、その彼を指さしながら ―― あんたのことを、聞いたのよ。
好奇心を唆られ、ゴノポティは、手にしていた絵筆をいったん下に置いて尋ねる ―― 何を聞いたんだい?
―― あのねえ …… 生真面目になろうと努めながら、ショロッショティは答え始める ―― あのねえ …… だが、それ以上続けることはできなかった。
―― 何て言ったんだい?
ガラスの器が、突然、美しい響きとともに砕け散ったかのようだった。無邪気な声で笑い転げると、ショロッショティは言った ―― どうして老いぼれと結婚したのかって
……
ゴノポティの顔は好奇の笑みに輝いた ―― で、おまえは何と答えたんだ?
―― あのね、こう言ったのよ ―― 老いぼれだからと言って、奥様、捨てたもんじゃありませんわ。10万ルピーの値打ち物ですわよ。死んだ象にも10万ルピー、って諺がありますでしょう? 私のこの象は、老いぼれとはいえ、まだ死んでもいないんですよ。ゴノポティとはつまり、象神のこと。ガネーシャ神には、ながーい鼻が、ついているんですから!
ゴノポティははあはあ大笑いをすると言った ―― 何度も肩を揺すって賞讃を表しながら ―― よくぞ言った、ショロッショティ ―― まったくおまえの言う通りだ。老いぼれ象! ゴノポティとはつまり、ガネーシャ神! ガネーシャの頭には、長い鼻! まさに、図星だ!
ショロッショティは、足を投げ出してすわると、微かに笑い始めた。
ゴノポティは、不意に絵筆を手に取ると、ショロッショティの投げ出した足の片方を左手でつかんで言う ―― 絵筆で、おまえの足にアルタ [漆をベースにした赤い汁を、足の甲・指・踵の回りに塗る。女性の化粧のひとつ] を塗ってやろう!
ショロッショティは一瞬眉を顰めたが、次の瞬間、お歯黒を塗った歯を見せつけて笑い始め、―― でも、あの子たちが来たら、言いつけちゃうわよ!
ゴノポティは、それに答えることすらしなかった。あの子たちとは、遠縁の孫に当たる村の若者たちである。毎日日暮れ時になると、彼らはここに礼拝に来、それが終わると夜更けまで雑談に花を咲かせ、一騒ぎする。彼らは徒党を組んで次々に謎々を繰り出し、ショロッショティを打ち負かそうとする。ショロッショティはひとりそれに立ち向かうと、彼らに向けて謎々の矢を浴びせ返す。老いぼれゴノポティは微笑を浮かべながら傍観している
―― 必要とあらば仲裁に入って、甲乙をつけるのにも吝かではない。
絵巻物師たちは、イスラーム教徒であるにも拘わらず、日々の習慣・身振り・名前においては完全にヒンドゥー教徒である。イスラーム風の礼拝をするいっぽう、ヒンドゥーのブロト儀礼や宗教習慣も守り、ヒンドゥー教で禁じられているものを食べもしない。男女の神々の像を造り、絵巻にヒンドゥー教のプラーナ聖典に基づく物語の絵を描く。その絵巻物を見せながら、節をつけて神々の戯れの物語を吟じ、喜捨をもとめる。出自を問われると、イスラームと答える。農耕には手を染めない。家、行商する道、所帯持ちの家々の扉――この三つ以外に、土との繋がりはない。まさにこのために、ショロッショティのような女であっても、彼らの社会は罰することをしないのだ。だが、彼らの舌も、やはり人間の舌である
―― 誹謗中傷には事欠かない。絵巻物師の居住区は、ショロッショティに対する悪口雑言に満ち満ちていた。だが、遠い地平線の稲光のように、その悪口の兆しは見えても、生命を脅かす稲妻や雷の轟きがショロッショティとゴノポティの目の前に姿を現わすことは、これまで決してなかった。その稲光の熱と雷の轟きに、ショロッショティは、その日初めて出くわしたのだ。その日、市からの帰り道、ショロッショティには彼女と同年輩の女の共連れがいた。彼女の日暮れ時の集まりにいつもやって来る、遠縁の孫の連れ合いである。途次の人気ない野原で、その女は言い掛かりをつけて口論を始め、まさに稲光のように火を噴き、ショロッショティに向かって金切り声を上げた
―― この恥知らず! ひとでなし! 首に縄を巻いて、死んじまえ、首に縄を巻いて!
ショロッショティは大笑いして言い返した ―― 首に縄を巻いて、ムクバナタレオボク [幽霊の住処と信じられる] の枝にかけると、お化けが恐くってね。あんたの旦那に縋りたくなるわ!
共連れの女は前後を失い、ショロッショティのもとを離れると、横道に逸れて別の村の方角に向かった。
家に戻ると、ショロッショティは口をサリーの裾で覆い、身を踊るようにくねらせ、笑いながらゴノポティに向かって言った ―― いいものを手に入れてきたわ!
ゴノポティは、クリシュナ神物語の絵巻を描いていた。彼は驚く様子も見せず、笑みを浮かべて言った ―― 何だい?
―― ごらんなさい!
彼女は籠を開けて中を見せた。
―― おやおや! こんなにたくさんの小粒トウガラシ、どうする気だ?
―― 近所に配るわ!
―― どうしてだ?
ショロッショティは笑い崩れた。それでも何とか自分を抑え、道での出来事を洗いざらい話すと、笑いながら言った ―― 私が育てたトウガラシだ、って言ってやるわ。トウガラシを食べたオウムはとても口まねが上手なの、あんたたちも食べてみるがいいわ、私の言うことなら、何でも聞くことになるから、ってね!
ゴノポティは、口に悪戯っぽい微笑を浮かべ、魅せられたように彼女の顔を見つめていた。
―― どうしたの、黙っちゃって? 老いぼれ象の頭に、鉤棒を一突き、お見舞いしましょうか?
こう言うと、ショロッショティは、また口をサリーで覆って笑い始めた。
ゴノポティは言う ―― トウガラシより、チテ・コドマ [コドマ(カダムバ)の花の形をした、ねっとりした甘菓子、コドマ菓子はショロッショティ女神の祭祀で振る舞われる] を配ったらどうだ、やんちゃ娘のショロッショティさん? みんなの歯にひっついて、口を開けることができなくなるぞ!
―― そんなの、つまんないわ!
ショロッショティにはこの考えが気に染まなかった。
しばらくして、ゴノポティはショロッショティを呼んだ ―― ごらん!
彼は、新しい絵巻物の、描いたばかりの場面を彼女に示した。ヤムナー川のガート [川岸にある階段状の共有施設、沐浴・洗濯などに使われる] で、一人の女の顔を別の女が指さしながら、怒りに目を見開いて佇ちつくしている。
クリシュナ神物語の絵巻物の中に、ショロッショティは今まで、このような場面を見たことがなかった。彼女は驚いて尋ねた ―― これ、いったい何の絵なの、師匠?
ゴノポティは、左手で絵巻を差し上げ、右手で絵を指し示しながら、節回しをつけて誦し始めた ――
クティラーは 両の目を ギラギラ燃やし、
歯ぎしりしながら ラーダーに言う:
「このライの 恥知らず! ひとでなし!
おまえみたいな面汚し この牛飼い村に、他にいないわ!」
ショロッショティは、地面に身を転がして笑い始めた。長いことこうして笑うと、身を起こしてすわり直し、絵の方に目を注ぎ始めた。そして言った ―― でも、クティラーの鼻を、もう少し上に向けてやればよかったのに! こーんな風に!
こう言うと、彼女は鼻に皺を寄せて、上に向けて見せた! ゴノポティは笑った。ショロッショティは、改めて、一心に絵を見つめ始めた。もう一度眉に皺を寄せて、口を開いた
―― いったい、どの店の絵の具を取り寄せたのかしら? どの色もみな、埃っぽくて、がさがさしているわ。
―― 土埃がついたんだよ、絵の具のせいではない。道に面した部屋、ファルグン月 [2月半ば〜3月半ば、春の季節] の田舎道だ …… 馬車や牛車が通る度に、埃が舞い上がる!
この言葉にも、ショロッショティは笑い転げる。
―― あんたの頭、どうなってるの! ひ ひ ひ ひ! 一本一本、白髪の先っちょに、土埃がくっついてるわ …… カダムバの花に、そっくり!
共連れの女が腹を立てたのには、理由があった。女の夫の絵巻物師ゴノッシャムは、ゴノポティの孫仲間の中で、ショロッショティが一番可愛がっている相手なのだ! ゴノッシャムは、煉瓦造り職人として、結構な実入りがある。時代の変化とともに、絵巻物師の男たちは、いくつかの新しい仕事をするようになった。以前、彼らは絵巻を描いた――絵巻物を見せながら節回しをつけて物語を誦した、絵巻物がなくてもモンディラ
[鐘青銅の小さなシンバル] を鳴らしながらプラーナ聖典の物語を誦し、神像を作り、人形を作り、煉瓦造り職人として働いた。手先が器用でない男たちは、土の家を作ったものだ。いま彼らは、壁に油絵の具で蓮の葉や花の模様を描く――木材に彩色したりニスを塗ったりもする。中には織工の仕事をする者もある。ゴノッシャムは彩色の仕事を覚えたので、あちらこちらの裕福な家に出向いて壁に色を塗る。街の市場から、彼は、ショロッショティのため、並みのジョルダ
[タバコの葉に薬物を混ぜて作る香辛料、キンマの葉に包んで食する] を毎回手に入れる。銀色ジョルダやキマム [ミントの香りの彩り豊かな香辛料、キンマの葉に包んで食する]、あるいは他の贅沢品を、二三供することもある。
ゴノッシャムは彼女を、「輝き姉さん」と呼ぶ。
ショロッショティは、お歯黒を塗った歯を露わにして、彼を「黒い黄金」と呼ぶ。
ゴノッシャムは色黒である。ゴノポティ自身が、彼にこの綽名をつけたのだ。
その日、ショロッショティが配り歩いた激辛の小粒トウガラシは、近隣の家々に不快の種を撒き散らした。孫たち一行は、渋面を引っさげてやって来た。ゴノッシャムに対する偏愛は、これまで、丸のままのトウガラシのように、それがもたらすにはおかぬ苦痛を、秘密めかした冗談の蔭に覆い隠してきた。この日、ショロッショティ自らその覆いを引き裂き、中にある毒を解き放ったのだ。ゴノッシャムもやって来たが、彼も気分を害していた。彼の妻が彼を烈しく責め立てたのだ。
ゴノポティは新しい絵巻物を見せていた。ショロッショティは料理しながら、いつものように、面白おかしい謎々の矢を、次々と繰り出していた。だが、相手の孫たちからは、今日はなかなか反応が返ってこない。ショロッショティは水が足りなくなったので、水甕を腰に載せて立ち上がった。
―― 誰が案内してくれる? あんたたち色男の中で?
一人が言う ―― あんたの黒い黄金がいるだろ?
―― じゃあ、あんた来て、私と一緒に。
ゴノッシャムは立ち上がった。
一人が言う ―― 黒い黄金が行くとして、労賃を払うのかい、輝き姉さん?
縁側から中庭に下りると、ショロッショティは振り返ってその場に立ちつくす。
―― 何のための労賃? ただ働きをするのに、いったい誰が労賃をもらえるというの?
―― どんでもない! ゴノッシャムは、ただじゃ働かないぜ!
――ただ働きしない、ですって?
―― そうさ。やつは黒い黄金だ。黒い色の黄金、黄金の石の器だ。それが、どうしてただ働きしなきゃならねえんだ?
ショロッショティは、高らかな笑い声とともに言った ―― それもそうね! ねえ、黒い黄金、労賃に何がほしい?
ゴノッシャムが口を開く前に、一人が声を上げた ――
他の女伴侶なら 駄賃は 1アナ [4パイサ]
ラーダーからは 黄金の耳飾り!
別の一人が、すぐさま口を開く ―― あんたを輝き姉さんと呼ぶのはもうやめだ …… これからは「色女」だ。
黒い黄金が 名前をつける ラーダー色女と
あんたの名前は「色女」だよ。
ゴノポティは大笑いして言った ―― おい、孫よ、よくぞ言った。その褒美に、おまえがまずこいつを吸うんだ! さあ、受け取れ!
彼は、水煙管を丸ごと差し出した。
ショロッショティは開けっぴろげに笑い始め、身体を大きく波打たせ、身を翻してガートに向かって佇むと、口を開いた ―― じゃあ、笛を持ってきなさいな、黒い黄金。ガートの縁に立って、あんたは笛を吹くのよ …… 私はそれに合わせて、水を何度も、汲んだり捨てたりするわ。
ショロッショティのこの恥知らずな言動を前に、孫たちの一団すらも、この日、呆然としたのだった。ゴノッシャムとの間の秘かな恋愛を、こんな風にあからさまに宣言したのを見て、彼らは、全身嫌悪に総毛立った。一人がゴノポティに向かって言った
―― おれたちはあんたを尊敬するし、愛してもいるよ …… だが、今度という今度は、首を縊って死んじまった方がいいぜ! この恥知らず!
ゴノポティは、それに応えて、集まった孫たちの数を数え始めた。皆、驚いて彼の顔を見つめていた。数え終わると、いかにもがっかりしたというように、彼は言った
―― 多すぎる。五人どころか、八人もいる。五人だったらなあ …… あいつの名前を、ドラウパディーにしたんだが …… おまえたちも、パーンダヴァ族の兄弟になれたんだが。
[ドラウパディーはパーンダヴァ族五人兄弟の共通の妻(『マハーバーラタ』)]
言い終えると、老いぼれゴノポティは、微かに笑い始めた。
孫たちは、数瞬、沈黙を守ると、そのまま一人、また一人と立ち上がって、その場から去った。
ショロッショティは、高らかな笑い声をあげながらガートから戻った。ゴノッシャムは、黙って明かりを足下に置くと、虚(うつ)けのようにその場に立ちつくした。ゴノポティは言った ―― すわったらどうだ、黒い黄金!
ゴノッシャムはごくりと唾を呑み込むと言った ―― 夜も更けたんで …… いや …… 帰ります。
こう言いながら、彼は退散するのに忙しかった。ショロッショティの笑いは、さらに弾けた。
ゴノポティは、何も聞き質すことをせず、刻みタバコの葉を煙管に詰め始めた。ショロッショティは、口をサリーの裾で覆うと、笑いながら言った ―― 老いぼれと別れて、おれと結婚しろ、ですって!
ゴノポティはギクリとして顔を上げ、ショロッショティの顔の方を見遣ったが、次の瞬間には、彼もまた微かに笑い始めた。
翌日から、孫たち一行は、ゴノポティの家に礼拝をしに来なくなった。別のある年寄りの絵巻物師の家を、礼拝の集いの場とした。絵巻物師オビラムは、財においてはゴノポティに引けを取らない。彼は、優秀な煉瓦造り職人で、趣味のいい紋様を描くのが得意である。だが絵巻物師の伝統の点から言うと、煉瓦造りの仕事はこの社会ではさして価値がない。オビラムは、こんな風に思いもよらず、礼拝をする若者たちすべてを手中にする機会を得て、欣喜雀躍した。彼は、軽食やタバコばかりか、一束のビリまで用意したのだ! ドゥギとタブラ
[伴奏用の左右一対の太鼓] にモンディラを買い揃え、物語歌を競い合う集いのお膳立てまでしたのである。
だが、ゴノッシャムだけは、ゴノポティの家に通うのを止めなかった。このことをめぐって、絵巻物師たちの女社会は非難囂々だった。彼女たちは、ショロッショティと一緒に商いに出かけることすら打ち切ったのだ。だがそれでもショロッショティには何の支障もなかった。腕環や人形を入れた籠を頭に載せて、彼女はひとり、村々を巡り歩いた。近隣の女たちの口から口へと、あたり一帯に彼女の醜聞が伝わったため、市では、蜜に群がる蜂のように、彼女の売り物の前に人だかりができるようになった。人通りの少ない道端でさえ、買い手の一人や二人には事欠かない。ショロッショティは、すぐその場で、腕環や人形の入った籠を下ろしたものだ。彼女の輝き姉さんという呼び名すら、誰もの知るところとなった。買い物客たちは、笑いながらこう呼びかける ―― 輝き姉さん!
彼女は答える ―― どれがお好き、お孫さん!
ゴノッシャムは、ある日、これを聞いて腹を立てた ―― 何が輝き姉さんだよ、バカバカしい!
ショロッショティはそれには答えず、彼を鼻であしらって事を荒立てた。
―― 笑うんじゃない、笑い事じゃないだろ!
次の瞬間、彼女は口をサリーの裾で覆い、湧き起こる笑いに身を任せた。
ゴノッシャムは腹を立ててその場を去った。それから二日間、姿も見せなかった。三日目に、ショロッショティは籠を頭に載せて、一里ほど離れたゴパルプルへ向かう道を辿った。ゴノッシャムは、いま、その村の大地主家の古い館を、新たに塗り替えているところだった。旦那方が、都会を離れ、この家に住むことになるのだそうだ。村では、ショロッショティはもはや誰の家にも行かない。行くと、女たちが、なりふり構わず、口論をふっかける。
巨大な柱の列に支えられた、大地主家の本館事務所である。正面入り口の両側には、石灰塗りの白い二頭のライオンの像がある。ショロッショティは、入り口の扉の前に立ち、顔を笑いに綻ばせると声を張り上げた
―― いらんかね〜! いろど〜り〜 う〜で〜
最後まで言い終えることができず、無邪気な笑いを爆発させた! だが、その笑いは突然遮られた。事務所の入り口の扉の前に、二十歳過ぎの、どこかの王子様に見紛う黄金の姿が現れたのだ!
ゴノッシャムも出て来たが、彼は蔭に隠れて、何度も手で合図を送っていた ―― 退散しろ、退散しろ! と。
ショロッショティは、だがその時、ゴノッシャムの合図を受け止める余裕がなかった。驚きのあまりその目はうっとりと見開き、王子様の方に釘付けになっていた。
若者は、実際、王子様、即ち大地主家の長男だった。最近、学位認定試験を終えて、前の日にここにやって来たのだ。ここで何日が休養を取る予定である。彼は眉を顰めて口を開いた
―― 何の用だ?
―― 腕環、彩り腕環があるんです。いらんかね?
若者は声を上げて笑うと言った ―― 腕環をどうしようって言うんだ?
ショロッショティは、一瞬気勢をそがれた。だがすぐに言葉を見つけて返した ―― 奥様の手につけて差し上げましょう。
―― その奥様はいないよ。腕環はいらない。
―― 人形、人形はいらんかね?
―― そんなもの、どうするんだ?
―― テーブルに飾ったらいいですよ。白人の旦那方も、私たちの人形を買って行くんです。
―― そうなの? 見せてごらん、君の人形を。
ショロッショティは頭から籠を下ろした、彼女なりの恭しい素振りを見せながら、しかも生まれて初めてサリーの裾を引いて、頭をしっかり覆い隠したのだ。そうしてから土製の人形を取り出した――「ふさふさ髪」、「着飾り娘」、「庭師の女」、「牛飼い女」、馬、虎、ライオン。
王様の息子は、すっかり心を奪われて言った ―― うわ〜! この人形、君たちが作ったの?
―― そうなんですよ!
馬を取り上げて、ためつすがめつ眺め、若き地主は言った ―― これ、馬なの?
―― そうですよ。翼の生えた馬です。空を飛ぶんですよ! ふつうの馬じゃありません。
―― なるほどね。で、いくらなの? 言ってごらん?
ショロッショティは、含み笑いをすると、頭を隠したサリーの裾をさらに引いて言った ―― あらまあ! 値段なんて、私には言えませんわ …… お代をいただくだなんて! お布施をくださいな。あなた方の施しが、私たちには宝の山です!
地主の息子は、1ルピー札 [= 64パイサ] をショロッショティの前に投げた。ショロッショティの顔は輝いた、人形の値段は一つ2パイサで、7つの人形に14パイサ以上払う者はいない。彼女は1ルピー札を拾い上げると、それを額に当てて拝み、サリーの端に縛り付けた。そうした後も彼女は立ち上がらなかった。改めて口を開く
―― 絵巻物はいらんかね? 絵巻物は?
―― 絵巻物?
―― はい、ラーマーヤナ、クリシュナ神の戯れ、ゴウランゴ [「白い肢体」の意、チャイタニヤの別名] の戯れ! 白人の旦那方も買って行くんですよ!
―― おお、そうなの! 絵巻物か! 君たちは、絵巻物も描くのか? でも新しい絵巻はダメだよ、古いやつがほしい。ある? 君たちのところに?
―― はい、うちの主人は昔からの絵巻物師で、60歳の年寄りなんですが ―― その筆で描いた絵巻物があります。
―― その主人って、君の旦那のこと? 60歳の年寄り?
―― はい、その通りですわ。
ショロッショティは頭を下げ、膝の間に顔を突っ込むと、くすくす笑い始めた。
ゴノッシャムは、蔭に隠れて、最初から何もかも聞いていたが、ショロッショティの押し殺した笑い声を耳にして、全身、嫌悪に総毛だった。
翌日の真っ昼間、再び甘い声が高らかに響き渡った ―― いらんかね〜! いろど〜り〜 う〜でわ〜 ……
地主家の事務所の窓に王子様の姿が現れた。―― 絵巻物を持って来たかい?
頭に載せた籠を下ろし、頭をサリーの裾で隠すと、ショロッショティは笑って言った ―― あらまあ! 王様が命令されたのに、持って来ずにいられますか?
―― だって、彩り腕環って、言ったじゃないか?
―― いらんかね〜 絵巻物〜 って、変な響きでしょう? こう言うと、彼女は、空いた手でサリーの裾をさらに引き、口を覆って笑い始めた。
―― さあ、君の絵巻物、部屋の中に持っておいで。
部屋に入ると、籠を下ろし、ショロッショティは口を開いた ―― とってもいい絵巻物を、持って来ましたわ。「ゴウランゴの戯れ」の。
―― 「ゴウランゴの戯れ」絵巻って、そんなにいいの?
―― ゴウランゴの絵巻、きっと気に入りますわ。あなた様、ゴウルチャンド [「白い月」の意、チャイタニヤの愛称] のような肌の色で、同じように美しくいらっしゃる
……
―― 何てこと、言うの!
―― そうですわ。私、あなた様を、ゴウルチャンドと呼ぶことにしたんです。ごらんなさい ―― こう言うと、絵巻物を広げ、彼女は節をつけて誦し始めた
――
黄金のゴウルが行く 道を光り輝かせ
娘たちは 羞じらいのあまり 死んでしまいそう
ああ、誰もこの方を 縛れはしない。
30ルピーで三つの絵巻を売って、ショロッショティは、浮かれた仕草で、意気揚々と、身をくねくね踊らせながら家に戻った。3枚の10ルピー札をゴノポティの前に投げ出すと言った ―― ほら! 私のゴウルチャンドが、どんなに気前がいいか、分かるでしょ! 次の瞬間、口をサリーの裾で覆って笑い始めた。
―― 言っちゃったのよ、旦那に …… 怒らなかったわ …… こう言ったの、あなた様を、ゴウルチャンドと呼ぶことにしたんです、ってね。顔が辰砂色の雲みたいに、真っ赤になったわ。
ゴノポティも笑った …… この日は、だが、彼の笑いは翳っていた。彼は言った ―― だが、ゴウルへの愛は、こいつらには我慢できないぞ。女たちはホラ貝の棘のように口さがないし、おまえの黒い黄金も、それに調子を合わせているんだ …… おまえが死んでも、葬ってやるもんか、と言ってな。
ショロッショティは口を覆って笑いながら言う ―― あらまあ! それなら、私、怖くて死んでしまうわ。あんたより前に私が死ぬなんて、私、考えたことないの。あんたはまた、嫁をもらうのよ
…… キラキラ輝く …… チャンパの花のような色の。
ゴノポティは笑って言った ―― そういうわけにはいかないさ、輝き奧さん。わしの身体は、もう、言うことを聞かん。
ショロッショティは笑う、寂しげな笑いを。 ―― そんなこと、考えたらダメよ。
ゴノポティは、それ以上何も言わなかった。
次の日の昼、再び、ゴパルプルの道に、呼び声が響いた ―― いらんかね〜、いろど〜り〜 腕環!
ゴノポティが言ったことは本当だった。だがショロッショティの目には留まらなかったのだ。ゴノポティの身体の中は、空っぽになっていたのだった。それから10日あまり経ったある日、ショロッショティがそのゴパルプルから帰って来て見ると、絵筆を手にしたまま、描きかけの絵巻物の前で、ゴノポティは、ぴくりともせず、凍りついたように倒れていた。抑え難い震えにぶるぶる身体を震わせながら、彼女はその場にへたり込んだ。
ゴノポティは死んだが、彼が生前心配していたことは、杞憂に終わった! 彼の孫の一団は、駆けつけずにはいられなかったのだ。だが、ショロッショティを慰めに来る女は、一人もいなかった。
ゴノポティの埋葬が終わった後、孫たちは、久方ぶりに、また輝き姉さんの縁側にしばらくすわって時を過ごし、家に帰った。
三日ほど後のことである。
ゴノッシャムが朝早くやって来て、縁側に腰をおろした ―― おい、どうしている?
ショロッショティは笑って答える ―― あら、いらっしゃい、色男さん!
前置きなしで、ゴノッシャムは言った ―― さあ、どうするつもりだ?
口をサリーで覆って、ショロッショティは言う ―― 何のことかしら?
―― 結婚の話だ。どうする気なのか、言ってみろ?
―― ダメよ。後妻と一緒に住むなんて、私にはできないわ!
―― あいつと、もし別れたら?
―― ふーん …… それなら、一緒になってもいいわ。
―― 待ってろよ!
―― わかったわ! 私の黒い黄金の約束ですもの。いいわね?
―― だがな。おまえ、今までみたいにうろつき回るのは、なしだぜ。
―― いいわよ!
この話には、しかし横やりが入った。孫の一団の旗頭、ディジョポドが姿を現した ―― おおい、輝き姉さんはいるか?
―― あら、兄弟、どうぞいらっしゃい!
ショロッショティは笑みを浮かべて迎え入れた。
ゴノッシャムは立ち上がってその場を去った。ディジョポドが代わって腰をおろすと、切り出した ―― それで?
ショロッショティは笑いながら ―― 私の話はこれでおしまい、ヒユの葉は萎れちゃった。ヒユの葉よ、あんたはどうして …… [口承の物語の最後の台詞]
ディジョポドは、気圧された笑いを浮かべながら ―― ふん、バカバカしい!
―― 何よ? 何がバカバカしいのよ?
―― 老いぼれ爺さんが死んで、おまえがどうする気か …… 聞きに来たのに …… なのに、おまえは ……
―― 老いぼれが死んだんだから …… 私は結婚するわ。
―― ふむ。 それなら ……
―― いいえ! 後妻と一緒に住むなんて、私にはできないの。お帰りなさい。
―― おれが、もし別れたら?
―― そうしたら、いらっしゃい。私、台座 [婚礼の時、その上に花婿と花嫁が共に立ち、祝福を受ける] を広げて待っているわ。いまはお帰りなさい …… 私、ゴパルプルの地主の旦那に、人形を届けることになっているの。
彼女は籠を整えると、扉に錠を下ろし、家の外に出た。錠を下ろす時、深いため息をつかずにはいられなかった。老いぼれはあの場所にすわって絵を描いたのだ。錠を下ろす習慣が彼女にはなかった。
静まり返った正午。
ゴパルプルの道に呼び声が響いた ―― いらんかね〜! いろどり〜 う〜で〜わ!
だが、地主家の窓が、この日開くことはなかった。どこにもコトリとも音がしない。どの窓も緑色の左右の開きがぴったり閉じられ、一部の隙も見えない!
ゴウルチャンドは立ち去ったのだ。
絵巻物師の居住区は、ほとんどどの家も、忍び泣きのくぐもり声に満ち満ちていた。若い嫁たちは、秘かに顔を覆って涙に暮れていた。だが、誰も、他の嫁たちが泣き暮らしていることを、知る由はなかった。旦那たちは、彼女たちと別れることに、意を決したのだ。
だが、驚くべきことには、ショロッショティは、死なずして彼らを解き放ったのである。
次の朝起きると、皆の目の前から、ショロッショティは姿を消していた。どこに行方をくらましたのか? 孫たちは皆、互いの消息を探り合い、互いの姿を見て安堵した。彼らは残らず家にいた
―― ただ彼女ひとりがいなくなったのだ。
誰もが慌てて裁判官のもとに走った ―― 離婚願いを取り下げるために。女たちは涙を拭い、罵詈雑言に明け暮れた。
彼女をショロッショティの名で知る者はいない。輝き姉さんの腕環と土人形の店は、街では有名である。
熟れたマンゴーのような色白の肌をした、歳のいった輝き姉さんの顧客たちは、決まって、彼女の手製の品物を買い求める。七、八歳の子供たちは、しょっちゅう人形や腕環をこわし、新しいものを買いに来る。
―― 何がほしいの、坊や? 天馬? 昨日買ったのは、人食い鬼が食べちゃったの?
―― なあに、嬢ちゃん? 今日は、どの腕環? 「心の虜」? それとも「青い宝石」?
絵巻物師のばばあには、山ほど金がある、との噂である。
会計係
会計係 解題
タラションコル・ボンドパッダエの初期の作品。『新雑誌』ベンガル暦1342年マーグ月号(西暦1936年1月出版)に掲載されました。
作品の舞台、マーンブーム県は、英領時代には、現在の西ベンガル州の西部辺境地帯のプルリア県とボルドマン県西部に加え、ジャールカンド州(旧ビハール州の一部)の東部を含む範囲を占めていました。この地域の中心地、ダーンバード、アサンソール、ラニゴンジュなどは、インドの石炭産業のメッカです。タラションコルは、結婚後しばらく、彼の妻の実家が経営するこの地域の炭鉱管理の仕事に携わっていたことがあります。また、彼の回想記に、この時期、彼の父方の従兄のもと、ビハール州の耐火煉瓦工場に滞在していた、ともあります。こうしたマーンブーム県での体験をもとに、彼は他にもいくつかの作品を書いています。
小品とはいえ、インドの近代化・工業化が伝統社会に及ぼす影響の一端が、管理主任と会計係の間の世界観の断絶、主任による会計係の生活空間や慣習の侵害、等の記述を通して、会計係に同情的な立場から丁寧に描かれています。タラションコルの重要なテーマのひとつで、後期の長編作品では、より大きな歴史的広がりの中で扱われることになります。
会計係
タラションコル・ボンドパッダエ
マーンブーム県の耐火煉瓦工場の宿舎である。瓦屋根の、長屋のような横一列の平屋住宅、前に列をなして支柱が並ぶ細長いベランダ――そのベランダにすわって、作業員たちは皆、事務所に出勤する準備をしていた。冬の朝、6時半に工場のサイレンが鳴る。オッシニは紅茶を飲む習慣がないので、温めたミルクを器からちびちび飲んでいた。ビカリは屋外での作業に備え、青い色のズボンを穿き、靴下を捜していた。若いボディは毎日25回腕立て伏せをする習慣で、ちょうどその11回目を終えようとしていた。老いぼれ職工のショシは、昨夜食べ残した肉の脂肪の部分を呑み込んでいた。ちょうどその時、工場のサイレンが鳴ったのだ、
ボー ボー ボー ……
仕事の開始を告げる合図に間違いない。間をおいて繰り返し響く。誰もが取るものも取りあえず駈けた。管理主任は新任で、白人顔負けの厳格さだ。彼が決めた新しい規則では、6時半のサイレンが鳴ってから5分以内に、全員事務所まで来て、出勤簿にサインしなければならない。たとえ1分でも遅れると、半日の欠勤とみなされるのだ。若いボディは11回目の腕立て伏せを終えると、跳び上がって言った、奴隷制だ、まったく! 彼は慌てて上衣を一枚手に取り、外に出た。
事務所に来て見ると、そこはまさに戦場さながらだった。測量技師は会計係に言っていた、フー・アー・ユー …… 何様だ、おまえは? ホワット・ライト ……
誰がおまえに、サイレンを鳴らす許可を与えた? フー・アー・ユー?
ボディが時計の方に目を遣ると、6時半までには、まだ5分、間がある。つまり、ほとんど10分前にサイレンを鳴らしたのだ。彼の頭は血でのぼせ上がった。彼は拳骨をふりかざし、会計係に面と向かって叫んだ、どこの、馬の骨が!
どうしたんだ、みんな? 新任の管理主任の声である。
同時に皆がしーんとなった。年老いた会計係は安堵のため息を漏らした。彼はやや気負い込んで言った、旦那、昨日から仕事がたくさん残っておりまして、汽車への積み込みもまだですし、10番炉では ……
主任は遮って言った、そんな報告を聞きたいんじゃない。私が知りたいのは、この騒ぎはいったい何のためか、ということだ。
会計係は言葉を失った。彼は、焦点の定まらない目を、呆然と見開くばかりだった。測量技師が皆の中では一番の上役になる。彼は前に進み出て言った、旦那、昨日からの規則では、朝6時半から仕事を始めること、それに5分以上遅れると半日分の給料が差し引かれる、とのことでした。旦那、冬の寒い日です、なのに会計係が来て、6時20分に――つまり10分前に、サイレンを鳴らすよう指示したんです。私たちは、誰もまだ朝食が済んでいません、旦那、口につけた紅茶もそのまま、飛んで来たんです。
主任が時計の方を見ると、6時半にはまだ2分の間がある。自分の腕時計の方も見遣ったが、それも同じ時間を指している。主任は言った、よし、30分仕事をして、自分たちの部署を始動させるんだ。そのあと、皆、宿舎に戻って食事を済ませなさい。7時から7時半まで、今日は休憩時間とする。さあ …… さあ、さっさと仕事を始めて!
2分のうちに事務所は空っぽになった。会計係は自分の席についた。
主任は言った、あなたが、10分前にサイレンを鳴らすよう、指示したんですか?
昨日から、仕事がたくさん残っておりまして、旦那 …… 汽車への積み込みもまだですし、10番 ……
痺れを切らして主任は言った、そんなことはわかっている。私が聞いたことに答えなさい。
呆然と目を見開いて主任の方を見つめると、会計係は答えた、はい、旦那。
どうしてです? 鉦やサイレンを鳴らすよう指示する責任は、あなたにはないでしょう。
昨日から、仕事がたくさん残っておりまして、旦那 …… 汽車への積み込みもまだですし、10番炉では
……
あなたは、工場の主ですか?
いいえ、旦那。
今日のことは大目に見ましょう。だが、二度とこんなことがないように。
主任はドタドタとその場を離れた。冬の日だと言うのに、会計係は、気の毒にも汗を流していた。額からその汗を拭うと、彼は自分の務めに取りかかった。現金箱の上に一礼すると帳面を広げた。
会計係、この金をおれに、今すぐ出してくれよ。
倉庫部の使い走りが、一枚の引換証を彼の前に放り投げた。主任のサイン入りの引換証で、110ルピーの出費である。
こんな大金、いったい何に使うんだ?
稲藁を買うんだよ。
ふむ …… ちょっと待ってくれ、確かめて来るから。
引換証を携えて、会計係は主任の部屋の入り口まで来て立ち止まった。帷を押し分けて部屋に入るのが怖くて、いったんは引き返した。だが再び戻って来ると、外から声をかけた。
旦那 ……
お入りなさい。
この引換証の代金ですが ……
主任は彼の顔を見つめて言った、金が足りないんですか?
頭を掻きながら会計係は言った、いえ、そう言うわけではないんですが ……
それで? 今日、何か、大きな出金があるんですか?
いいえ。渡していいのかどうか、聞きに来たので。
驚いて会計係の顔を見つめると、主任は言った、何ですって …… ホワット・ドゥ・ユー・ミーン? 引換証にサインをしたからには、渡すように言ったのと同じでしょう。
一礼すると、会計係はすぐさま部屋の外に出た。主任は揺れる帷の方を見つめて言った、愚か者めが!
現金箱を開き、金を数えて使い走りに渡すと、会計係は言った、サインしろ。
使い走りはサインした。金を受け取って立ち去ろうとしていた彼に、会計係はだが声をかけた、おいおい、ちょっと待て!
何だよ?
ちょっと待てよ。間違いがなかったか、もう一度確かめたいんだ。
数え直して確認すると、会計係は帳面にその額を書き込んだ――倉庫の経費。書き終えると主任の部屋に向かった。
旦那!
どうぞ。で、何です? また、何かあったんですか?
はい。稲藁の代金を渡しました。
主任は唖然として会計係の顔を見つめた。会計係は一礼して退出した。
正午のサイレンが鳴った。水浴と食事のための、1時間半の休憩時間である。宿舎に戻ると、会計係は、いつもの習慣で、脱いだ靴を揃え、部屋の真ん中に置いた。そうして上衣を脱ぐと、水差しと長手拭いを手に、ベランダの3番柱の、上に蔽いがある一角にすわって、身体に油を塗り始めた。その向こうで油を塗っていた倉庫係が尋ねた、ボディ兄、新しい主任は、どうだね?
会計係の名前もボディである。彼は答えた、いい人だよ、有能な人だ。書類を書く時なんか、すらすらーっと、まるで水が流れるように、手が動いていたぜ!
バケツと水差しを手に、会計係は立ち上がった。長いベランダには、水を確保するために、各室の前に一つずつ、鉄製の桶が置いてあった。会計係は、ひとつひとつの桶から、水差しに二杯ずつ水を汲み取って、自分のバケツをいっぱいにした。その後、正面の空き地の南西の隅にある石の上で、水を浴び始めた。
その時、反対の方角から、主任が部屋を見に入って来た。部屋部屋をすべて修理して壁を白塗りにするための、手筈を整えていたのだ。会計係は水浴を終えると、戻って来て部屋に入ろうした、栄えあれ、カリガート [南コルカタにあるカーリー女神の聖地] の母神様!
慌てふためいて長手拭いを身体に巻きつけた。部屋の中に主任が立っている。
これはあなたの部屋ですか?
はい、旦那。私とゴビンドのです。
しかし、何と言う置き方をしているんです、この寝台? 一つが南北を向いて、もう一つが東西? おい …… おい人夫、この寝台の向きを変えるんだ ……
南北向きになるようにしろ。おや、何てこった! 部屋の真ん中に、靴?
こう言うと、主任は、自分の足で、一対の靴を一方の端に押しのけた。新しい手配を済ますと、主任は人夫たちを引き連れて退室した。動かされたのは会計係の寝台のほうである。彼はしばらく呆然と佇ちつくしていたが、手拭いをまとったまま急いで部屋の外に出た。主任はその時、職工のショシの部屋にいて、床の上のタバコ葉の燃えかす、壁にこびりついている手で拭った油の跡や肉料理のウコンの飛沫を精査していた。ショシのズボンの尻にまで、ウコンと煤の染みがついていた。
旦那!
主任が振り返ると、会計係である。
何ですか? まだ着替えていないんですか、あなたは? さあさあ、着替えていらっしゃい!
旦那! 今日で14年間、あの向きに寝台を置いてきたんです、旦那!
主任は唖然として口を開いた、何ですって?
私の寝台です ……
不意に怒りがこみ上げてきて主任は言った、ダメだ、ダメだ。あんた一人のために、他の人が迷惑になるようなことは、できん。
会計係は、戻って来ると、部屋の中で呆けたように佇んでいた。同室のゴビンドは、水浴を終えて髪を梳かしていた。彼は言った、着替えなよ。
ちょっと、寝台を持ってくれないか、おい、兄弟。
ゴビンドはまことに人が良かった。彼は言った、でも、主任が ……
その時には、会計係は、もう寝台の片側の端を握っていた。
まったく、この工場に来てからと言うもの、ずーっとこの部屋で …… この寝台で …… この東向きの枕で寝てきたんだ。それを変えるわけにはいかないんだよ。
ゴビンドはそれ以上反対しなかった。寝台の反対側に回って、その端を持った。
寝台を動かして元の位置に戻すと、会計係は、さっそく、一対の靴を取り上げて部屋の真ん中に運び、そこに鎮座させた。
夕暮れ時に、会計係が戻って部屋に入るや、ハッと立ち竦んだ。続けてむかっ腹を立てて言った、バカな。ここからおれを、追い出そうって言うのか! おい! おれの水煙管を、誰が下に下ろした?
ゴビンドが言った、主任だよ。夕方、また現れたんだ。水煙管をここに置くなって、強く言われた。寝台の向きを変えるのは仕方ないとして、窓際の水煙管と部屋の真ん中の靴――この二つはやめるように、ってな。
靴を部屋の真ん中で脱いでそこに置くと、会計係は大きなため息を一つついて、寝台の上に腰をおろした。再び立ち上がり、彼は靴を部屋の隅に置きなおした。
次の日の朝。会計係は、時計の側に椅子を置いて、何かに忙しかった。靴音を耳にして見上げると、主任が自分の腕時計を見ながら歩いている。
その日、もう一人の会計士のオッシニが、主任に帳簿を見せていた。帳簿を見て主任は言った、何だこれは? 何という字だ? それに、ここで線が始まって、終わりが5センチも曲がって、ここか? 何てことだ!
オッシニは言った、会計係は、目が悪い上、メガネをつけるのもいやがるんで。目が悪くなる、と言って。
主任は声を上げた、おい、誰か! 会計係を呼ぶんだ。
会計係は入室すると一礼して待機した。主任は言った、あなた、いくつになります?
60歳です、旦那。この会社で、ずーっと40年間勤めて、この工場には14年になります …… そもそもの始まりから、ここがまだ荒野で、人も恐がって近寄らない
……
ついに我慢しきれなくなって、主任は口を挟んだ、わかったわかった、そのことではない。この歳になって、目も悪いのに、なぜメガネをかけないんですか? ほら、何ですか、これは! あなた、こんな調子では仕事になりませんよ!
わかりました、旦那! メガネをかけます、旦那!
会計係は退室した。またしばらくしてやって来て、
旦那、午後、もし休みをいただければ、旦那。アサンソールに車が行きますので ……
途中で遮ると主任は言った、わかりました。
夕方、メガネをかけた会計係が、部屋から部屋へと、皆に披露して回った。
はっきり見えるようになったぞ。どうだい、なかなかのもんだろう? 1,2,3,4!
屋根瓦を支えている木片を数え始める。
数日後。主任は会計係を呼びつけて言った、
たいへん残念ですが、会計係、あなたの仕事は、これまでです。つまり、会社から、あなたが退職するよう勧告する手紙を、送ってきました。英語のできる会計士を置くことになります。それに、考えてみてください、あなたも、ずいぶん長いこと、この仕事をして来られた、そろそろ後進の者に、席を譲ってはどうでしょうか? 代わりとなる人も、もう到着しましたので。
言い終わると、会社の手紙と退職届けを彼の手に渡した。
これに、サインしてください。ええ、会社はあなたに、三ヵ月分の給料をボーナスとして支給することにしました。
会計係はポカンと口を開けて見つめていた。
主任は彼の手にペンを持たせた。
ここにサインしてください。はい、そして日付を書いて …… 日付を。
会社の残金の手渡しも終わった。会計係は広げて見せた――3,022ルピー、半ルピー貨が一枚、2アナ(8パイサ)貨が一枚、紙にくるまれた半パイサ貨。
主任は、彼の報酬の支払いを終えると、言った、
会計係、どうか落胆しないでいただきたい。考えてもみてください、あなたもずいぶん歳を取られた。それに、あなたはたいへん情け深い心をお持ちだ。その心をこめて、神様をお呼びになれば、多くのことが成し遂げられようというものです。
会計係は答えた、はい、さようですな。それでは ……
社員たちは、だがこんなに簡単に別れを告げはしなかった。彼らはお別れ会を催し、ご馳走を用意し、彼の首に花環をかけた。参加者の多くは、目に涙を浮かべた。
翌日の明け方、何人かの人夫が会計係の荷物を頭に載せて駅に向かっていた。そのしんがりに会計係、その目には例の新しいメガネ。会計係が不意に声を上げる、おや、今日はまだ、サイレンを鳴らさないのか?
人夫は言う、まだ早いですよ、旦那。この汽車が行って、その後でしょう!
会計係は思い出した。そうだ、その通りだ、まだ6時半になっていない。6時半の汽車に乗って、彼は去るのだ。会計係は、ひとたび、背後を振り返って見た――工場の煙突からはもくもくと煙が上がっている。彼は視線をもとに戻した。大きくため息をつき、寂しげな笑みを浮かべると、自分に向かって呟いた、神様がいらっしゃるさ。
と同時に、その視線はおのずから、空の方へ釘付けになった。だが、どこに空があると言うのか! メガネを通した明瞭なまなざしの前にも、そこには煤煙、また煤煙が広がる――あの工場の、煙突から吐き出される煤煙に覆われて、空はどこかに、姿をくらましてしまったのだ。
黒い山(カラパハル)
黒い山(カラパハル) 解題
タラションコル・ボンドパッダエ(1898-1971)の中期の短篇。彼の三冊目の短篇集、『花の蕾』(ベンガル暦1345年ボイシャク月、西暦1938年4月出版)に掲載されました。
作品に登場する二頭の水牛は、主人公のロンラルによって、それぞれ、カラパハル、クンボコルノという名前がつけられます。いずれも庶民にもよく知られた伝説上・神話上の存在で、二頭の持つ外貌と性格を的確に表現しています。
カラパハル [「黒い山」、カラには「黒」のほか「聾」の意もある] は、本名ラジブロチョン・ラエまたはカラチャンド・ラエ(1534-1580)、北ベンガルのバレンドラ・バラモンの家系に生まれたと伝えられます。言い伝えによれば、彼は、当時ベンガルの君主(スルターン)であったスライマーン・カーン・カララーニーの軍隊に加わり、頭角を現して君主の目に留まります。そして君主の娘とイスラーム式の結婚式をあげ、カララーニー軍の長となります。その後、彼は後悔してヒンドゥー教に再び改宗しようとしますが、ヒンドゥー社会から強い反発と侮辱を受けます。彼はその復讐のため、カララーニーの領土拡大の戦いに伴い、プリーのジャガンナート寺院を始め、各地のヒンドゥー寺院やそこにある神像を破壊したとされています。どこまでが史実かは不明ですが、この綽名から、黒い巨躯を持ち、誰の言うことにも耳を貸さない、破壊者のイメージが伝わってきます。
また、クンボコルノ [「水甕のような耳を持つ者」の意] は、『ラーマーヤナ』に登場する羅刹王ラーヴァナの弟で、巨躯で怪力の持ち主。一年のうち六ヶ月は眠り、起きている時には凄まじい食欲に駆られ、手当たり次第ものを食べたと言われています。
なお、主人公のロンラルとその一家は土地持ち農民で、ショドゴプという出自集団(ジャーティ)に属します。ショドゴプは、ビルブム県では、当時、全人口の一割弱を占めていました。
ベンガルのヒンドゥー社会では、下位のシュードラ種姓が大きく二つの層にわかれます。ショドゴプは比較的裕福な上層に属し、最後に水牛の死骸を処理するために呼ばれるドームは最下層の不可触民、ナマシュードラ(ノモシュドロ)種姓に属します。『船頭タリニ』の解説をご参照ください。
カラパハル(黒い山)
タラションコル・ボンドパッダエ
分からず屋を説得するほど骨の折れる仕業は、この世に存在しない。歳のいった分からず屋ともなれば、幼児よりはるかに面倒である。幼児が月をほしがっても、月の代わりに甘菓子を与えればおとなしくなる。あるいは叩きさえすれば、泣きながら眠りに落ちて静かになる。だが歳のいった分からず屋は、何を言っても耳を貸さず、おまけに、頑固一徹の伝説の女ボビのように、決して忘れようともしないのだ。
ジョショダノンドンは、いかに情理を尽くしても父親を説き伏せることができず、しまいには、いわゆる愛想もこそも尽き果てて、言い放った、じゃあ父さんの好きなようにするがいいさ。象を二頭、買ってきたらいいだろう!
想像上の二頭の象が、長い鼻を振り回して身体に水を撒きでもしたのであろう、ロンラルは怒りのあまり火のようになった。彼は水煙管を吸っていたが、この言葉を聞くと数瞬息子の顔を見据え、手に持った煙管を力任せに地面の上に投げて叩きこわすと言った
―― こいつでも、喰らえ!
ジョシダは呆然として父親の顔を見つめていた。
ロンラルは言った、象? 象だと? おいこの恥知らず、いつわしが象を買うと言った?
ジョショダはこの言葉に対しても何も答えなかった。彼もまた怒りに震え、黙りこくったまますわっていた。
この時になってようやく、「象買い」に対するまっとうな答を見つけたのであろう、ロンラルは今度は痰の絡まった声で続けた、象だと? それより、山羊を二頭買ったらどうだ?たっぷり収穫が増えるぞ。竹藪みたいに稲が育ってな、人の背丈もある稲穂をつけることだろうよ! まったく、百姓の倅が読み書きを身につけると、こんなぼんくらに育つとは! おいこのぼんくら、良い牛がなくてどうやって田畑を耕す? 鋤が土に肘の深さまで入って、土が膝までしんなり柔らかい小麦粉みたいになって、始めて稲が実るんだ、収穫があるんだ。
ロンラルは、今回はどうしても牛を買うのだと言って聞かない。この、牛を買う買わないで意見が衝突し、父子の間で数日前から口論が続いている。ロンラルはかなりの規模の農家で、耕地も広く、土壌も良質である。農作に対する熱の入れようは尋常ではない。逞しい巨躯を持ち、農作業ではその身体で阿修羅のように働く
―― いっさい骨身を惜しまず、とことんまで力を使い果たす。おそらくそれが理由で、牛に対しても彼はこれほどのこだわりを持つのだ! 彼には、一点の非の打ち所もない牛が必要なのだ
―― 若くて豪勢な色、しっかりした角、蛇のような尾、他にも多くの美点が揃っていないことには彼の気に染まない。さらに付け加えるなら、彼の持ち牛に匹敵するような牛が、近隣の誰のところにもあってはならないのだ。彼は牛の首に鈴と鉦の環をぶら下げ、日に二回、麻布で身体中をはたいて拭ってやり、二本の角には油を塗る。時にはその足を拝することさえある。酷使した日があれば、その足を撫でてやりながら言う、ああ! ケシュト神の共連れよ!
過去数年間、不作と息子ジョショダの学費の支払いが続いたために、ロンラルの暮らし向きはここのところやや落ち込んでいた。だが、今年ジョショダは10年生修了認定試験 [後期中等教育(11~12年生)の入学資格を判定する] に合格したし、昨年の稲の収穫も悪くはなかった。そのためロンラルは、いまこそ良い牛が絶対に必要だと言い張っているのである。前回牛を一対買ったばかりなのだが、それらに対し彼は愛着を持っていない。その二頭は小さいわけでもなく決して悪い牛ではないのだが、それよりいい牛はこの地域の多くの農家が持っている。
ジョショダは言う、今年はあれで我慢しようよ。おれが何か仕事でも見つけて、今度も稲の収穫がよかったら、来年買うことにしたらいいだろう。買うとなると二百ルピーでは足りないし
―― そんな金、父さん、いま、どうやって工面するって言うんだよ?
金をどう工面するか ―― そんなことは知ったことではない。とにかく牛が絶対に必要なのだ。
ついにはロンラルの突っ張りが功を奏することになった。ジョショダは腹を立てたまま口を噤んでしまった。金の算段もついた。手持ちの一対の牛を売って手に入ったのが百ルピー、残りの百ルピ――はジョショダの母が工面した。彼女はロンラルに蔭で言い含めた、あの子と喧嘩してどうなると言うの? あんた、牛を買って来なさいな! 買ってしまえばあの子も何も言えないわよ。
ロンラルは勇んで言った、おまえの言う通りだ、そうしよう。あいつがいくら悔しがっても、後の祭りってもんだ!
あの二頭を売ってしまいなさい。そして、ほら、これ ―― これを抵当に入れれば何とかなるわ。良い牛でないと、うちの牛舎には似合わないもの。
彼女は自分の装身具をいくつか手渡した。ロンラルは嬉しさに天にも昇る心地だった。
こういうわけで、ロンラルは金を揃えるとパンチュンディ村の牛=水牛市に行くことを決めた。よく見定めた上で、気に染む二頭の牛を手に入れるのだ。乳のように真っ白か、ヨ――グルトを張る石の器のように真っ黒な、二頭の牛。
パンチュンディの市の入り口に来て、彼は驚きのあまりその場に佇ちつくした。おう、おう! 何てこった! こいつはたまげた ...... 何千頭いるんだ、いったい!
何千頭とは行かないまでも、パンチュンディの市には、牛と水牛を合せて千頭を下らない数が運ばれて来る。そしてそれに見合う数の人も集まる。牛と水牛の叫び声、人間の喧噪
―― 言語に絶する叫喚が響きわたる。頭上ではその時太陽が中天に輝いていた。獣の売り買いが行われているどの場所にも、一点の影すら落ちていない。だが人間のほうはそちらにはお構いなしで、倦くことなく巡り歩いている。ロンラルはその人の群に紛れ込んだ。
牛の群は一カ所に犇めきあい、その目は怖じ気づいている。仲買人たちは辻売りのように叫んでいる ―― さあ、行った行った! さあ、行った! 虎の子並みに力があるぜ! アラビア馬並みに働くぜ!
ロンラルは、鋭い目つきで、好みに合う代物を物色していた。
向こうの方ではさらに派手な騒ぎが起きている。耳をつんざくほどだ。殺し合いが起きているようにも聞こえる。ロンラルは、そちらを目指して進んだ。水牛の市である。漆黒の手に負えない獣たちを、休みなく走らせている。仲買人たちの群は叫びながら大きな竹棒で容赦なく叩き続け、獣たちは前後の見境なく走り回る。池の水に身を沈めているのもいる。まだほんの年端のいかぬものから老いぼれにいたるまで、売るために連れて来たのだ。胴体の皮が破れ、真っ赤な傷跡がてらてら光っているものもある。もう少し向こうのマンゴーの木に囲まれた池の縁にも、人だかりがしている。ロンラルは、そこに何があるか確かめるために歩を進めた。仲買人の一人が水牛を追い立てていたが、不意にその振り回していた竹棒が手から滑り落ち、ロンラルの傍に落ちた。ロンラルは少し腹を立て、その竹棒を拾い上げた。
仲買人のほうは余裕なく、いかにも忙し気に言い放った、おいおい、さっさと竹棒をよこせよ!
もし、おれに当たっていたら!
そりゃ、あんたに当たったら、ちょっとは血が流れただろうが、それがどうした?
ロンラルは言葉を失った。ちょっとは血が流れただろうが、それがどうした、だと?
おい、兄弟、早くよこしなよ! 手が滑ったんだよ、さあ、早く!
ロンラルをしげしげ見つめて、仲買人の言葉遣いはさすがに少し丁寧になった。
竹棒を渡そうとしてロンラルは震え上がった、何だ、これは? 棒の頭に針の先が突き出ているじゃないか!
仲買人は笑って言った、そんなものを見て何になる。渡しなよ、兄弟!
ロンラルはよくよく眺めた ―― 確かに針の先だ。それも一本でなく、二本も三本も。不意に、人から聞いた話が頭をよぎった ―― 仲買人たちは棒の先に針を仕込み、その針に刺されると、水牛たちはあんな具合に前後の見境なく走り回るのだと。何てことだ!
彼は大きくため息をついた。仲買人は言った、どうだい? 買うかい、旦那? 買う気なら、いいやつをやるぜ、安くしとくぜ。おい ...... おおい! こう言うと、ロンラルに見せつけながら彼は水牛たちを追い立て始めた。
いい子だ、いい子だ! おお、何ていい子なんだ! 追い立てながらも、ときに仲買人は愛情をこめて撫でてやったりもするのである。
ロンラルは囲い場の中に入った。
まわりはすべて水牛の群である。ここにいる水牛たちはすっかり肥え太り、無理無体に小突かれて走り回ることもない。あるものはすわり、あるものは立ったまま、おとなしく目を閉じて反芻に余念がない。
牛はこの囲い場にはいない。引き返そうとして囲い場の一番端まで来た時、ロンラルはギクリとして足を止めた ―― こいつは水牛か、それとも象か? こんな巨体の水牛を、ロンラルは今まで見たことがなかった。他にも何人か、そこに立っていた。一人が言っていた、やれやれ、いったいこの水牛を、買うやつがいるのかね?
仲買人は言った、王様か大地主か、さもなきゃ幸運の女神に見放されたなけなし野郎、ってとこだよ! いくつも市を回ったんだが、どうやらまた、別の市に行かなきゃならねえみてえだな。
もう一人が言った、こんな水牛を買い込んで、どうしようってんだ? こいつが曳く鋤を誰が操れる? まずはそいつを捜すんだな!
仲買人は言う、おい兄弟、人間はな、知恵を絞れば虎だって手懐けることができるんだ。相手はたかが水牛だぜ。鋤をでっかくしさえすれば、押さえこめる! こいつの鋤は土の中に、肘どころか、肩の深さまで入るぜ。
ロンラルは、感じ入った鋭いまなざしで、その一対の水牛を見つめていた ―― こいつはすごい! すごい代物だ! 図体の割に、足は短い。あの短い足で踏ん張れば、泥土を20モン [約75キロ] は、胸の高さまで楽々もちあげるだろう。何て黒さだ! まるで黒曜石じゃないか! それに何よりも、二本の角の豪勢なこと! そしてこの二頭、同じ鋳型に流し込んだみたいだ ―― まるで双児じゃないか!
だが、この金で足りるだろうか? まあ、様子を見てみよう。市が終わって、買い手が残らずいなくなった時だ。仲買人のやつも言ったじゃないか、いくつも市を回ったが買い手がつかなかったと。売値だけが問題なんじゃない。一番の問題は、この二頭の二つの胃袋が、底無しにでかいことだ。
ロンラルはとうとうこの二頭を買い取ってしまった。どうしても彼は誘惑に打ち克つことができなかったのだ。手持ちの金で何とかなった。仲買人も、いくつもの市を回ってほとほと嫌気がさしていたのだ。抵当に入れて借りた金が、この間、たまりにたまっていた。ロンラルがほんとうにそれ以上の持ち合わせがないと見て取ると、彼は二頭合わせて198ルピーで手を打った。ロンラルの顔は輝いた。周囲の誰もがそれを見て、賞讃のあまり目を丸くして見入る様を、彼はありありと思い描いたのだ。だが家に近づくにつれ、彼のその胸の昂りは次第に萎み、代わって憂鬱が胸を覆いはじめた。読み書きを知る息子を彼はとても怖れていた。息子の言葉に反駁するために、彼は精魂を注がねばなるまい。その上、こんなに大きな二頭の動物の胃袋を満たすのは容易なことではない! それぞれが、一日80束以上の乾し草を、ペロリと呑み込むだろう。
かかあ ―― ジョショダの母親 ―― は何と言うだろう? 彼女は、水牛の名を聞いただけで、嫌な顔をするのだ。ロンラルはあれこれ思い悩むのに倦み疲れ、しまいには自分に向かって反発の声を上げるようになる。どうした、何を怖れる、それも誰に対して? 家は誰のものだ? 財産の主は誰だ? 誰の言い分を聞かなきゃならんと言うのだ? 農作業がどういうものか、他にわかっている奴がいるか? ロンラルは思った
―― 地面の下に潜む豊饒の女神ラクシュミーの眠りが、いまや破れようとしているのだ、と。びっしり埋め尽くされた土の覆いを、鋤を入れて粉々に砕きさえすれば、女神は豊饒の籠を腰に携えて現れ、この世を照り輝かせながらそこに鎮座される。膝までぐっしょり泥にまみれ、湿った土の薫りをあたりに振り撒きながら! 稲の苗は三日のうちに三つの株に分かれ、さらにいや増しに殖えるであろう。
だがこの思いも長続きしない。再び息子と妻の顔を思い浮かべ、落ち込んでしまう。彼は心の中で、彼らを満足させるための世辞甘言をひねり出し始めた。
家に着くと、彼は笑いながらジョショダに言った、とうとうおまえが言った通り、象を一対買うことになったよ。
ジョショダは、たぶん巨大な雄牛でも買ってきたのだろう、と思った。彼は言った、大きすぎる牛はよくないんだよ、父さん! がっしりした、引き締まった身体の、あまりでかくないやつ
―― そういうやつがいいんだよ。
満面に笑みを浮かべてロンラルは言った、牛じゃないぞ。わしが買ったのは水牛だ。
ジョショダは驚いて言った、水牛?
ああ。
ジョショダの母も言う、水牛を買ったの、あんた?
ああ。
笑い事じゃないわよ、あんた! まったく、虫唾が走るわ。 彼女は怒鳴り声を上げた。
おいおい、ちょっと待てや。まず自分の目で見て、それからものを言うんだな。さあ、水瓶と、ウコンと、油と辰砂を用意しろ ―― まずはドゥルガー神の御名を唱えて、家に迎え入れるんだ!
水牛を目にして、ジョショダの顔はますます苦虫を潰したようになった。彼は言った、まったく、稲藁を何束やることになるんだか。とてつもない胃袋だ! どっちもクンボコルノみたいに、底無しに喰らうだろうよ。そんな稲藁、いったいどこから手に入れるつもりなんだ!
いっぽうジョショダの母は、茫然として二頭の水牛を見つめていた。恐ろしくは見えるものの一種の偉容を備えているのは確かだ ―― その姿は人の目を釘付けにさせずにはおかない。二頭の水牛は、少し頭を垂れて斜交いに皆のほうを見つめていた。目の黒い部分の下に、赤みがかった白い広がりが少しだけ露出している。恐ろしい容貌にふさわしい目つきだ。
ロンラルは言った、さあ、足に水をやれ。
とんでもない! あんなののそばに、私、とても行けないわ。
ダメだ、ダメだ。おまえ、こっちへ来るんだ、怖がることはねえ、さあ、早く。おとなしいぞ!
ジョショダの母は、おそるおそる歩を進めた。二頭の水牛は、ふうと激しく息を吐き、何か言いたげな様子を見せた。ロンラルは言った、おい、気をつけるんだ! おまえたちの母さんだぞ。ご飯汁をくれる、ご飯をくれる、稲殻をくれる。お主婦さんだぞ、覚えとけ!
それでもジョショダの母は身を退いて言った、ダメだわ、この油と辰砂とウコンはあんたがやりなさい。私にはとても無理だわ。まるでカラパハルみたいなんだから!
ロンラルは口を開いた、おお、ぴったりの名前だ! カラパハルに決めよう ―― こいつだ、この太ったやつだ、こいつがカラパハルだ。で、こいつは何と呼んだらいい?
少し考えた後、彼は再び口を開いた、もう一頭はクンボコルノにしよう ―― ジョショダの言った通りだ。これもぴったりの名前だ!
ジョショダの母も喜んだが、ジョショダは不機嫌な顔を変えなかった。
ロンラルは不快を露わにして言った、わしはな、むっつり顔は大嫌いなんだ。牛だろうが、聖者様だろうが。
ロンラルは、早朝からカラパハルの背に乗りクンボコルノを追い立てながら、彼らを川岸に導き放牧する。戻るのは夕方3時である。稲藁を倹約するためだけではなかった、すっかりこの習慣の虜になってしまったのだ。このことは家中の者の顰蹙を買った。ジョショダの母親にすら嫌がられる始末だった。
ロンラルは笑って言う、今年は稲藁の収穫でどれだけ稼げることか。まあ、見てのお楽しみだ。売れたらすぐ、おまえの装身具を買い戻してやるからな。
彼女は言う、装身具がほしくて、私が夜眠れないとでも思っているの? そんなことのために、昼も夜もあんたの尻に火をつけているとでも?
ジョショダは言う、そのうち蛇に嚙まれるか虎に喰われるかして、あの世行きさ。
実際、川縁には蛇が山ほど待ち受けているし、ときには虎の一、二頭さえ紛れ込むことがあるのだ。だがロンラルはそんなことにはお構いなく、川縁に行くとお決まりの木蔭に大手拭いを敷き、その上に横たわる。二頭の水牛は草を食みながら歩き回る。二頭が遠くまで行ってしまうと、彼は口で奇妙な音を立てる
―― アーン アーン! 水牛の声と寸分違わない声だ! 遠くからその声が聞こえてくると、カラパハルとクンボコルノは草を食むのをやめ、顔をもたげ耳を欹てる、そして二頭とも同じ「アーン アーン」という声で応え、急ぎ足でゆさゆさ身体を左右に揺らしながらやって来る。時には走り始めることすらある! ロンラルのところまで来ると、彼らは彼の顔を見遣りながら佇ちつくす、あたかもこう問い質すかのように
―― どうして呼んだんだ、いったい?
ロンラルは、二頭の頬を両掌で一つずつぴしゃりと叩き、おまえらの腹が、火で燃えちまえばいいんだが! 草食うのに夢中になって、外国にでも行くつもりか? この周りを離れるんじゃない!
二頭の水牛は、もう動くことなくそこに横たわると、目を閉じて反芻する。時には川の水に喉まで浸かったまま川底にすわっている。ロンラルが呼ぶと水を滴らせて陸に上がってくる。
鋤入れの時には、彼は巨大な鋤を力いっぱい土中に押し込む。カラパハルとクンボコルノはやすやすとそれを曳きながら進み、その後を巨大な土の塊が両側に転げ落ちる。肘を入れても届かない深さまで土を耕す。巨大な牛車の上に、平屋の屋根と同じ高さにまで稲束を積み上げる。人びとは驚きに目を見張り、ロンラルはそれを見て笑う。
ときおり、カラパハルとクンボコルノをめぐって、のっぴきならぬ事態に至ることもある。二頭の間にどんな意見の相違が起きたのか ―― そんな日には、二頭は戦場の阿修羅のように向き合って立ち、怒りに胴体を脹らませる。頭を下げ、それぞれの角を上に向けて、両の前肢を地面に打ちつけ始める。そしてその後すぐに闘いが始まる。こうなると、ひとりロンラルを除き、誰もこの二頭の間に行く勇気はない。ロンラルは、巨大な竹の棒を手に、恐れ気もなく彼らの間に立ち塞がると、両者を容赦なく叩き始める。殴打されるのを恐れ、二頭とも身を退いて立ち竦む。そんな日には、ロンラルは二頭に罰を与えるため、別々の牛舎に閉じ込めて食餌を与えない。そうしてから別々に彼らに水を浴びさせ、腹一杯の餌を与え、そうしてようやく二頭を一緒にする。と同時にいろいろな教訓を与える。このおバカさん! 喧嘩なんかするもんじゃないぞ! 二人一緒に仲良くするんだ ...... わかったな!
さて、こうして三年あまり経ったある日、突然、大きな災いが降りかかった。時は夏、ロンラルは川縁の灌木に囲まれた庵のような茂みの中、くつろいだ眠りを貪っていた。カラパハルとクンボコルノはほど近い場所で草を食んでいた。不意にハアハア言う異様な息の音に眠りが破れ、目を開くと、ロンラルの血は凍り付いた。深い灌木の茂みの入口で、一匹の豹が、兇暴な目つきで凝っと彼を見据えていたのだ。貪婪な欲望にその歯を剝き出しにしていた。ハアハア息を吐きながら、今にも襲いかかりそうに見えた。ロンラルは臆病者ではない。以前に何度か、自分から豹狩りに加わったことがある。彼にはよくわかった
―― 豹が中に入るのをためらっていたのは、ひとえに入り口が狭いせいなのだ。さもなければ、豹は睡眠中に彼を襲っていたことだろう。彼は素早く這いつくばり反対方向に身を退くと、茂みの真ん中にある巨大な木の蔭に隠れて声を上げた、アーン アーン アーン!
即座に返事が来た、アーン アーン アーン!
豹はギクリとして茂みの入り口から身を退くと、四方に怯んだまなざしを投げ、カラパハルとクンボコルノが彼めがけて近づいて来るのを見た。豹も歯を剝き出しにして唸り声を上げ始めた。ロンラルの目に映ったのは、カラパハルとクンボコルノの異様な形相である! 彼らのこんな凄まじい姿を、彼は今まで見たことがなかった。彼らは徐々に互いから離れて別々の方向に進んでいた。数瞬のうちに一方にカラパハル、もう一方にクンボコルノに挟まれ、豹は浮き足立った。自分が危地に陥っていることを悟ったのだ。小柄だがそれでも豹は豹である。おそらく我慢できなくなったのだろう、豹は突然一跳びしすると、クンボコルノの上に身を投げた。次の瞬間、カラパハルがその上向きの角で豹を攻め立てた。角の一撃を浴びて豹はクンボコルノの背から吹き飛び、遠くに落ちた。傷ついたクンボコルノは、気が狂ったように頭を下げ、角を振り立て、豹の上に跳びかかった。クンボコルノの二本の角は、恐ろしく鋭利な上ほとんど曲がっていない。その一本が豹の腹にまっすぐ突き刺さり、豹をあたかもはりつけたかのようになった。死の苦しみに悶えながら、豹も必死に牙を剝きその肩にかぶりついた。向こうからはカラパハルも近づいて来て、豹目がけて角の攻撃を浴びせ始めた。すでに茂みの中から出ていたロンラルも、激情に駆られ、手にした竹棒をしゃにむに振り回し始めていた。間もなく闘う二頭の獣はともに地面に崩れ落ちた。豹はまだ生きてはいたがすでに虫の息で、一二度体を痙攣させるのみだった。クンボコルノは倒れたままひたすら喘ぎ続け、そのまなざしはロンラルの方を向いていた。目からはドクドク涙がこぼれ落ちている。
ロンラルは子供のように泣き始めた。
カラパハルをめぐって難題が持ち上がった。彼は、ひっきりなしに、「アーン アーン」と叫び声を上げては泣くのである。
ロンラルは言う、こいつは、連れ合いなしにはいられないんだよ。今度の市で、一頭買ってやらないと。
市に行くと、彼はあれこれ見て回った挙げ句、高い金を出して、カラパハルの連れとなる水牛を買った。大きな出費となった。この一頭のために150ルピーも払ったのだ。それでもカラパハルに釣り合う相手とは言えなかった。だがこの水牛はまだ若い。もっと成長して、一、二年も経てば、カラパハルと肩を並べることになるだろうと思われた。今はやっと、四本の歯が生えそろったばかりである。
カラパハルはだが、その水牛を見ただけで怒り狂った。角を下げると前肢で地面を堀り始めた。ロンラルは慌ててカラパハルを遠ざけ、杭に縛りつけて言った、こいつが気に入らないだと? ダメだ、そんなことは。いいか、こいつに手を出しでもしたら、おまえを叩きのめしてやるからな!
新しい水牛の方も杭に縛りつけ飼い葉を与えると、彼は家の中に入って妻に言った、カラパハルのやつ、新しい連れ合いを見て、怒り狂ってやがる。まったく、手に負えねえ!
ジョショダの母は言う、まあ、可哀想に。クンボコルノのことを忘れられないのね? ずーっと昔から、仲良しだったんですもの。 こう言うと、夫の方を見てクスリと笑いこぼした。
ロンラルも笑い返した。左右を見渡してから、彼は囁くように言った、おまえとおれ、みたいだな!
バカね、あんた、変なこと言うもんじゃないわよ! あの二頭は男友達でしょ!
それもそうだな! ロンラルはその言い分を受け入れながらも、嬉しさを隠し切れなかった。そして言った、さあさあ、行こうぜ、水、油に、辰砂とウコンを持って。
まさにこの時だった。家の牛飼いが駆けつけて来て言った、おおい旦那様、急いで来てくだせえ! カラパハルが、新しいやつを殺っちまったんで!
何だと? 縛りつけておいたじゃないか!
ロンラルは外に駈け出した。牛飼いはその後を追いながら言った、杭を引きちぎっちまったんで、旦那! そしてものすげえうなり声をあげて! 今頃は、多分もう、殺っちまってるにちげえねえ!
ロンラルが到着して見ると、牛飼いの言葉に、一点の誇張もなかったのがわかった。縄ごと杭を根こそぎにすると、カラパハルは、手のつけられない怒りに任せて、新来の水牛を攻撃し打ちのめしていた。新来の水牛はただでさえカラパハルより弱く、まだ仔牛と言ってもいい年齢である。その上縛られた状態ではまったくなすすべとてなく、その場に倒れたまま哀れな悲鳴を上げるばかりだった。ロンラルは棒で叩き始めたが、カラパハルは見向きもせず、容赦なく新来の水牛を攻撃していた。さんざん苦労してカラパハルを何とか抑え込んだ時には、新来の水牛はすでに虫の息だった。ロンラルは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
ジョショダは言った、やつをもう、家に置くわけにはいかないさ。売っちまいなよ。別の相方を連れて来たって、やつはまた打ちのめすに決まっている。すっかりのぼせ上がっているからな。
ロンラルは返事する力もなく、黙り込んで思案に暮れた ―― ジョショダの言葉には反論しようがない。カラパハルがのぼせ上がっているのは、まったくその通りだ。水牛が一度のぼせると静まることはなく、むしろますます荒んでくるのが常だ。だがそれでも、彼の目には涙が溢れてくる。
数日経ち、例の牛飼いが来て言った、旦那、もう、とっても仕事にならねえ。カラパハルのやつ、ハアハアすげえ勢いで息を吐くんで。いつおれを殺しに来るか、気が気じゃねえです。
ロンラルは言う、バカなこと言うな! 息を吐くのは、水牛の習いだろうが。どれ、一緒に来い! おれが見てやる!
ロンラルはカラパハルに近づいて、その傍らに佇んだ。カラパハルは血走った目でロンラルの方を見やり、頭をもたげてロンラルの膝の上に載せた。ロンラルは、深い愛情をこめて彼の頭を指で掻き回し始めた。
だが、ロンラルがいつもカラパハルの側にいて宥めすかしているわけにはいかない。他の誰かが行くと、カラパハルはその荒んだ本性を露わにする。時には頭をもたげて叫び始める
―― アーン アーン アーン!
彼は頭をもたげ、クンボコルノを捜す。縄を引きちぎり、呼び声を上げながら、あの川縁に向かって姿を消す。ロンラル以外の誰かが連れ戻そうとすると、頑として動こうとしない。
先日はまた、仔牛を一頭殺してしまった。この仔牛と彼ら二頭の間には、睦まじいと言ってもいい関係が築かれていた。クンボコルノとカラパハルが満腹になって反芻している時、仔牛はやって来て、彼らの飼い葉桶から飼い葉を食べて行ったのだ。まだほんの幼い頃には、まったく頑是無い者のように、長いこと彼らの腹の下に潜って母牛の乳首を探したものだ。だがその日、カラパハルは機嫌を損ねていた。仔牛が飼い葉を食べるためにやって来て、彼の頭越しに首を差し伸べた。カラパハルは激怒して、仔牛を角で攻めたて、追いやったのだ。
ジョショダはロンラルの対応を待たなかった。彼は仲買人を呼ぶとカラパハルを売り払った。破格の安値で売らざるを得なかった。
仲買人は言った、60ルピーでもおれの損になるだろうよ。こんな血ののぼった水牛に、買い手がつくかね、旦那?
ジョショダは、さんざん談判した末、ようやくもう5ルピーだけ売り値を上げることができた。仲買人はカラパハルを連れて去った。
ロンラルは黙って地面の方を見つめながらすわっていた。
アーン アーン アーン!
ロンラルがなお黙り込んですわっていた時だ、「アーン アーン」という声が耳に入り、ハッとした。 カラパハルじゃねえか! カラパハルが戻って来たのだ。ロンラルは駈け寄って彼の傍らに立った。カラパハルはその膝に頭を載せた。
仲買人が来て言った、金を返してくだせえ、旦那。この水牛を買うのは、やめだ。まったく、とんでもねえタマだ! 命がいくつあっても足りませんぜ、旦那!
彼の話では、カラパハルは、しばらくはおとなしく進んでいたが、そのあと急に根が生えたように立ち竦んだ。誰がどうしようと、一歩も動こうとしない!
仲買人は続ける、竹棒でも振り上げようものなら ...... いやもう、その目つきの恐ろしいことときたら! そのあと、すげえ勢いで追いかけて来るんで、おれは1キロも走りづめで、何とか命拾いした、というわけで。そうしてからやつは、自分でここに戻って来たんです、まったく、ものすげえ勢いで走って。金を返してくだせえ、旦那。
彼は払った金を取り戻すと去って行った。
ジョショダは言った、こうなったら、市に連れて行くしかないな。
ロンラルは言う、わしにはできないよ。
父さんの他に、いったい誰が連れて行けるんだよ?
やむなく、ロンラル自身が曳いて行くことになった。その途次、彼はさんざん泣き暮れた。彼がカラパハルを買ったのはこの市だったのだ。
だが、浮き浮きした様子で彼は戻って来た。カラパハルに買い手がつかなかったのだ。例の仲買人が、その市でさんざん悪口を触れ回ったので、彼には誰一人、近寄りさえしなかったのだ。
ジョショダは言った、じゃあ、この次の市に連れて行けよ。あの市だったら、この辺の仲買人はあまり行かないからな。
ロンラルは、結局行かざるを得ない。ジョショダは読み書きのできる、稼ぎのある息子だ。成長した彼の言葉に、ロンラルは異を唱えることができない。それに、カラパハルを飼いおくことを強く主張することもできない。大きな損害を被ったのだ! 買値が150ルピー、仔牛を殺した贖罪の儀式のために7〜8ルピー。この一ヵ月農作業が途絶えているが、その損失は計算外である。
市では、仲買人の一人が、カラパハルを見て非常な熱意を見せ、買い取った。ある大地主が、ちょうどこんな水牛を一頭、求めていたのだ。買値も悪くなかった。105ルピーである。
ロンラルは言った、おい兄弟、この水牛、おれにすっかりなついて、離れようとしないんだ。ここでこうやって縛りつけている間に、おれはいなくなるからな。その後、おまえたちで連れて行ってくれ。さもないと、騒いで暴れまくるかも知れねえ。
彼の目からは涙が流れていた。仲買人は笑って言った、よし、わかった。じゃあ、こうして縛っておくから、おまえはさっさと行きな。
ロンラルは、急ぎ歩を進め、そのまままっすぐ町の駅に行くと汽車に乗り込んだ。歩いて帰るだけの力がなかったのだ。
しばらくして、仲買人はカラパハルの綱を手に持ち、強く引いた。カラパハルは彼の方を見やり、ハッとして四方を見渡し、声を上げた、アーン アーン アーン!
彼はロンラルを捜していたのだ。 どこだ? ロンラルはどこだ?
仲買人は、竹棒で軽く叩きながら急かせた、さあ、行くんだ!
カラパハルは再び声を上げた、アーン アーン アーン!
彼はその場に釘付けになった。頑として動こうとしない。
仲買人はもう一度彼を叩いた。カラパハルは気が狂ったように、あたりにロンラルを捜している。 どこだ、ロンラルはどこだ? いない、どこにもいないじゃないか!
カラパハルは、凄まじい勢いで、仲買人の手から首を縛る縄を引き剥がし、駈けた。
この道だ! この道を通って彼らはここに来たのだ。彼は一目散に駈けた、そして必死に呼び続けた、アーン アーン アーン!
仲買人は人を何人か集め、カラパハルの行く手を遮ろうとした。だが荒れ狂うカラパハルは、背に浴びせる竹棒の嵐をものともせず、正面の人を角で引っかけ虚空に投げ飛ばすと、遮るもののない道を血眼になって駈けた。
だが何てことだ! 目の前には見たこともない世界が!
大通りの両側には店が列をなして並び、人びとが群がっている! 何だ、あれは!
馬車が一台、こちらを目指してやって来る。カラパハルは恐怖に駆られ、脇道に逸れて駈けた。
道では人びとが騒ぎ立てている。 誰の水牛だ? 誰のだ? 何て図体だ! 途方もない音を立てて!
自動車が一台やって来た。カラパハルは完全に我を失った。その心の目に映るのは自分の家、声を限りにロンラルを呼び続ける。パーンを売る露店を一軒、木っ端微塵にすると、再び反対方向に向きを変えた。
人びとは身の危険を感じて逃げ惑う。カラパハルもまた、身の危険を感じて走り回る。見る見るうちに二人が傷を負った。カラパハルは駈ける、そしてロンラルを呼ぶ、アーン アーン アーン! だが、どうしたことだ! こんなにぐるぐる回り続けて、いったいどこに行き着くと言うのか? どこに家が? どれだけ遠くに?
またあの途方もない音! あの見たこともない動物! 今度は彼は、怒りにまかせ、相手と闘うために毅然として立ち止まった。
自動車も彼を捜していた。白人警視の車である。気が狂った水牛の知らせが届いていたのだ。
車も止まった。カラパハルは、威風堂々と前に進み始める。 ―― だが、その前に、高い、非情な音が鳴り響く。カラパハルは何もわからなかった。ただ耐え難い、凄まじい痛みが走った
―― ほんの一瞬のことである。そのあと彼は、ゆらゆらと体を揺らしながら、地面に転げ込んだ。
白人警視はリボルバーを鞘に戻すと、同乗していた巡査を車から降ろした。そして言った、ドームの連中を呼んで来い!
女と雌蛇
女と雌蛇 解題
タラションコル・ボンドパッダエ(1898-1971)の初期の短篇。月刊誌『デーシュ
[国]』(ベンガル暦1341年秋季特別号、西暦1934年のおそらく10月初頭出版)に掲載されました。
前回掲載の「ベデの女(ベデニ)」では、蛇を捕えその芸を見せることを生業のひとつとするベデという出自集団(ジャーティ)の話を取り上げました。この短篇の主人公、「跛のシェーク」は、ベデではなく、ふつうの極貧のイスラーム教徒ですが、蛇の扱いが上手で、毒蛇に噛まれたり悪霊に取り憑かれたりした人を呪術によって治療する呪術師(オジャ)として、また縁日などで太鼓と瓢箪笛の音色に合わせて蛇の踊りを見せる蛇使いとして、収入を得ています。
蛇使い用の楽器のことが書かれています。「両面太鼓」と訳したのは、ベンガル語でビション=ダキ [「恐ろしい(音を出す)小太鼓」の意] と呼ばれる、鼓の形をした小振りの両面太鼓で、蛇使いの他、蛇の女神モノシャ(マナサー)神の祭祀で歌物語を歌う時の伴奏にも使われます。また、「瓢箪笛」は、ベンガル語でトゥブリ=バンシ [「瓜の竹笛」の意]、ヒンディー語でプンギーと呼ばれる、気鳴用のふくべがついた笛のことです(竹笛の下に瓢箪をつける中国や東南アジアの瓢箪笛とは構造が違い、瓢箪の下にドローン用と旋律用の二本の笛を差し込む構造です)。
この作品では、跛と、彼に捕えられた雌のケウテ蛇(コブラの一種)の間の、親密な交歓が描かれます。タラションコルの観察力は、人間だけでなく動物に対しても透徹しています。『船頭タリニ』所収の短篇「ラカル・バルッジェ」の解説で、猫の描写について書いた中で、「タラションコルが描く動物は、悲喜愛憎などの根源的な感情を、人間に代わって何の飾り気もなく盲目的に表現する存在である。」と記しました。これはこの作品の雌蛇にあてはまりますし、次回掲載予定の「黒い山(カラパハル)」の水牛にもあてはまります。
なお、作品の中程で、跛が雌蛇を「娶った」後、歌う歌があります。この歌は、ラーダー=クリシュナ神話に基づいています。ゴークラ村に牛飼いとして住み、人妻のラーダーと愛の戯れをしていたクリシュナ神が、生まれ故郷であるマトゥラーに戻ることになり、そのことを知ってクリシュナ神との別れを嘆き悲しむ、ラーダーの立場から歌われています。物語の文脈では、ジョショダをラーダーに、また彼女から離れて雌蛇との愛に走る跛をクリシュナに見立て、ジョショダの立場になりかわって歌った歌、ということになりましょう。
女と雌蛇
タラションコル・ボンドパッダエ
野焼きの竈の中から、跛のシェークは焼き終わった煉瓦を取り出していた。「跛のシェーク」の本当の名前が何か、知る者はいない。彼自身も覚えていないのかもしれない。いつしか幼少の時に左足が折れて以来、彼は「跛」の名で通してきたのだ。ただ足がびっこをひいているだけではない。若い頃放蕩を繰り返したため悪疾にかかり、彼の鼻は潰れている。あるべき所に見えるのはおぞましい空洞ばかり。その後、今度は天然痘にかかり、その痕が全身を覆って醜い彼をさらに凄まじい姿に仕立て上げた。
脇目もふらず、跛は煉瓦を取り出していた。
すぐそこを、オダイ、即ちオワエド・シェークが、牛車に乗って近づいてきた。つがいの牛の尻尾を捻ってけしかけると、彼は唄い始めた ―― 卑猥な唄である。だが突然、その唄のリズムが崩れた。つがいの牛が、不意に泡を喰らって立ち止まったのだ。オダイは前に烈しくつんのめり、唄うのをやめて声を荒げた、この牛野郎、おれが言う前に
……
凄まじい怒りに駆られ二頭の牛に罰を与えようと叩き棒を手に取った。牛たちも絶え間なく息を吐きうなり声を上げていた。オダイはだが、棒を振り下ろす前に叫び声を上げた、おおい、跛、蛇だ
…… 蛇だぞ!
オダイの牛車の真向かいに、一匹のまだ幼い蛇が、鎌首をもたげて少しずつ身体を揺らしていた。オダイは牛車から跳び降りると煉瓦をひとつ拾い上げた。
いっぽう跛は足を引き摺って走りながら叫んだ、殺すんじゃねえ、オダイ、殺すんじゃねえぞ。おれが、今、行くから!
オダイは、手にした煉瓦をそのままに、こう呟く、まったく、何て豪勢な蛇だ! 辰砂のように真っ赤な顔をしていやがる! それに、頭の傘の張り具合の、見事なことときたら! おや
…… 逃げていくぞ …… 逃げていくぞ、おい! 急げ!
蛇はいまや地を辷るように逃げていた。だが、まっすぐ跛に向かってである、オダイを背後において逃げおおせようとしていたのだ。跛の姿は目に入っていなかった。
跛は叫んだ、オダイ、おめえの叩き棒を投げろ。畜生、煉瓦の間に逃げ込みやがった! 暁蛇だぜ、めったに手に入らないやつだ。捕まえたら、いい実入りになったのによ。
跛は蛇の呪い師である。呪い師であるだけではない。蛇を使って芸を見せることもする。家の軒下には、蓋を閉じた大きな煮炊き用の土釜が、彼の手でいくつも吊してある。その中に蛇たちを閉じ込めているのだ。蛇たちが老いさらばえると遠くの野原に捨ててくる。死んでしまう蛇もいる。蛇がいる間は、跛は日雇い仕事をしない。そうした時には、両面太鼓と瓢箪笛を手に、彼は蛇の踊りを見せて回るのである。実入りも悪くはない。だがそんな時は大麻や阿片を吸う量も増えるのだ。時には酒を飲むこともある。そのため、蛇たちが息絶えると同時に、跛はまた、頭上に藁で編んだ環を置き、その上に竹籠を載せて、家を出る。裕福な家々の門口に立つと、醜いその顔を少しだけ中に差し伸べて呼ばわる、日雇い仕事、いらんかね〜 …… 日雇い仕事!
声に合わせてお世辞笑いをするのだが、おぞましいまでに恐ろしく見える彼の顔は、その時ますますその凄みを増す。日雇い仕事を請け負うと、彼は骨身を惜しまず力を注ぐ。そうした時彼は手抜くことはしない。仕事がない日には、彼は籠を肩に担いだまま物乞いを始める。その日その日の実入りに応じて少しばかりの大麻や阿片を買う。お釣りがくればどぶろくをいくらか引っかけ、家に戻るとジョベダ・ビビ
[イスラーム教徒の「奥様」への尊称] の足に縋って泣きつき、こう言うのだ、おれの手に落ちたばっかりに、おめえはいつまでたっても、こんな惨めな有様だ! 飯を食わすこともできねえ! おめえを台無しにしちまった!
ジョベダは笑いながら夫の頭を撫でて言う、ちょっと、あんた …… バカな真似はよしなさいよ。さあ、放して私を …… 近所からお米をもらってくるから。
跛の涙はますます止まらなくなり、今度はジョベダの首に縋りついて言う、サリーの一枚も買ってやることができねえ。着古しの布きれを巻いたまま、おめえはその日暮らしだ。
こんな話はさておき。翌日の早暁、跛は煉瓦の山の傍に姿を現した。手には小振りの棒が一本。脇には籠を一つ抱えている。正面の東の地平にはうっすら暁光が差し始めている。樹間に止まった鳥たちはしきりに鳴き声を上げている。村のヒンドゥーの神を祀るどこかの寺では朝の神の慰撫を告げる法螺貝の音が響いている。とりわけ高く盛り上がった煉瓦の山の上にすわり、跛は四囲を、注意深く目を光らせて見渡していた。
暁の紅が次第に色濃く大きな広がりを見せてきた。その色の照り返しで、山積みになった焼き煉瓦もその色をさらに赤く染めた。跛がまとっている汚れた衣類までも赤色の染みを帯びた。彼は立ち上がった。
あれだ …… あれに違いなかろうが?
少し離れた荒地の上に見えるのは、例の幼い蛇に違いない。東の空に向かって頭をもたげ、鎌首を揺らめかして踊っている。暁の血のような光を浴びて、その色は深紅と見紛うばかりだ。頭の傘に刻まれた漆黒の菱形の印は、その赤色に囲まれてものの見事な壮麗さを醸し出している。蝶の赤い翼に刻まれた黒色の線のようにその美しさは胸に沁みる。跛は恍惚となった。思わずひとり、ああ! と感嘆の声を漏らした。
その後、そろそろと歩を進めた。幼い蛇は昇る太陽を迎えるのにすっかり心を奪われ、跛の足音が近づいてもその踊りは止まなかった。彼がすぐ近くまで来て、蛇は初めてハッと気づき振り返り見た。次の瞬間、うなり声とともに鎌首を投げた。だがその頭を再びもたげることはできなかった。跛が左手の棒で素早くその頭を押さえつけたのだ。右手で蛇の尾をつかみ、二度ほどその体を見渡して言った、雌蛇だ!
六ヵ月あまり後。大麻の売店から戻ると、跛はジョベダに言った、これを見ろよ。
中庭の土を竹箒でならしながらジョベダは答えた、何よ?
下衣の結び目を解くと、跛は小さなキラキラ光るものをひとつ取り出して掌の上に載せ、ジョベダの目の前に掲げた。それは小さなミニ ―― つまり鼻につける装飾である。
ジョベダは尋ねる、こんなに小さなミニを、どうするの?
跛は笑って答える、ビビにつけてやるんだ。
ジョベダは二の句が継げなかった。笑みを浮かべながら跛は部屋の中に入った。そうして、一匹の蛇を首に巻きつけて出て来た。例の雌蛇である。この数ヵ月のうちにさらに少し大きくなった。だがあの時の精気はない。穏やかな敵意のない様子で、ゆっくりと鎌首を少しもたげながら跛の首や肩にまとわりついている。ジョベダは言う、あんた、もう止めなさい。いくら元気がないからって、毒蛇は毒蛇でしょ。こいつら、信用できないわ。
跛は笑って言う、この毒牙が信用できない、ってわけか。だがな、こいつらにも愛情ってものがあるんだぜ。毒牙は取ってしまってもうないが、別の歯は残っているだろう? だがおれに嚙みつきはしないぜ。どこかのいい娘みたいに、ビビのやつ、おれにまといついているだろう?
―― こう言うと、彼は蛇の両の唇を押さえつけて、その口にひとつ接吻をした。
ジョベダは驚かなかった。と言うのもこの光景は彼女にとって目新しいものではなかったからだ。彼女はだが不快を露わにして言った、ああ、胸糞悪い! あんたには嫌悪ってものがないの? 何度よしなさいと言ったらわかるのかしら?
この言葉に跛は耳を貸しすらしなかった。彼は言う、そら、そら、どんな具合におれの腕に絡みついているか、よおく見ろよ! あのな、雌蛇と雄蛇がじゃれ合う時は、ちょうどこんな具合に絡み合うんだぜ。見たことがあるか? ああ! そりゃあまったく、豪勢な見物だぜ!
ジョベダは言う、そんなもの、私が見てどうなるって言うの。あんただけでたくさんよ。でもあんた、そんな風にふざけていると、そのうちそいつが、あんたのそのじゃれ合いとやらにけりをつけることになるわよ!
跛はその時、一本の針を取り出してビビの鼻に穴を開けようとしていた。足指で蛇の尾を押さえ、左手でその頭を押さえつけた。そして右手に針を取って鼻に穴を開け、そこにミニを押し込んでから放してやった。苦痛と怒りにうなり声を上げながら、ビビは何度も鎌首をもたげて跛に噛みつこうとした。手籠を楯のように構えてビビの攻撃をかわしながら彼は言う、怒るんじゃねえ、ビビ、怒るんじゃねえ。おめえがどんなに美人に見えるか、よく見るんだ! おい、ジョベダ、鏡をよこしな! こいつに、一目自分の姿を見せてやるんだ!
イヤだわ、私。
よこせよ、この通り、頼むから! 自分の姿を見てやつがどうするか、見てみようぜ!
ジョベダは夫のこの頼みを無視することができなかった。彼女は鏡を取りに部屋の中に入った。
跛は言う、ついでに辰砂をひとつかみ、持ってきてくれよ。頼むぜ。
ジョベダは部屋の中から聞いた、 何ですって? どうするつもりなの?
すっかり興に乗った笑い声を上げると、跛は言う、 来て見ればわかるよ。いまは言えねえ。
ジョベダは鏡と辰砂を持って来ると、少し離れてそれを置いた。跛は巧みにビビを捕らえ、一本の棒の先に辰砂を載せると、その頭に一本の赤い線を描いた。そうしてはあはあ笑い声を上げて言う、こいつをおれは娶ったんだよ、ジョベダ。これでこいつは、おめえの後妻だ。
続けてビビに向かって言う、おい、おい、ビビ、おめえがどんなに豪勢に見えるか、よおく見るんだ! ビビを放すと、彼は鏡をその目の前に置いた。そして、両面太鼓を叩きながら、鼻がかったガラガラ声で唄い始めた
――
知らなかった こんなことに なろうとは
ケシュト様が ゴクル村を離れ マトゥラーにお行きになるとは
ああ 知らなかったわ ……
さらに数ヵ月後。
雨季のさなか、凄まじい嵐が見舞った。跛はどこに出かけたのか、あまりの雨風に家に戻れないでいた。ジョベダは家の中に、何か得体の知れない匂いが漂うのを感じた
―― 匂いは微かだ。だが、ほんのり甘く、どこか生々しい。あちこち探し回ったが、彼女にはその正体がまったくわからなかった。
二日ほど経って跛が戻った。水の神に卑猥な罵言を浴びせると彼は言った、何か食わせてくれや、ジョベダ。すっかり腹が減っちまった。
ジョベダは水に浸した冷や飯を大皿に入れて部屋まで運んできた。足についた泥を洗い終わって部屋に入るなり、跛は言った、おいジョベダ、何の匂いだ、これは?
訳がわからないのよ、あんた。もう何日も前から、この匂いが家にこもっているのよ。
跛は黙ったまま、しきりに鼻から息を吸い込んで匂いの正体を突き止めようとしていた。あちらこちら歩き回った後、彼はビビの籠の側に立った。人間の足音を聞いて、雌蛇は籠の中でうなり声を上げた。
ふーむ!
ジョベダは気負い込んで尋ねる、何なの、いったい?
ビビの体の匂いさ。雌蛇だろ。雄蛇と番う時が来た、というわけだ。この匂いを嗅ぎつけて雄蛇がやって来るんだ。
ジョベダは驚愕した。まったく、お手上げだわ。勝手になさい。さあ、さっさとご飯を食べて!
飯を食べながら跛は言った、あいつを野原に放してやらないと。こんな時は捕まえておくわけにいかねえんだ。
彼は最後に深いため息をついた。
ジョベダはホッと安堵の息を吐くと言った、それがいいわ、あんた。あの蛇、私、見ただけで虫酸が走るの。死んだ蛇がこんなにたくさんいるのに、あの蛇ときたらくたばりもしないんだから!
飯を食べ終わると、跛は籠からビビを取り出した。その頭を押さえつけると、彼は際限なく睦言を囁いた。
ジョベダは言う、 ほら、あんた、しばらく削らなかったせいで、牙が生えてきたわよ。それに、何でそんなにいちゃいちゃするの? 早く行って、放して来なさいよ。
跛は言う、そら、そら、見ろよ、おれの腕に絡みついて、離れようとしないんだぜ!
午後になると、跛は意気消沈してすわっていた。ビビを近くの薮の中に放して来たのだ。
ジョベダは言う、何て格好ですわってるの? 大麻でも吸ったらどうなの?
ビビのことを思うと、苦しくて、なあ。
ジョベダは笑って言う、ばかばかしい! まったく、聞いてられないわ!
いいや、ジョベダ。おれは胸が苦しくてならねえんだよ。
ジョベダはそれを聞くと夫の横に腰をおろし、慈しむように首に抱きついて言う、どうして? 私のことが、いやなの?
愛情をこめて彼女に接吻すると跛は言う、ジョベダ、おめえがいてくれたおかげで、おれはこれまで何とかやってこれたんだ。おめえは、おれの命より大事だよ。
と、ジョベダが声を上げた、そら、そら、ビビが戻って来たわ! 見なさい …… 溝の中よ!
水捌けのための溝の中を、ほんとうにビビが、鎌首をもたげて動き回っていた。
跛は立ち上がろうとしながら言った、 捕まえてやる、ちょっと待て。
ジョベダは夫を力づくで押さえつけて言った、ダメよ!
続けて声を荒げ、叫んだ、出て行け! 出て行け! とっとと失せろ!
左手で乾いた牛糞をひとつ投げつけて、ビビに命中させた。蛇は怒り狂って何度も地面に鎌首を打ちつけると、徐々に溝を通って外に出て行った。
ちょうど真夜中時だったに違いない、ジョベダが叫び声を上げながら起き上がった、あんた、起きて! 起きて! 何かが私に噛みついたの!
跛は慌てて起き上がり、明かりをつけて見ると、ほんとうに、ジョベダの左足の指に、一滴の血が水の滴のように揺らめいている。
ジョベダは再び叫び声を上げた、ビビ …… あんたのビビが私を嚙んだんだわ! ほら見なさい!
飯炊き釜の周りに沿って、雌蛇はゆっくりと這い進んでいた。跛は急いで立ち上がり、蛇を籠の中に閉じ込めると言った、もしもジョベダが助からなかったら、おめえも容赦しねえからな!
ジョベダはだが、助からなかった。日の出とともに彼女の身体には死の徴候が現れた。頭髪を引っ張るとカサカサ音を立てて抜け落ちた。呪い師たちは去って行った。おぞましい顔を悲しみに曇らせて、跛は枕元にすわっていた。
老練の呪い師の一人は言った、おまえも死ぬところだったぜ、跛。命拾いしたな。やつらの怨念は凄まじいからな。たぶんおまえを嚙みに来たんだよ。
涙を湛えた目で彼の顔を見つめ、彼は首を横に振って言った、いや、そうじゃねえよ。
跛は乞食遊行者になった。彼の家屋は廃墟と化した。跛の家の横に人が往き来する道があったが、その道はいま閉ざされている。そちらを通る者はもはや誰ひとりいない。蛇に噛まれる危険がある、との噂である。そこに棲む一群の蛇は性質の悪いことで知られている
―― 暁蛇である。明け方、日が昇る頃、赤色の蛇が鎌首を揺らしながら踊っている姿が見られる。
跛はビビを殺すことができなかった。放してやったのだ、こう言いながら ―― おめえひとりが悪いんじゃねえ。これが女の性というものよ。ジョベダもおめえには、我慢ならなかったんだ。